川口平館

川口平館([日戸館  周辺城郭])

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川口平館の口コミ情報

2022年04月30日 原陸奥守昌碩


別称 葎(むぐら)館、もぐら館。現在は四十四田ダムの湖水に浮かぶ半島に見えるが、かつては西を流れる北上川と東が流れてくる飛田川の合流点の北にあった標高220m、比高20mの尾根である。尾根の裾に広がる平地が川口平で、今でも渇水時に姿を現す(Appの標準地図は渇水時を図示し、航空写真は増水時)。尾根の先端部にニ重の堀を巡らせた東西50m、南北60mの単郭の館があった。館の南にある小野松山に奥宮、その南の小鳥沢に里宮を持つ小野松観音の別当鎌田和泉信行の居館と伝わる。

西の北上川と館の間の狭い川岸を奥州街道が通っていた。飛田川を遡り、途中で北にそれる道を行くと日戸館や玉山館に通じる。飛田川の支流、中沢に沿って小野松山の東裾を南下すると米内館や、盛岡と小本海岸を繋ぐ小本街道に至る。

永禄3年(1560)に鎌田和泉信行が記した「小野松観音略縁起」によると、和泉の祖父信継は、陸奥国信夫郡鎌田村より、永正17年(1520)に葎舘へ移ったが、大永2年(1522)8月8日、館の西側で山津波が起きて、土砂で北上川の川筋が西に押し寄せられた。このころより同地を川又と呼ぶ様になったという。その後、鎌田和泉の代で川口平館から少し東の富田(現在の盛岡市川又字赤坂の飛田地区)に移ったという。

また、山津波が起きたながた淵の地中でもぐらの主が暴れたので山津波が起きたという伝説もあった。

1968年に四十四田ダムが完成しかつての奥州街道が水没する時に館の南端に橋が掛かり、そこから館跡を東西二つに分ける様に南北に道路が掘られた。その後西側は削平されて完全に殲滅され館跡の東半分のみ(東西20m、南北60m)が残った。1997年に橋と道路が館跡の東辺から尾根の基部を通る様付け替えられる際に、工区内の発掘調査が実施され、頂部の平場から3.5〜4m下、深さ0.7〜1.5m、幅0.6〜2.7mの箱薬研堀が調査区域内で46m確認され、調査区域外にも続いていた(第1号堀)。その約10m下に幅90cm、深さ10cmの堀が、南は掘削で失われているものの、40mに亘って確認された(第2号堀)。

残された館跡は深い藪に覆われているが、頂部の平場は比較的藪が空いている。また、橋との間の東斜面には、上記の第1号堀の続きと見られるV字形の堀状構造が湖面まで続いているのが見られる。

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