四谷大木戸(よつやおおきど)
四谷大木戸の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 東京都新宿区内藤町87
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 関所
天守構造
- なし
築城主
- 徳川幕府
築城年
- 元和2年(1616)
主な改修者
- -
主な城主
- 徳川幕府
廃城年
- -
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
四谷見附(東京都新宿区)[1.5km]
喰違見附(東京都千代田区)[1.7km]
尾張徳川氏屋敷(東京都新宿区)[1.8km]
井伊氏屋敷(東京都渋谷区)[1.9km]
市ヶ谷見附(東京都千代田区)[2.0km]
赤坂見附(東京都千代田区)[2.3km]
今井城(東京都港区)[2.5km]
牛込城(東京都新宿区)[2.5km]
御殿山城(東京都新宿区)[2.9km]
牛込見附(東京都千代田区)[2.9km]
四谷大木戸の解説文
[引用元:Wikipedia「四谷大木戸」の項目]
四谷大木戸(よつやおおきど)は、江戸時代の四谷に設けられていた、甲州街道の大木戸(街道を通って江戸に出入りする通行人や荷物を取り締まるための関所)である。現在の東京都新宿区四谷4丁目交差点にあたり、新宿区立四谷区民センターの脇には四谷大木戸門跡の碑が立っている。
概要
元和2年(1616年)、江戸幕府により四谷の地に、甲州街道における江戸への出入り口として大木戸が設けられた。地面には石畳を敷き、木戸の両側には石垣を設けていた。初めは夜になると木戸を閉めていたが、寛政4年(1792年)以降は木戸が撤去されている(木戸がなくなった後も四谷大木戸の名は変わらなかった)。文政12年(1829年)成立の『江戸名所図会』には、木戸撤去後の、人馬や籠などの行き交う様子が描かれている。
大木戸近くには、承応2年(1653年)に完成した玉川上水の終点にあたる四谷水番所が設けられ、ここから江戸市中へ配水していた。また、元禄12年(1699年)には大木戸の西に甲州街道最初の宿場となる内藤新宿が開設されている。
明治維新後、石畳や石垣は交通の障害となったため、明治9年(1876年)に撤去されてしまい、現在では何も残っていない。ただし、現在の交差点上が「四谷大木戸跡」として東京都指定旧跡となっている。なお、新宿御苑の出入り口のひとつである大木戸門の名前は、四谷大木戸に因むものである。
四谷4丁目交差点で交差する道路
- 国道20号(当交差点以東が新宿通りの一部)
- 東京都道418号北品川四谷線(外苑西通り)
- 新宿区特別区道41-900(新宿通りの一部)[1]
周辺の駅
- 東京メトロ丸ノ内線四谷三丁目駅‐東の道路へ徒歩3分
- 東京メトロ丸ノ内線新宿御苑前駅‐西の道路へ徒歩3分
- JR中央線千駄ケ谷駅‐南の道路へ徒歩10分
- 都営地下鉄新宿線曙橋駅-北の道路へ徒歩15分
参考文献
- 新宿歴史博物館編集 『新宿文化財ガイド(改訂版)』 (財)新宿区生涯学習財団 2007年
- 安本直弘 『改訂 四谷散歩』 みくに書房 1998年
- 【書籍】「江戸名所図会」|publisher=有朋堂書店|editor=斎藤長秋|volume=2|series=有朋堂文庫|year=1927|chapter=巻之三 天璣之部 四谷大木戸|pages=268,270-271,274|ref=}}
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四谷大木戸の口コミ情報
2023年05月16日 赤鷺ノ宮外記武尊
四谷大木戸
古き良き遺構は現代的に残ってなかなか良い感じです。ぜひ訪れて下さい。
2022年10月21日 みっちゃん
四谷大木戸
新宿御苑前駅から5分程歩いてリア攻め。碑があるだけですが。
2021年08月26日 乱会
四谷大木戸
新宿駅から四ツ谷駅に向かって甲州街道をひたすら歩いていると遭遇できます。付近がちょっとした、本当にちょっとしたスペースになっており、近隣のサラリーマンさん達が休んでいました。
2021年06月22日 S&K左衛門督
四谷大木戸
甲州街道沿い新宿区四谷区民センター敷地内に四谷大木戸の石碑のみ有ります。当時は現在の四谷交差点に四谷大木戸が有ったそうです。四谷大木戸は
甲州街道や青梅街道を旅をして来たが江戸に入る時の検問所で、当時は道の両側に石垣が築かれその間に木戸が設けられており、夜には木戸を閉めました。通行には通行手形を必要とされましたが、1792年に廃止になりました。
2019年04月23日 野呂利左衛門督休三
内藤家屋敷[四谷大木戸 寺社・史跡]
高遠藩内藤家の屋敷跡です。玉藻池が庭園の跡だそうです。玉藻池は玉川上水から水を牽いていました。
2019年04月23日 野呂利左衛門督休三
田安鎮護稲荷神社[四谷大木戸 寺社・史跡]
徳川御三卿の田安家の屋敷神です。現在は、近くにあった柳生家の屋敷神の鎮護稲荷神社も合祀されています。
2019年04月23日 野呂利左衛門督休三
津の守弁財天[四谷大木戸 その他]
ここの池は高須藩主松平摂津守邸の池でした。高須藩の松平家は尾張徳川家の分家で、幕末の会津藩主の松平容保や桑名藩主松平定敬ら高須四兄弟の出身の家でもあります。
ここは谷の口を人工的に塞いでおり、池の北にある中坂のところが、その堤の痕です。
2018年04月15日 野呂利左衛門督休三
四谷大木戸
先の口コミで書くのを忘れていましたが、新宿から来た甲州街道は、四谷大木戸があったとされる四谷四丁目の交差点の少し手前から緩やかに下っていきます。そして交差点の直前で底を打ち、また緩やかに上がっていきます。
2018年04月15日 野呂利左衛門督休三
四谷大木戸
四谷から新宿までの甲州街道を挟んで、南北方向に走る谷が何本かありました。
その最も新宿よりの谷の上にあったのがこの四谷大木戸です。
この谷は現在、外苑西通りと靖国通りが走っています。ちなみに靖国通りの、最も市ヶ谷寄りの北側上には市ヶ谷の尾張藩邸(現在防衛省)がありました。
この谷の東上に田安家の屋敷がありました(田安稲荷神社は田安家の屋敷神。九段北の筑土神社内の世継稲荷神社を分祀か)。また、四谷大木戸の南西側には内藤氏屋敷がありました。なお内藤氏屋敷(新宿御苑)の東側には堀状の地形が見受けられますが、玉川上水の分流のようです。
赤坂見附のすぐそばに紀州家麹町屋敷(東京ガーデンテラス紀尾井町)、喰違見附ではすぐそばには井伊家屋敷(ホテルニューオータニ)、外側に紀州家赤坂屋敷(赤坂離宮)、喰違見附と四谷見附間に尾張家麹町屋敷(上智大、紀尾井ホール)が配置されていましたが、それを彷彿させます。