日戸館(ひのとだて)

日戸館の基本情報

通称・別名

一本杉館

所在地

岩手県盛岡市日戸字古屋敷

旧国名

陸中国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

日戸(川村)氏

築城年

不明

主な改修者

主な城主

日戸(川村)氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

厨川柵(岩手県盛岡市)[11.2km]
盛岡城(岩手県盛岡市)[12.2km]
志波城(岩手県盛岡市)[15.3km]
田頭城(岩手県八幡平市)[17.1km]
見前館(岩手県盛岡市)[18.2km]
一方井城(岩手県岩手郡)[19.5km]
徳丹城(岩手県紫波郡)[21.5km]
雫石城(岩手県岩手郡)[23.0km]
田代館(岩手県宮古市)[24.6km]
高水寺城(岩手県紫波郡)[26.2km]

日戸館の口コミ情報

2022年05月02日 原右大臣昌碩
下田館[日戸館  周辺城郭]



東の北上川、北の松川の氾濫平野の南西にある比高30mの段丘が、その南西面を流れる生出川で陣場平という台地から切り離された所に位置している。唯一台地と接続していた北部は、今は道路となっている空堀で切り離されている。東の麓には集落と喜雲寺がある。 館と集落の北に古い河道を利用したと見られる幅最大30mほどの堀があった様だが、今は、田、宅地、喜雲寺の駐車場となっていて、名残と見られる水路が流れている。

館は不整形の南北二郭からなり、北廓は東西100m、南北50mで今は稲荷神社と畑がある。南辺に土塁の痕跡が見られる。

通路と墓地、観音堂がある底幅8mの空堀で隔てた南郭は東西100m、南北200mで、墓地と駐車場となっている北端と、それに続く農地の中央部がその他と比べ一段高くなっていて、馬場跡と思われるとのことである。

現在、館跡は喜雲寺が所有している事を攻城中偶然お会いした以前の所有者から伺った。墓園の部分は嘗て畑であったが、多少の起伏はあったものの、下記参考資料の記述同様、土塁など明らかな構造物は同区域にはなかったとのことでした。

豊臣秀吉の命で南部氏が天正20年に破却した(一部は温存された)城館の目録である南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上に列挙された48城館の中で破却された36城の一つ。

岩手、紫波両郡の北上川東岸に広がった河(川)村党の一人、下田弥三郎秀祐の居城。秀祐以外には内記秀邑、清之丞秀勝が知られている。

北東には松川の北上川合流部左岸の矢城館、北には松川右岸の松内館、南には生出川河口南のふん館(下田八幡館)を出城として配置していた。
(参考:岩手県中世城館跡分布調査報告書)

2022年04月30日 原右大臣昌碩
川口平館[日戸館  周辺城郭]



別称 葎(むぐら)館、もぐら館。現在は四十四田ダムの湖水に浮かぶ半島に見えるが、かつては西を流れる北上川と東が流れてくる飛田川の合流点の北にあった標高220m、比高20mの尾根である。尾根の裾に広がる平地が川口平で、今でも渇水時に姿を現す(Appの標準地図は渇水時を図示し、航空写真は増水時)。尾根の先端部にニ重の堀を巡らせた東西50m、南北60mの単郭の館があった。館の南にある小野松山に奥宮、その南の小鳥沢に里宮を持つ小野松観音の別当鎌田和泉信行の居館と伝わる。

西の北上川と館の間の狭い川岸を奥州街道が通っていた。飛田川を遡り、途中で北にそれる道を行くと日戸館や玉山館に通じる。飛田川の支流、中沢に沿って小野松山の東裾を南下すると米内館や、盛岡と小本海岸を繋ぐ小本街道に至る。

永禄3年(1560)に鎌田和泉信行が記した「小野松観音略縁起」によると、和泉の祖父信継は、陸奥国信夫郡鎌田村より、永正17年(1520)に葎舘へ移ったが、大永2年(1522)8月8日、館の西側で山津波が起きて、土砂で北上川の川筋が西に押し寄せられた。このころより同地を川又と呼ぶ様になったという。その後、鎌田和泉の代で川口平館から少し東の富田(現在の盛岡市川又字赤坂の飛田地区)に移ったという。

