高輪大木戸(たかなわおおきど)
高輪大木戸の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 東京都港区高輪2-19
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 関所
天守構造
- なし
築城主
- 徳川幕府
築城年
- 宝永7年(1710)
主な改修者
- -
主な城主
- 徳川幕府
廃城年
- -
遺構
- 石垣
指定文化財
- 国史跡(高輪大木戸跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
白金館(東京都品川区)[2.0km]
御殿山城(東京都品川区)[2.1km]
毛利甲斐守邸(東京都港区)[2.5km]
太田道灌城(東京都港区)[2.7km]
西久保城(東京都港区)[2.9km]
品川台場(東京都港区)[2.9km]
品川氏館(東京都品川区)[3.0km]
浜御殿(東京都中央区)[3.0km]
汐留屋敷(東京都港区)[3.4km]
目黒氏館(東京都目黒区)[3.5km]
高輪大木戸の解説文
[引用元:Wikipedia「高輪大木戸」の項目]
File:MET DP123622.jpg|thumb|250px|昇亭北寿「東都品川宿高輪大木戸」
高輪大木戸跡(たかなわおおきどあと)は、高輪大木戸の史跡である。1928年(昭和3年)、国の史跡に指定。東京都港区高輪二丁目19番先に所在し、国道15号の泉岳寺交差点の北東側に位置する。
歴史
木戸は最初1616年(元和2年)に現在の場所より700メートルほど北(現在の港区芝5-29-16)に芝口門として設置され、高札場も置かれ札の辻となっていた。芝口とは京方面から江戸に入るときに、ここから先が芝であるという意味である。街道の両側に築かれた幅約20メートルの土塁の間に木戸を設け、明け六ツに開き、暮れ六ツに閉じて、治安の維持と交通規制の役割を果たした。
その木戸は1710年(宝永7年)に現在の位置に移転し、大木戸となり名称も高輪大木戸となり、東海道で江戸府内に入る入口、江戸の南の出入口の役割を担った。移転後の木戸は両脇に長さ五間(9メートル) 、幅四間(7.2メートル) 、高さ一丈(10尺=3メートル)の石垣であり、間に柵と門が設けられた。1831年(天保二年)には芝口門の高札場もここに移され[1]、芝口門の場所は元札ノ辻と呼ばれるようになった。
当時は海岸線沿いの場所で[2]、大木戸の東側に海(江戸湾)が広がり、東海道を西へ旅する人を見送る人々が大木戸北側の店で宴会を催すなど常に賑わいのある場所で、 江戸後期に刊行された『江戸名所図会』にもこの大木戸の絵と説明文が掲載された。[3] 歌川広重の「東都司馬八景 高輪帰帆」や 『東海道名所風景』の「東海道名所之内 高輪大木戸」でも描かれた[4]。
江戸時代後期に出入りを制限する門としての機能は停止されたが、石垣は残された。
幕末期に伊能忠敬はここを全国測量の基点としたとされる。
近くに泉岳寺があり、そこには赤穂浪士の墓所もある。
西側石垣撤去、史跡指定、現在の史跡
1868年(明治元年)、新政府は西側の石垣を撤去した。
1876年(明治9年)に四谷大木戸の石垣と石畳が撤去されたため、高輪大木戸の東側の石垣は史跡としての価値が高まっていた。新政府には、東側の石垣まで撤去しようとする者がいたが、撤去されず今日に至っている。
1928年(昭和3年)2月7日、国の史跡に指定。1932年(昭和7年)以降に、標柱・銘板・説明板が設置された。石垣に埋め込まれている銘板には次のように書かれている。
平成期に設置された説明板には次のように書かれている。
ギャラリー
付近の交差点と駅
付近には高輪大木戸跡交差点がある。(国道15号)[5]
1968年(昭和43年)近隣に都営地下鉄泉岳寺駅が開業しA4出入口から50m程度離れている。
2020年(令和2年)3月14日には、近隣に高輪ゲートウェイ駅が開業した。この駅名「高輪ゲートウェイ」は高輪大木戸に因んでいる。2018年12月7日の朝日新聞はJR東日本の社長による説明の概要を掲載しており、国の史跡に指定されている高輪大木戸に対する訳語として用いた、という説明になっている[6]。また数日後、同社は「この地域は、古来より街道が通じ江戸の玄関口として賑わいをみせた地であり」と命名の理由を発表した[7]。
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高輪大木戸の口コミ情報
2024年07月21日 ペッカー弾正少弼
高輪大木戸
石大きめです。2024年7月現在、周りは高輪ゲートウェイ駅前工事中です。
