城之崎城(きのさきじょう)
城之崎城の基本情報
通称・別名
- 見付新城
所在地
- 静岡県磐田市見付
旧国名
- 遠江国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 徳川家康
築城年
- 永禄12年(1569)
主な改修者
- -
主な城主
- 徳川氏
廃城年
- 元亀元年(1570)
遺構
- 土塁、堀跡
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
匂坂城(静岡県磐田市)[5.7km]
馬伏塚城(静岡県袋井市)[6.4km]
久野城(静岡県袋井市)[7.7km]
頭陀寺城(静岡県浜松市)[10.4km]
社山城(静岡県磐田市)[10.5km]
横須賀城(静岡県掛川市)[10.5km]
飯田城(静岡県周智郡)[10.5km]
浜松城(静岡県浜松市)[12.9km]
掛川城(静岡県掛川市)[14.8km]
米津台場(静岡県浜松市)[15.6km]
城之崎城の解説文
城之崎城の口コミ情報
2024年09月21日 平和亮主水佑
城之崎城
2023年、城之崎城フェスタで行きました。現在は球場になっていますが、堀跡は残っており、地形に僅かながら遺構が見えます。静岡新聞の記事によれば、家康はここに大きな城を建設する予定だったようです。が、突然建設を中止。
2022年05月03日 山西の無職人千閑斎
一言坂古戦場[城之崎城 碑・説明板]
本多平八郎が大活躍した一言坂古戦場ですが…私は説明板横の立入禁止の階段の先が気になりました。
2022年05月03日 山西の無職人千閑斎
提灯野遺跡[城之崎城 碑・説明板]
三方原の前哨戦で木原畷→三ヶ野坂→一言坂と撤退戦をした徳川軍が夜間、沼田に提灯を灯し武田軍を誘き寄せたと伝えられてます。
パ○ンコ屋の駐車場の一画に石碑と説明板があります。自分は土地改良碑かと思ってました。
2022年05月03日 山西の無職人千閑斎
三ヶ野坂古戦場[城之崎城 碑・説明板]
三ヶ野坂古戦場(大日堂古戦場)
三方原の戦いの前哨戦が行われた。本多平八郎が松の大木に登り、木原畷に陣を敷いた武田軍を物見したと伝えられている。
ここは路地の突き当たりで車は通り抜け出来ません。入ったら最後バックで出るしかありません、ご注意下さいませ。
2021年06月19日 山西の無職人千閑斎
見附端城[城之崎城 周辺城郭]
古来遠江の中心地であった見附には国府が置かれていました。南北朝期に今川範国が居館を築いて以来、遠江今川氏(今川了俊→堀越氏)
の拠点の一つだった様です。
時代が下り花蔵の乱では堀越用山は義元に叛旗を翻し、義元の命を受けた犬居城の天野虎影に攻められ廃城となりました。
その後今川氏真により復旧されましたが永禄六年に焼失したとあります。
遺構としては大見寺の境内の南側と西側に土塁が残っています。
2020年12月14日 【瓶割り】修理亮あぜり
中泉陣屋[城之崎城 周辺城郭]
磐田駅南口ロータリーから真っ直ぐ南に向かいファミマを越えた公園がそれに当たります。普通の公園に案内板があるだけで、心踊るものは何もありませんでした。何枚か写真を撮りましたが入口で立っていたお迎え待ちと思われるJKに不審者扱いな感じでジロジロ見られました。
2020年09月27日 山西の無職人千閑斎
中泉陣屋[城之崎城 周辺城郭]
磐田駅南側のファミマ裏の公園付近です。遺構は見当たりませんが、門が少し離れた場所に現存しているようです。
2017年01月02日 まー刑部卿
中泉陣屋[城之崎城 周辺城郭]
磐田駅南口ロータリーからすぐでファミリーマート裏にある。陣屋跡は御殿・二之宮遺跡があった場所に建っていたため公園名は御殿遺跡公園となっている。駐車場はないためファミリーマートに停めるか路駐。遺構なし。移築門は3箇所。表門:市内見付にある西光寺、裏門:市内中泉にある西願寺。共に境内に駐車場有り。市内新島にある伊藤家(門に表札なし)、ただし伊藤家の前の道は狭く駐車するスペースがないため入る手前の道路に路駐してください。
城之崎城の周辺スポット情報
西光寺の表門(中泉陣屋の表門)(遺構・復元物)
西願寺の山門(中泉陣屋の裏門)(遺構・復元物)
提灯野遺跡(碑・説明板)
一言坂古戦場(碑・説明板)
三ヶ野坂古戦場(碑・説明板)
見附端城(周辺城郭)
中泉陣屋(周辺城郭)
城之崎城 (きのさきじょう)は、静岡県磐田市見付にあった日本の城。
磐田原台地の南、城之崎丘陵上の磐田市見付に位置する城山球場には、かつて徳川家康によって城が築かれました。見付には古代から遠江の国府が所在し、中世には守護所が置かれました。北には東海道見付宿が、南には今之浦の低湿地が広がるこの地は交通の要所であり、城を築くのには大変よい場所でした。
遠江を支配することとなった徳川家康は、永禄12年(1569)、この地に城を築き始めました。ところが、武田軍に対し天竜川を背に戦うのは不利であること、岡崎城や織田信長との連携が取りにくいことなどから元亀元年(1570)には造営を中止し、浜松城に本拠を移しました。
現在残る唯一の絵図である遠州見付古城図には、三方を入江で囲われた最高所に本曲輪が、それを取り囲むように他の曲輪が描かれています。
現在、土塁の一部が残る城山球場周辺は、城之崎城跡として遺跡となっています。