目黒氏館(めぐろしやかた)
目黒氏館の基本情報
通称・別名
- 伝目黒氏館
所在地
- 東京都目黒区中目黒1(推定地)
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 目黒氏?
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 目黒氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- なし
周辺の城
-
河崎庄司郎館(東京都渋谷区)[1.4km]
渋谷城(東京都渋谷区)[1.5km]
白金館(東京都品川区)[1.6km]
三宿城(東京都世田谷区)[2.8km]
碑文谷殿山(東京都目黒区)[3.0km]
毛利甲斐守邸(東京都港区)[3.1km]
高輪大木戸(東京都港区)[3.5km]
井伊氏屋敷(東京都渋谷区)[3.5km]
品川氏館(東京都品川区)[3.9km]
御殿山城(東京都品川区)[4.1km]
目黒氏館の解説文
目黒氏館の口コミ情報
2024年08月08日 ムサコ駿河守
目黒氏館
現地は中学校で、見る限り城・館跡であることを窺わせるモノはない様です。
2024年03月24日 マグロ常陸介祐平
目黒氏館
館の主である目黒氏は、平安時代末期から室町時代まで、目黒一帯を治めた武士と考えられており、吾妻鏡には承久の乱で戦った目黒小太郎や源頼朝の上洛に共をした目黒弥五郎の名が見られます。室町時代に宮城県角田市に本拠を移し(池田館)、子孫は伊達氏の家臣となっています。
現在、館跡は高校になっており遺構は見られませんが、背後は崖になっており要害の地という雰囲気はなくもありません。
この地に館があったとされることは新編武蔵風土記稿の記述によるものと思われますが、その内容は耕地の記述の中で「舘跡に見える四辺に構堀の跡と思える堀が残っていて、舘に因んだ地名があると村人は言うが、誰が住んでいたのかわからない」といったもので、目黒氏の名前は出ていません。風土記稿の城館の記述でも、少々寂しい扱いです。
目黒館とは関係ありませんが、近くの正覚寺は見ごたえのあるお寺で、鬼子母神堂や歌舞伎の先代萩の政岡のモデルとされる伊達綱宗の側室、三沢初子の墓が見られます。墓域には、旗本の墓や大名屋敷の奥女中の墓などが無縁のまま残っていましたが、整理の準備が進んでいます。墓好きの方はお早めに訪れるのがよろしいかと思います。
2022年11月08日 左近衛少将てつ
目黒氏館
目黒学院高校の敷地になっているので、近づく事は出来ません。周囲に遺構は見つかりませんでした。
2021年11月04日 Tenshi49
目黒氏館
東急東横線、東京メトロ日比谷線中目黒駅下車徒歩で5分私立目黒学院内にあります!
2021年05月15日 長森原
鎌倉街道中ノ道・猿楽塚[目黒氏館 寺社・史跡]
代官山にある猿楽塚。目黒氏館からは北に400m、徒歩8分程の地点にある古代の古墳です。
この猿楽塚と対になるもう一つの古墳(南塚・非公開)の間を、南回りの鎌倉街道中ノ道が通過していました。
おそらく2つの古墳は街道沿いのランドマークの役割を果たしていたのでしょう。
猿楽塚から鎌倉街道中ノ道を東に向かうと渋谷城に通じ、西に向かうと碑文谷殿山→奥沢城下→深沢城下→二子の渡し経由で鎌倉に通じていました。
「吾妻鏡」にその名を残す鎌倉御家人であった目黒氏も、鎌倉へ馳せ参じる際にはこの中ノ道を利用していたと考えられます。
(2021.04撮影)
2017年04月03日 まー刑部卿
目黒氏館
地図上に印されていたのは目黒学院中学校。その武道館隣に山の名残が残っていたため行ってみた。急坂を上るとそこの地名は代官山。月極駐車場の先にあった。石碑も案内板もなかった。
2011年12月07日 田部朝臣土持安房守
目黒氏館
目黒川が作り出した段丘があり、城があったならば丘の上だろうとの印象。それにしてもやや疑問な地勢。駒沢通り、旧山手通り、山手通りどこでもパーキングは有るが、正直そうまでする価値はないといった感じ。
目黒氏館の周辺スポット情報
宿山の庚申塔(寺社・史跡)
鎌倉街道中ノ道・猿楽塚(寺社・史跡)
鎌倉街道中ノ道(南回り)(その他)
目黒氏は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、武蔵国に割拠した横山党と言われる武士団の一家であった。
この目黒氏館は江戸時代の文献に館跡として記載されているが、現在、遺構などは全く残っていない。