喰違見附(くいちがいみつけ)
喰違見附の基本情報
通称・別名
- 江戸城喰違見附
所在地
- 東京都千代田区紀尾井町4
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 見附
天守構造
- なし
築城主
- 小幡景憲
築城年
- 慶長17年(1612)
主な改修者
- -
主な城主
- 徳川幕府
廃城年
- -
遺構
- 土塁
指定文化財
- 国史跡(江戸城外堀跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
四谷見附(東京都新宿区)[0.6km]
赤坂見附(東京都千代田区)[0.6km]
今井城(東京都港区)[1.0km]
市ヶ谷見附(東京都千代田区)[1.2km]
四谷大木戸(東京都新宿区)[1.7km]
虎ノ門見附(東京都千代田区)[1.9km]
江戸城(東京都千代田区)[2.1km]
西久保城(東京都港区)[2.1km]
牛込城(東京都新宿区)[2.2km]
太田道灌城(東京都港区)[2.2km]
喰違見附の解説文
喰違見附の口コミ情報
2024年09月27日 武蔵守マクシミリアン
喰違見附
お堀を仕切る土橋自体が喰違見附で、門の跡らしく道が屈曲しているのが分かります。東側(お城側)に丘に登ると、南側の堀、西側の紀州藩(赤坂迎賓館)、東側の尾張藩(上智大学)と彦根・井伊藩(ホテルニューオータニ)が眺められます。まさに紀尾井の名前の通りです。北側の堀は埋められテニスコートになっています。
2024年09月01日 うどっち弾正少弼
喰違見附
丸の内線四ツ谷〜赤坂見附駅の間に位置しています。四谷見附、赤坂見附が近いので、散歩に丁度良かったです。
2022年12月05日 S&K弾正大弼
喰違見附
江戸城三十六見附の1つで江戸城外濠の中では最も高い地形に有り1634年に築造が始まった江戸城外濠工事、外郭門の中では四谷見附、赤坂見附の中でも江戸城防衛の要とされていました。
城門は枡形と呼ばれる石垣をコの字型にした強固な物だが、喰違見附は土塁前後に延ばし道をジグザグにして直進を阻むという石垣では無く唯一土塁よる虎口になっており土塁が残っています。
喰違見附の左右に弁慶濠と真田濠が有りますが、現在弁慶濠はボートを楽しめ真田濠は上智大のグラウンドになっています
喰違見附の坂道、紀尾井坂を上ると江戸時代紀州藩徳川家、尾張藩徳川家、彦根藩井伊家の大名屋敷が有った所でこの辺りの地名紀尾井町もこの各藩の名前を1字ずつとって名付けられています。
この辺りは現在首都高4号線が走り道路外壁奥には迎賓館赤坂離宮が有ります。
2019年03月22日 橘若狭守次郎吉
喰違見附
喰違見附は江戸城三十六見附のひとつ。他の見附は石垣の桝形虎口だが、喰違虎口は石垣ではなく土塁を喰違わせた戦国時代の城郭によくみられる虎口が特徴です。設計したのは小幡景憲といわれています。
2019年02月06日 柏木常陸介マサカド
喰違見附
②真田濠とそこで起きた事件(2)
1894年(明治27年)10月9日甲武鉄道(会社は1906年に国有化し1987年にJR東日本、線路は中央線の部分)が新宿・牛込(牛込見附辺りに存在した駅)の区間が開通した。その際の敷設工事で濠の半分が四ツ谷駅の用地となった。
1945年(昭和20年)の第2次世界大戦直後に濠は戦災瓦礫の投棄所となり、財政難に窮した東京都は20年の無償供与を条件に資金提供者を募った所、1948年(昭和23年)に上智大学がそれに快諾しグラウンドとして使用権を得た。尚、1968年(昭和43年)以降は、有償での契約となる。
・参考したサイト様
「東京坂道ゆるラン」・「大江戸歴史散歩を楽しむ会」
2019年02月06日 柏木常陸介マサカド
喰違見附
②真田濠とそこで起きた事件(1)
1636年(寛永3年)に完成した江戸城外濠の中では、最も高い所に位置する。濠の開削には、真田家・伊達家・上杉家が受け持ったが、定期的な浚渫などの維持管理は真田家が行っていた為、「真田」の名が冠された。江戸時代は蓮華の花の景勝地だった。
時を経る事、約240年の1874年(明治7年)1月14日の午後8時 赤坂仮御所(現・迎賓館)で公務を終えた右大臣岩倉具視を乗せた馬車が喰違見附に差し掛かった時に元土佐藩士・武市熊吉ら不平士族に待ち伏せを受けた。岩倉はいち早く異変に気付き馬車から逃げたが、武市らに切りつけられ傷を負った。が、次の瞬間岩倉は真田濠に飛び込んだ。襲撃犯は夜陰で岩倉を見つける事が出来ず、車夫が御所より呼んだ救援部隊が到着した事により逃げるほかなくなった。その際、現場に下駄を残す事になる。岩倉は軽傷で済んだ状態で助け出された。ただ精神的なショックは大きかったようで、公務復帰は2月23日だった。(赤坂喰違の変)
2019年01月09日 柏木常陸介マサカド
喰違見附
①-2喰違見附から、東(写真の向きだと正面)に歩いて2~3分の所に「紀尾井坂」があり、中腹辺りに坂の名前を冠したの標柱が立っている。「紀尾井坂」の名前を冠した事件だと1878年(明治11年)に起きた時の内務卿・大久保利通が暗殺された「紀尾井坂の変」が思い浮かぶが、この地で事件は起きていない。実際の現場は、清水谷公園辺りが現場であった事が 標柱の裏に「紀尾井」の由来とともに記されている。当時、現場近くであった清水谷公園(千代田区紀尾井町2-1)は標注から歩いて5分程の場所にあって、「贈右大臣大久保公哀悼碑」(大久保利通哀悼碑)が建立されている。
個人的な見頃は、石碑の周囲に植えられている鹿児島県の県木・アメリカデイゴの花期と重なる夏です。落葉樹ですが、濃い目の緑色の葉に赤い花が映え、石碑を彩っています。また、石碑と書くと小さく見られがちですが、初めて立ち寄った際、大きさに圧倒されました。「東京都千代田区の歴史」というブログによると、台座を含めた高さは6.27mとの事です。
2018年12月19日 柏木常陸介マサカド
喰違見附
①写真の正面(東側)に見える坂が「紀尾井坂」。江戸時代は、左(北側)の建物(上智大学)が「尾張家」(現・上智大学)・右手前(南側)の建物(ホテルニューオータニ)が「井伊家」・右奥の高層ビルから南西の紀尾井町ガーデンテラス辺りまでが「紀伊家」の屋敷地だった。それが転じて地名の「紀尾井」の由来となった。
喰違見附の周辺スポット情報
庭園(遺構・復元物)
近江彦根藩井伊家屋敷跡(碑・説明板)
尾張名古屋藩徳川家屋敷跡(碑・説明板)
喰違木戸跡 説明板(碑・説明板)
紀伊国坂(碑・説明板)
紀伊徳川家中屋敷門(寺社・史跡)
迎賓館赤坂離宮(寺社・史跡)
見附とは敵の侵入を発見するための見張所という意味で、江戸城では俗に三十六見附と言われる多くの見附があった。他の見附の多くは枡形の城門が築かれていたが、この喰違見附は周囲が高くなっている地形を生かして土塁を築く形となっており、城門は存在しなかった。
現在も当時の土塁が残されており、碑も立っている。