御殿山城(ごてんやまじょう)
御殿山城の基本情報
通称・別名
- 太田道灌館
所在地
- 東京都品川区北品川4(推定地)
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 太田道灌
築城年
- 長禄年間(1457〜1460)
主な改修者
- -
主な城主
- 太田氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- なし
周辺の城
-
品川氏館(東京都品川区)[1.1km]
高輪大木戸(東京都港区)[2.1km]
梶原氏館(東京都品川区)[2.1km]
白金館(東京都品川区)[2.5km]
浜川砲台(東京都品川区)[2.7km]
荏原氏館(東京都品川区)[3.2km]
品川台場(東京都港区)[3.5km]
目黒氏館(東京都目黒区)[4.1km]
新井宿城(東京都大田区)[4.3km]
馬込城(東京都大田区)[4.4km]
御殿山城の解説文
御殿山城の口コミ情報
2023年06月04日 伊豆守尚人
御殿山城
気分は都会の中のオアシス…とはいきませんでした
2023年05月20日 かつアニぃ左兵衛督
御殿山城
高級住宅街である御殿山の一角、東京マリオットホテルの庭園の一番端に位置してます。本当にココが品川からすぐのところなのかと思ってしまうような静寂さで心が落ち着きます。ダラダラ歩いても大崎駅から20分もあれば行けるのでは?ぜひ足を運んでみてください。
2023年01月29日 治部大輔むろぴー
御殿山城
線路上の橋から名残が見えて壮観です。今はオフィスビルになっていて、帰り道によく見ています。
2022年11月24日 noble権中納言弥勒菩薩
御殿山城
近世以前から開発著しい辺りなので、城跡らしい遺構はありません。『御成道』や『道灌通り』など、往時を偲びながら散策するのがよろしいかと。
2022年08月09日 左大臣国盗りひろくん
御殿山城
立派なホテルがあって思ったより閑静なところでした
2022年02月12日 田部朝臣土持安房守
鈴木道胤屋敷[御殿山城 関連施設]
「東京都の中世城館」によると、太田道灌が御殿山に居を構えた時分、妙国寺(現・天妙国寺)の伽藍を調えた有力者・鈴木道胤と親交があり、常行寺の東の微高地に屋敷があったと推測。との事。地理院地図で微高地はここ。
2022年01月22日 左近衛少将てつ
御殿山城
御殿山トラストタワーから御殿山庭園に向かう途中に御殿山の説明看板があります。(エントランスから左手に向かう)
説明看板は、見つけにくいです。また、遺構は特に何も残っていないようです。
2021年03月08日 【城郭道】たっきー
鈴木道胤屋敷[御殿山城 周辺城郭]
中世の豪商、鈴木同胤(すずきどういん)の屋敷太田道灌、鎌倉公方足利氏とも関係を持ち品川湊を支配していた。所在地は新馬場駅周辺とされ品川神社や定行寺(じょうぎょうじ)の諸説があり特定できない。どちらも市街地で遺構は認められない。
2017年06月12日 柏木常陸介マサカド
御殿山城
②品川区北品川3-2-3のJRの線路裏にある「群書類従板木置場」の立て札。
寛政10年(1798年)に国学者で国文学・国史を主とする一大叢書(今の表現で○○全集)『群書類従』の編纂者・塙保己一(1746~1821)がこの地周辺1600坪を板木場として拝借しました。立て札には宝暦9年(1759年)に江戸城二の丸用の土取り場の跡地になっていた場所と書いてあります。幕末の江戸幕府にとっては、少なくとも100年程前からこの地は土取り場として認知されていたのでしょう。
2017年06月12日 柏木常陸介マサカド
御殿山城
①googlemapに掲載されていた「品川台場土取場跡」の場所。現地は品川女子学院の敷地にある貯水タンクと思われる施設裏にある藪でした。外からは石碑などは確認できませんでした。品川台場建造に当たって、この御殿山や泉岳寺の一部が切り崩され、土砂が使用されました。また、御殿山通りを西へ向かうとJRの線路(御殿山を分断して敷設しました。)や越えた先に御殿山トラストコート、更に越えると「御殿山」の名を冠する住宅街がちらほら、よって遺構は残っていないと思われます。
2011年12月12日 田部朝臣土持安房守
御殿山城
改めて古地図を調べてみました。基本的に江戸時代以前に関してはないも同じでしたが、家康が改めて定めた東海道以前の古東海道・下の道についての研究をされていた方の研究内容から、律令時代に置かれた大井駅より、目黒川を居木橋にて渡河、舌状台地の南端から登って台地中央を縦断、二本榎へと通っていたと推定。街道との関係からすると城の位置がおかしい。
居木橋から崖線に沿って東西に通る道も古く、これが品川神社と御殿山との間の道に当たる様であり、幕末には神社のすぐ北に堀を巡らし、台地上に英国公使館という形であった。
この公使館の位置についての地図や土取場がない時代の地図には南北に通る道が記されていて、それ以東が御殿山であり、ほぼ今の鉄道線路に近い位置になる。よって城館は多分に間違った地点に示されています。
御殿山城の周辺スポット情報
地元(北品川)の歴史の説明板(碑・説明板)
道灌通り説明板(駒札)(碑・説明板)
御殿山説明板(駒札)(碑・説明板)
御成橋・説明板(碑・説明板)
御成道(碑・説明板)
鈴木道胤屋敷(周辺城郭)
鈴木道胤屋敷(関連施設)
歴史
長禄年間(1457~60)に築かれ、太田道灌の居館となった。のち、太田道灌が江戸城を築くと、ここには宇田川長清(現在の東京都渋谷区宇田川町の由来となった人物)が配された。
江戸時代に入り、将軍が鷹狩りの際に使用する御殿が築かれ、御殿山と呼ばれるようになった。
だが江戸中期に御殿は焼失、その後は多くの桜が移植され、眼下に品川の海を見下ろす桜の名所として江戸市民に親しまれるようになった。
幕末になると、品川台場(現在のお台場)を建造するための土砂採取地となった。
また文久元年(1861)には幕府がこの地に英国公使館を建築するが完成目前に長州藩の尊皇攘夷派志士(高杉晋作、井上馨、伊藤博文ら)によって焼き討ちされるという事件も発生している。
台場建造の土砂採取によって山が崩され、明治以降の鉄道建設でも大きく地形が変わってしまったことから現在では当時の遺構の確認はもとより、城館の正確な場所の特定も難しくなってしまっている。