馬込城(まごめじょう)
馬込城の基本情報
通称・別名
- 梶原城
所在地
- 東京都大田区南馬込5(推定地)
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 梶原助五郎
築城年
- 戦国時代
主な改修者
- -
主な城主
- 梶原氏
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- なし
周辺の城
-
池上氏館(東京都大田区)[1.0km]
新井宿城(東京都大田区)[1.2km]
荏原氏館(東京都品川区)[1.8km]
行方氏館(東京都大田区)[2.9km]
梶原氏館(東京都品川区)[3.0km]
浜川砲台(東京都品川区)[3.0km]
大平砦(東京都世田谷区)[3.3km]
品川氏館(東京都品川区)[3.4km]
大井氏館(東京都大田区)[3.4km]
丸子城(神奈川県川崎市)[3.9km]
馬込城の解説文
馬込城の口コミ情報
2022年11月08日 左近衛少将てつ
馬込城
跡地付近に湯殿公園、湯殿神社、こうま児童公園があります。遺構は見つかりませんでした。
2022年06月29日 瑞大光之介
馬込城
都営線・西馬込駅の西口から文士村通りを郷土博物館方面ヘ250M辿ると左手に比定地の湯殿神社に到る。遺跡は見当たらないが境内を含む一帯が根小屋と呼ばれていることより、居館地域だったと推測出来ます。
2021年10月01日 長森原
馬込城
「京勢催動の由、注進の間、猶、諸境目普請など申しつけるべし。
人足弍人、鋤・簀を持たれ、十日用意を致し、来る十一日に小田原へ集まるべきの旨、仰せ出さるものなり。仍って件の如し。
天正十六年 虎印
戊子正月七日 馬込百姓中」
上記は「大田区史」に収録されている「小田原分国境目普請人夫催促」という文書の内容です。この文書によると1588年1月、後北条氏は馬込城下の馬込村百姓に境目の城普請の労役従事の為、人夫2人の供出を命じています。
文中の「京勢」とは豊臣秀吉軍の事で、後北条氏が秀吉の東国来攻に備えて西国との境目の城(「大田区史」では箱根の足柄城あたりと推測)の防備増強のため、武蔵国からも領民を召集している様子が見て取れます。
馬込城主・梶原助五郎三河守が治めた馬込村は江戸城領に属していたのですが、この頃は北条氏政が直接的に江戸城領を支配していた為、遠方の小田原や箱根にも村人を供出せねばならなかったようです。
梶原景時の裔を名乗った馬込城主・梶原助五郎三河守は北条分限帳によれば三十二貫六十文の知行高で、馬込城の城域は大田区HPの情報によれば東は北野神社(南馬込二丁目)、西は湯殿神社(南馬込五丁目)、南は臼田坂下(中央一丁目、中央四丁目)、北は大田区立馬込図書館(中馬込二丁目)までに及ぶ広大な台地の上に在りました。
明治時代の地図には、城域西側の低地(現・貝塚中学東側)に「根古屋」の地名が記されています。
馬込城の北方には中原街道、南方には鎌倉街道下ノ道が通っており、どちらも江戸と相模国を繋ぐ中世の主要街道でした。(城跡近くの第二京浜は現代に造られた道で中世には存在していません)
天正16年1月の寒中、鍬簀を担いで小田原への道のりを急ぐ馬込村の2人の農民は戦乱の予兆のなか何を思ったのか、興味を引かれるエピソードです。
①②梶原氏の墓石と馬具が残る萬福寺
③城域の台地上から見下ろす「根古屋」方面
2021年07月11日 おかっぴき
馬込城
馬込城は神社と小さな公園となっており、遺構はありません。せめて、石碑や説明板などがあったらと思います。
2021年05月23日 【若】北条主水正創左衛門
馬込城
遺構は特にありません。看板や石碑もありません。神社や小さな児童公園になっています。トイレもあります。夏は、蚊が結構い
そうです。ちなみに階段がとても急です💦
坂の上にあったのでお城があってもおかしくない所です。また、曲輪のような物が少しあります。
2012年01月08日 田部朝臣土持安房守
馬込城
台地の端。北・西・南の三方が結構勾配のきつい後ろ堅固の地形。
ただし、神社の場所自体は端過ぎで面積が狭い上に最高地点ではないので、南馬込5-9-14付近が最も高所であり、距離も至近である事から、その近辺まで城であったと考える方が自然に思う。
城跡よりほぼ指呼の間といえる距離に第2京浜(国道1号)があるが、この地点のこれは古東海道であったと推定(なお主街道ではない。現国道に対し左斜めに交差)されている場所であるから、街道を押さえる要地として、当に最適の地形であると思う。
駐車場は近距離にコインパーキングがある。また、大田区の郷土博物館が至近距離。
現在、城跡は神社や住宅街となっており、遺構を確認することはできない。