また、山津波が起きたながた淵の地中でもぐらの主が暴れたので山津波が起きたという伝説もあった。

1968年に四十四田ダムが完成しかつての奥州街道が水没する時に館の南端に橋が掛かり、そこから館跡を東西二つに分ける様に南北に道路が掘られた。その後西側は削平されて完全に殲滅され館跡の東半分のみ(東西20m、南北60m)が残った。1997年に橋と道路が館跡の東辺から尾根の基部を通る様付け替えられる際に、工区内の発掘調査が実施され、頂部の平場から3.5〜4m下、深さ0.7〜1.5m、幅0.6〜2.7mの箱薬研堀が調査区域内で46m確認され、調査区域外にも続いていた(第1号堀)。その約10m下に幅90cm、深さ10cmの堀が、南は掘削で失われているものの、40mに亘って確認された(第2号堀)。

残された館跡は深い藪に覆われているが、頂部の平場は比較的藪が空いている。また、橋との間の東斜面には、上記の第1号堀の続きと見られるV字形の堀状構造が湖面まで続いているのが見られる。

2022年04月17日 原右大臣昌碩
平田野館[日戸館  周辺城郭]



別称 下くら沼田館。北上川東岸の丘陵、平田野の裾が北上川に面する所にある。資料には比高20mとあるが、病院建設、農地化のためか、平坦化して比高5m程度。館の南東は堀切で丘陵から切り離され、そこを奥州街道であった旧国道4号線が通っている。また、航空写真や傾斜量図では筆の穂先の様な形に見える館の北西端の辺りが最も北上川に近く、嘗てそこに舟場があって、対岸の下田地区への渡河や北上川水運に使われた。南北に走る奥州街道を押さえることができ、かつ、それぞれ同じ川村氏一党である東の日戸氏、玉山氏らと北上川西岸の下田氏との往来も担う交通の要衝であった。

 北西端に比高2m、7m四方程度の藪だらけの削平地があり、ついで1m強高い9m×11mの郭があり、稲荷神社の小さい祠が祀られている。幅3m程の空堀を越えると東西60m、南北100mの楕円形の郭となる。
 更に、嘗て空堀であったと見られる道路を渡ると東西100m、南北140mの不整形の、奥州街道に面していた郭に至る。現在この郭に病院が建てられている。

 周囲は湿地であったが、館の南縁の農道、北縁の用水路が嘗て堀であった可能性が高いとされる。沼田の長者とも言われた平田野庄司家次の居館と伝承されている。

2021年12月14日 原右大臣昌碩
二子沢館[日戸館  周辺城郭]

大二子山から南に伸びる尾根の突端にあり、西に二子沢、東はその支流が流れている。山頂の130×90mの平場と190×40mの腰郭、土塁からなり、麓からの頂部までの比高は30m強。腰郭と頂部の比高は10m強。登口が民家の敷地内なので遺跡内には立ち入り難い。尾根を挟んで東に約1km離れた玉山館の支城と考えられている。城主は玉山直秀嫡子大和だったのではないかとされている。(参考文献:岩手中世城館跡分布調査報告書)

2020年09月22日 原右大臣昌碩
常光寺[日戸館  寺社・史跡]

曹洞宗日照山常光寺。日戸館のある尾根の南縁に沿った道を、館から東に進んだ所にある。1886年、当時の住職石川一禎の長男として、石川一、後の歌人石川啄木がここで生を受けた。

2020年09月22日 原右大臣昌碩
玉山館[日戸館  周辺城郭]

姫神山から南西に伸びた尾根の尖端にある中世城館跡。南に台形の大館、北に三角形の小館が空堀を挟んで隣接しそれらを腰郭が取り囲んでいる。遺構の殆どがそのままの形で農地として利用され、建物が無く、大きな木も南東部に限られているため、航空写真でその縄張がよく見て取れる。日戸館主と同族で、岩手郡・紫波郡の北上川東側を領した河村一族の庶流である河村小三郎直秀が同地を得て舘を築き玉山氏を名乗った。慶長年間、玉山氏が盛岡城下に居を移した際に廃城となった。
直秀の孫娘は南部家29代当主重信の正室となり、30代行信を生んでいる。

日戸館の周辺スポット情報

 説明板(碑・説明板)

 日戸舘跡・日戸神楽・日戸八幡神社の解説(碑・説明板)

 玉山館(周辺城郭)

 二子沢館(周辺城郭)

 蒲田館(周辺城郭)

 平田野館(周辺城郭)

 川口平館(周辺城郭)

 下田館(周辺城郭)

 日戸八幡神社(寺社・史跡)

 常光寺(寺社・史跡)

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