新城城(しんしろじょう)

新城城の基本情報

通称・別名

新城陣屋

所在地

愛知県新城市字東入船

旧国名

三河国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

奥平信昌

築城年

天正3年(1575)

主な改修者

主な城主

奥平氏、水野氏、菅沼氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

市史跡(新城城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

野田城(愛知県新城市)[3.2km]
宇利城(愛知県新城市)[4.6km]
長篠城(愛知県新城市)[6.3km]
千頭峯城(静岡県浜松市)[10.1km]
亀山城(愛知県新城市)[10.1km]
月ヶ谷城(愛知県豊橋市)[10.3km]
雨山城(愛知県岡崎市)[10.4km]
古宮城(愛知県新城市)[10.6km]
牧野城(愛知県豊川市)[11.3km]
田沢城(静岡県浜松市)[13.7km]

新城城の解説文



新城城(しんしろじょう)または新城陣屋(しんしろじんや)は、戦国時代から江戸時代後期にかけて三河国(現愛知県新城市)にあった日本の城・陣屋。新城藩の藩庁であった。

概要 

天正3年(1575年)、徳川家康の長女亀姫と婚姻した奥平信昌によって築城されたという[1][2]

天正18年(1590年)の徳川家康の関東への移封ののち、池田輝政の家臣・片桐半右衛門が城代となるも、関ヶ原の戦いの後は天領となった。

水野氏などの領有(新城藩)を経て慶安元年(1648年)に丹波国より菅沼定実が7,000石で入って旗本(交代寄合)となり、同時に陣屋を構えた。定実の時代に、川舟と中馬の中継地点として栄える基盤が整えられ、新城陣屋周辺の商業地は山湊(さんそう)と称された。菅沼氏はこの地で明治時代を迎えたという。

現在は空堀のみを残すものとなっており、他の土地は市役所、中学校、小学校となっている。

江戸時代の城主 

水野家

譜代(1万3,000石) 1.水野分長(わけなが) 2.水野元綱(もとつな)

菅沼家

旗本(交代寄合) 1.菅沼定実(さだざね) 2.菅沼定賞(さだよし) 3.菅沼定易(さだやす) 4.菅沼定用(さだもち) 5.菅沼定庸(さだつね) 6.菅沼定前(さださき) 7.菅沼定賢(さだかた) 8.菅沼定邦(さだくに) 9.菅沼定志(さだゆき) 10.菅沼盈富(みつとみ) 11.菅沼定信(さだのぶ) 12.菅沼定長(さだなが)

新城城の口コミ情報

2024年09月03日 コナン遠江守
有教館跡[新城城  碑・説明板]

新城陣屋には旗本・菅沼氏が設立した藩校が置かれていました。開校時期は享保13年(1728)とされ、安永9年(1780)に領主・菅沼貞前によって「有教館」と名付けられました。

10歳から20歳の家臣の子供に入校が許され、一般の人々は入れませんでした。主に漢字を教授する大学部と弓・馬・剣などの武術を学ぶ武芸部で構成され、文武両道の学び舎でした。

2024年09月03日 コナン遠江守
大手門跡[新城城  碑・説明板]



天正4年(1576)奥平信昌により築城された新城城の大手門が中町南側中央から、江戸中期このあたりに移されました。以来、城と城下町を結ぶ重要な役割を果たしました。

大手門は間口2間(4m弱)で瓦葺き、門は観音開きで、門の下は緩やかな階段になっていたそうです。昭和60年の道路整備の時、その歴史にちなんで「大手門通り」と命名されました。

2023年10月17日 装鉄城大膳大夫乱怒
新城城



新城小学校のグラウンドの豊川側に城跡の石碑と土塁があります。土曜日で学校休みなので入れました。

2023年05月07日 足軽織部正かとざえもん
新城城



新城城!今は学校になっていて、土塁のような物が少し残っているのみです!御城印が販売されています!(新城市設楽原歴史資料館)

2023年03月21日 近江守フロクニ
欠下城[新城城  周辺城郭]



