藤島城(ふじしまじょう)
藤島城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 福井県福井市藤島町37
旧国名
- 越前国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 林光明
築城年
- 南北朝時代
主な改修者
- -
主な城主
- 林氏、平泉寺衆徒、斯波氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
福井城(福井県福井市)[5.3km]
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藤島城の解説文
藤島城の口コミ情報
2026年04月17日 マグロ常陸介祐平
林城[藤島城 周辺城郭]
藤島城から南西に約500m程に位置しています。理由は分かりませんが、藤島城と混同されて伝承されるようで、築城者は林光明とされています。また、城主として波多野出雲守や朝倉氏の家臣土肥左馬が候補となっています。波多野氏は相模波多野庄を本貫とする武士で、越前志比庄(永平寺町付近)に地頭として所領を持ち、鎌倉時代中期の義重以降、出雲守の官途を名乗る者が多く、出雲守が誰を指すのか分かりません。波多野氏(室町幕府の評定衆・奉公衆から後に朝倉氏の家臣)は戦国時代末期まで永平寺町花谷の波多野城(登録城)を拠点としており、林城は少々離れています。朝倉氏の家臣とされる土肥左馬に関しては分かりませんでしたが、戦国期の武士と思われ、お城は戦国時代まで存続したのかもしれません。
お城は東館と西館と呼ばれる2つの曲輪で構成され、日本城郭大系が書かれた昭和50年代まで堀と土塁の痕跡が残っていたようですが、現在はJA福井の施設や住宅、田畑となり遺構は残っていません。
2026年04月16日 マグロ常陸介祐平
藤島城
新田義貞が戦没するきっかけとなったお城です。
平安時代末期に越前の反平家勢力として源義仲と共に戦った、林光明の築城とも伝わるようです。義仲は砺波山の戦い(俱利伽羅峠の戦い)後に平泉寺に藤島七郷を寄進したとされ、以降この地は平泉寺との繋がりが継続したようです。また、平泉寺と関連する武士に藤島右衛門尉助延(義仲方として討死)がおり、在郷の武士なのかもしれません。
南北朝時代なると北朝方の越前守護斯波高経が九頭竜川・足羽川流域に足羽七城と呼ばれる城塞群を構築しますが、藤島城もそのひとつに含まれるとされています。当初北朝方であった平泉寺の衆徒の一部は南朝方に造反し、建武5年(1338年)の日野川の戦いで斯波高経を越前国府から小黒丸城に敗走させるも、延暦寺との対立から北朝方に付くことを条件に藤島の地を安堵され藤島城に籠っています。南朝方の新田勢は藤島城を包囲しますが平泉寺衆徒の抵抗で苦戦し、新田義貞は僅か50騎で救援に向かいますが燈明寺畷で斯波の軍勢に遭遇し戦没したとされます。
城跡は西超勝寺となっており、本堂の裏に僅かに土塁の痕跡が残っています。また、お寺の北側には平泉寺の関連と思われる白山神社が鎮座しており、本殿の背後には塚があります。塚はお城と関係するのでしょうか。
西超勝寺には東京美術学校の設立に貢献した、思想家の岡倉天心の実家福井藩士岡倉家累代の墓があります。
2026年04月15日 マグロ常陸介祐平
松岡陣屋[藤島城 周辺城郭]
福井藩の支藩、松岡藩の陣屋です。初代藩主は福井藩2代目松平忠昌の庶長子昌勝(秀康の孫)で、正保2年(1645年)に忠昌の死後分割相続により立藩しています。本藩の福井藩は正室(継室)の子の光通が継いでいます。陣屋の造営開始は慶安元年(1648年)で、二重の方形構造で土塁と水堀が巡っており、当時は「御館」と呼ばれていたようです。昌勝の三男で2代目藩主の昌平(後の宗昌)が享保6年(1721年)に本藩の福井藩の9代目藩主(8代目は実弟の吉邦)となり松岡藩は廃藩、陣屋は廃されて「明屋敷」と呼ばれる畑となり遺構は残っていません。説明板の右側の椿の木は、昌勝公が愛観したものと伝わるようです。
陣屋の遺構は残りませんが、松岡の町は昔の街並みがよく残り、見応えがありました。また、見逃してしまいましたが近くにある天龍寺は菩提寺で、昌勝公のお墓があるようです。
2025年12月07日 孤独の城めぐり
藤島城
駐車場が無かったのでお寺の前に停めさせていただきました。土塁は本堂裏にあります。所要時間は約10分です。
2022年04月04日 越前の怜
藤島城
南北線期にはあったと言われる足羽7城のひとつ。戦国期には超勝寺が一向一揆の中心的大寺であり、朝倉氏と激しく対立する。朝倉氏に敗れた後は加賀に逃亡。朝倉氏滅亡後、越前に舞い戻り天正一向一揆により越前は本願寺の領土となる。超勝寺の最後は織田家により焼き討ちかとおもわれます。
土塁がわずかにのこっていますが、周囲の道路は当時のままか?
2020年12月05日 播磨守風のこうちゃん
藤島城
えちぜん鉄道、東藤島駅から徒歩5分です☝️大きなお寺ですが駐車場、見当たりませんでした😑
2020年10月30日 あみたーば中務大輔
藤島城
西超勝寺さんは浄土真宗本願寺派で、東超勝寺さんと偏超寺さんは真宗大谷派です。東西超勝寺のルーツは本願寺第5代綽如上人です。朝倉家の朝倉宗滴と越前一向一揆の争い(九頭竜川の戦い)で、一時越前から加賀に亡命し、その後、加賀門徒と越前門徒の内部抗争(大小一揆)になったそうです。争いは越前門徒が勝ちましたが、織田軍の柴田勝家、前田利家、佐々成政、佐久間盛政の進攻で朝倉家は滅亡し、一向一揆は壊滅状態になったそうです。その後、本願寺が徳川ゆかりの東と、豊臣ゆかりの西に分派した時に超勝寺も東西に分かれたそうです。一向一揆に興味を持たれた方はぜひ本願寺第8代蓮如上人ゆかりのあわら市の吉崎御坊と石川県小松市の鳥越城跡をお勧めします。鳥越城跡は綺麗に整備され、一向一揆の資料館もあります。柴田勝家と佐久間盛政の恐ろしさもわかります。
2020年08月31日 左衛門佐平八郎
藤島城
西超勝寺が城跡です。住宅街の中で道が狭くすぐ近くに「東超勝寺」「偏超寺」など似たようなお寺があります。北側には僅かに土塁が残っているそうです。最寄駅の勝山永平寺線の東藤島駅はこじんまりしていてとても可愛いかったです。










現在は寺地(西超勝寺)となっており、寺境内に土塁が残る。
交通
JR北陸本線福井駅⇒えちぜん鉄道「東藤島」下車⇒徒歩5分