2024年07月15日 マグロ常陸介祐平
太田道灌物見台[高輪大木戸 周辺城郭]
太田道灌が斥候を置いたと伝わる塚(写真6枚目)で、亀塚と名付けられています。古墳と思われていましたが、発掘調査では埋葬施設や周壕が見つからなかったので、古墳とは断定されていないようです。聖坂を少し下った所にある亀塚稲荷神社の由緒書には、太田道灌が物見台(燈台)を置くにあたり守護神として創建したとあります。境内には5基の板碑が見られます。
亀塚のある亀塚公園は、もともとお隣の済海寺(更級日記の竹芝寺)の境内で、その後公園部分が沼田藩土岐家の下屋敷となっており、塚の上にある亀塚碑は、藩主の土岐頼煕により建てられています。明治になると皇族華頂宮家の屋敷となり、聖坂側の入口の公園らしからぬ塀は、華頂宮邸の遺構です。
亀塚の崖下には、御田八幡神社が鎮座しており、史跡巡りにはよい場所です。
2024年05月12日 RED副将軍
太田道灌物見台[高輪大木戸 周辺城郭]
港区高輪エリアに残存する物見台
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
文明年間(1469年〜1487年)に太田道灌が築いたと伝わります。
享徳の乱や長尾景春の乱の際に斥候(物見)として利用された様です。
江戸時代には上野沼田藩の土岐伊勢守の下屋敷となり、明治維新後には皇族華頂宮家の宮邸となりました。
見所
三田台の高台に築かれており、かつては関東平野全体を見渡せたとされます。
現在は亀塚公園となり、高層ビルが立ち並ぶため眺望は制限されています。
行き方は、泉岳寺駅または白金高輪駅から徒歩10分程度です。
都心の高級住宅街に残る遺構です。偶にはこんなのも。
2024年01月28日 大膳大夫DanchiGuy
高輪大木戸
名前由来の高輪ゲートウェイ駅からは少し歩きます。最寄駅としては泉岳寺駅の方が近いです。石碑や説明の看板は分かりやすく、石垣は残っているのは片側だけですが、往時の江戸の玄関口たる大きな構えを偲ばせるほどのものでした。
2023年09月01日 RED副将軍
高輪大木戸
いわゆる高輪ゲートウェイです✨
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
1710年に江戸幕府によって築かれた大木戸。
東海道から江戸府内の入口として、また南の出入口として設けられました。
築造当初は柵・門・土手・石垣・門番所がありましたが、度重なる類焼により1828年には石垣と土塁を残すのみとなりました。
見所
高輪大木戸跡として国指定史跡です。
泉岳寺駅のA3出口からすぐ、第一京浜沿いに石垣が残ります。
伊能忠敬は、日本地図の作成に際して高輪大木戸を起点として測量を初めたことでも有名です。
2023年05月20日 かつアニぃ左兵衛督
高輪大木戸
都営浅草線泉岳寺駅出口の前、今ガンガンに工事中の高輪ゲートウェイ一帯の端にあります。今工事の影響で正面に回ることは出来ませんがかろうじて石碑の正面は見ることができます。そのまま赤穂浪士に思いを馳せて泉岳寺まで足を伸ばすのとセットで訪れることをおススメします。
2022年08月07日 マグロ常陸介祐平
高輪大木戸
第一京浜沿いにありながら保存されたのは凄いことだと思います。目の前で高輪ゲートウェイの開発工事をしていますが、アクリル板越しに鉄道遺跡を見ることが出来ました。
2022年07月17日 沼田乃豆腐屋
細川越中守下屋敷跡[高輪大木戸 遺構・復元物]
この石は、センチュリー三田ビル建設に伴う掘削工事中に出土したもの。
江戸城の石垣などに広く用いられている伊豆産の火成岩だが、加工の特徴から江戸城が建設された江戸時代初期ではなく、江戸時代中期の可能性が高いとのこと。
古地図や古文書によると明和年間(1760年頃)この地には細川越中守の下屋敷があり、高さ1丈2尺(約3.6m)長さ227間(約409m)の石垣があったとのこと。
おそらく、当時の護岸用の石垣であったと考えられる。
2022年04月08日 左近衛少将てつ
高輪大木戸
国道15号沿いの海側の高輪ゲートウェイ駅の近くにあります。立派な石垣で当時の面影が残っています。
2021年12月12日 薩摩安房守義弘維新斎
高輪大木戸
東海道から江戸府内への入口である高輪大木戸。大きい土塁に石垣で整備され、幕末に伊能忠敬がここを全国測量の基点とした場所らしい。JR高輪ゲートウェイ駅や泉岳寺から徒歩数分で行けます。
2021年05月24日 Tenshi49
高輪大木戸
国道15号線の脇にあります。しかし、山手線高輪ゲートウェイ駅周辺の再開発で荒れ放題で、今後どうなるのかな?近くには昔の新橋から横浜への丘蒸気の軌道の埋め立ての跡(土盛)が見られます❗️