城名石碑は未舗装の登り口の北西角に有りますが、藪が凄いのでもう少し回り込まないと見つけるのが難しいです。

2023年02月08日 RED副将軍
臼子城[新城城  周辺城郭]



国道沿いから数分で辿り着く単郭のお手軽城🏯

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

1505年に作手奥平氏の家臣である佐宗重之により築かれました。
亀山城を本拠地とする作手奥平氏にとっては最南端にあたる前線拠点でした。
1545年には勢力を拡大していた新城古城の菅沼定継の侵攻により落城し、菅沼氏の拠点となります。
1556年、織田信長と今川義元の争いが激化し、菅沼氏は一族が織田方と今川方に分かれて争います。奥平氏は当初は織田方に属していましたが今川方に付き、菅沼氏の臼子城を落として取り戻します。再び佐宗氏を城代としました。
1590年、徳川家康に従っていた奥平氏は家康の関東移封に付き従い臼子城は廃城となりました。

見所
山頂を削平された単郭の城跡です。単郭にしては広さがあり南側には櫓台があり墓地となっています。北側は一段低くなっており周囲は腰曲輪が巡ります。

国道301号線沿いにありアクセス良好。
国道沿いの登城口には幟旗が立ち、数分で主郭に辿り着きます。
短時間でサクッと回れます。

2023年01月18日 近江守フロクニ
道目記城[新城城  周辺城郭]

現在の城跡は、千郷中学校用地と横浜ゴム社員寮となっており、中学校運動場の西側脇にわずかに土塁が残っている。場所は段丘端部に所在し、標高50m、比高差10mを測る。城郭の規模は、地籍図より100×100mの不整形な五角形を呈する範囲で推定されている。

永禄3年(1560年)に築城され、天正18年(1590年)に廃城となったとされる。城主は、端城城(杉山)から移った菅沼定氏や定利が知られている。
※新城市HPより転載

2022年05月04日 とし
新城城

市役所近くで路駐し、学校が休みでしたので校庭より石碑を目指しリア攻めしました。学校敷地は平日は難しいですね

2020年12月13日 【瓶割り】修理亮あぜり
新城城



しろあと資料館なるものがありましたが、閉まっているどころか機能している気配なし。
近くの小学校や市役所にあたる部分が城跡となると思われます。
(このご時世、入るのは自粛しました。)
新城市役所から北に延びる道路が大手門通りと名付けられ、交差点脇にこの辺りに大手門があった事を示す案内板が設置されています。(写真参照)
南に流れる豊川から丘陵地帯となり、市役所辺りまでとなるとかなりの規模のお城だったと想像出来るがあまりにも遺構が少ない。
(見れない?)

2020年03月05日 陸奥守たろす
新城城



御城印は「設楽原歴史資料館」にて入手(300円/枚)できます。
設楽原歴史資料館では他にも近隣の「野田城」「宇利城」と「設楽原」の御城印も入手可能。


2013年01月04日 三河守コーキしゃん
新城城

新城小学校のグラウンドが新城城跡です。

市民体育館に駐車できます。

南側を流れる豊川を堀代わりにした、後ろ堅固のお城です。

東西に掘と土塁、櫓台跡が少し残っています。



2011年09月29日 たかじん。常陸介
新城城

石碑は小学校校庭内にあるので石碑を撮影する時は小学校職員室へ行きアポ取ってから行くと◎です。(^ー^)

新城城の周辺スポット情報

 大手門跡(碑・説明板)

 有教館跡(碑・説明板)

 岩広城(周辺城郭)

 石田城(周辺城郭)

 臼子城(周辺城郭)

 大谷城(周辺城郭)

 夷城(周辺城郭)

 道目記城(周辺城郭)

 欠下城(周辺城郭)

 徳定城(周辺城郭)

 川路端城(周辺城郭)

 川路城(周辺城郭)

 小川路城(周辺城郭)

 来迎松城(周辺城郭)

 新城古城(周辺城郭)

 織田信長本陣跡(寺社・史跡)

 真向遺跡(寺社・史跡)

 神荒居遺跡(寺社・史跡)

 神の前遺跡(寺社・史跡)

 設楽原歴史資料館(御城印)

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