喰違見附(くいちがいみつけ)
喰違見附の基本情報
通称・別名
- 江戸城喰違見附
所在地
- 東京都千代田区紀尾井町4
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 見附
天守構造
- なし
築城主
- 小幡景憲
築城年
- 慶長17年(1612)
主な改修者
- -
主な城主
- 徳川幕府
廃城年
- -
遺構
- 土塁
指定文化財
- 国史跡(江戸城外堀跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
四谷見附(東京都新宿区)[0.6km]
赤坂見附(東京都千代田区)[0.6km]
星ヶ岡城(東京都千代田区)[1.1km]
市ヶ谷見附(東京都千代田区)[1.2km]
今井城(東京都港区)[1.5km]
四谷大木戸(東京都新宿区)[1.7km]
虎ノ門見附(東京都千代田区)[1.9km]
江戸城(東京都千代田区)[2.1km]
西久保城(東京都港区)[2.1km]
牛込城(東京都新宿区)[2.2km]
喰違見附の解説文
喰違見附の口コミ情報
2026年07月02日 マグロ常陸介祐平
紀伊徳川家中屋敷門[喰違見附 寺社・史跡]
Googleマップには、迎賓館東門(旧赤坂仮皇居正門)として位置登録されています。迎賓館赤坂離宮は江戸時代に紀州徳川家の中屋敷だった場所(紀尾井町の屋敷とは別)で、前身である旧東宮御所(大正天皇の皇太子時代のもの)を創建するにあたり、紀州家の通用門を現在の場所に移築しています。迎賓館の本館は国宝に指定されていますが、こちらは文化財の指定を受けていないようで、説明板などもありません。御三家江戸屋敷の現存遺構で東宮御所の門としても使用された貴重な建築物のはずですが、何故か情報量が少なく、建築時期などもネットでは調べることができません。
御三家の門として造られただけあって、近代の皇太子のお住いの門としても通用する医薬門形式の立派なものです。登録城の喰違見附の土橋のすぐ先ですので、リアされた方はにはオススメです。
2026年07月02日 マグロ常陸介祐平
喰違見附
江戸城三十六見附のひとつで、外郭門では唯一木戸を使用した土塁の虎口です。外堀に面しており、真田堀と弁慶堀を仕切る土橋も付いていますが、造られたのは外堀の普請前の慶長17年(1612年)で、武田氏の旧臣小幡昌盛の子で軍学者として知られる小幡景憲による縄張りとされています。寛永13年(1636年)の駿河台を削り外堀とする普請により、丸亀城主生駒隆俊らにより再構築されたようです。喰違見附から四谷まで真田堀(埋め立てられてグランドになっている)に沿って土塁が良く残っていますが、真田堀を掘った際の残土で築かれたようですので、慶長17年当時に喰違見附の周辺がどのような雰囲気だったのかは想像がつきません。小規模な土塁と堀があったのでしょうか。
虎口自体は車道が通っていることもあり大きく改変されていますが、左右の土塁は健在で、旧状を残しています。
2026年06月30日 マグロ常陸介祐平
庭園[喰違見附 遺構・復元物]
外堀から喰違見附を抜けた場所が紀尾井町で、東側は尾張徳川家中屋敷、西側は彦根藩井伊家中屋敷でした。井伊家中屋敷の土地は維新後に伏見宮の邸宅となり、大戦後に外国人の手に渡るところをホテルニューオータニの創業者の大谷米太郎が買取り自邸とし、東京オリンピックの際に政府の依頼に応じて、ホテルが建設されています。大名庭園はホテルの庭園として現在に受け継がれています。大きな滝など現代風な部分もありますが、イヌマキの木は江戸時代中期の天明年間のもので千代田区の天然記念物に指定されています。また、庭園には米太郎が寛永寺から購入した灯篭も見ることができます。
井伊家中屋敷は、加藤清正の加藤家から引き継がれたもので、庭園も加藤家の時代からあったようです。井伊家の屋敷は加藤家から引き継がれたものが多く、桜田門近くの上屋敷や、このサイトの登録城の下屋敷で現在明治神宮となる「井伊氏屋敷」も該当します。
庭園には地下鉄永田町で降り、弁慶橋を渡りニューオータニガーデンコートから入りました。入口のガードマンさんに行き方を教わり、5階までエレベーターで上り、ホテル内の通路を四ツ谷方面に向けて進むと数分で庭園の入口に達します。入場は無料ですが、庭園を散策されている方は富裕層に見える方や外国の方で、貧困層に属する当方にはハードルの高い場所でした(日没30分前から26時までライトアップもされているようです)。
庭園入口に戻りホテル内の通路を四ツ谷方面に向かうと、ホテルの先は喰違見附となります。
2025年09月03日 ラッセル相模守【】栗太郎
喰違見附
江戸城三十六見附の一つ。周囲が高くなっている地形を生かして土塁を築く形となっており、城門は存在しない。
2025年08月27日 武蔵守のむげん
喰違見附
ホテルニューオータニのすぐそば。写真は迎賓館側からのもの。土塁は手前が左から、奥が右から土塁が伸び、直進不可で進軍の勢いを削ぐようになっているのが分かります。江戸城の見附では珍しい土塁というのもまた特別な感じがします。
2025年05月17日 ラッセル相模守【】栗太郎
迎賓館赤坂離宮[喰違見附 寺社・史跡]
賓客の宿泊、接遇を行うための施設。東宮御所として1909年に完成し、大正天皇即位後は「赤坂離宮」と改められた。その後迎賓施設として開館した。
【公開時間】10~17時
2024年11月26日 赤鷺ノ宮左兵衛佐武尊
喰違見附
食い違う御門の面影があります。岩倉具視の暗殺未遂が起こった土手も近くです。
2024年09月27日 武蔵守マクシミリアン
喰違見附
お堀を仕切る土橋自体が喰違見附で、門の跡らしく道が屈曲しているのが分かります。東側(お城側)に丘に登ると、南側の堀、西側の紀州藩(赤坂迎賓館)、東側の尾張藩(上智大学)と彦根・井伊藩(ホテルニューオータニ)が眺められます。まさに紀尾井の名前の通りです。北側の堀は埋められテニスコートになっています。
2024年09月01日 まるちゃん右衛門督
喰違見附
丸の内線四ツ谷〜赤坂見附駅の間に位置しています。四谷見附、赤坂見附が近いので、散歩に丁度良かったです。
2022年12月05日 S&K左京大夫
喰違見附
江戸城三十六見附の1つで江戸城外濠の中では最も高い地形に有り1634年に築造が始まった江戸城外濠工事、外郭門の中では四谷見附、赤坂見附の中でも江戸城防衛の要とされていました。
城門は枡形と呼ばれる石垣をコの字型にした強固な物だが、喰違見附は土塁前後に延ばし道をジグザグにして直進を阻むという石垣では無く唯一土塁よる虎口になっており土塁が残っています。
喰違見附の左右に弁慶濠と真田濠が有りますが、現在弁慶濠はボートを楽しめ真田濠は上智大のグラウンドになっています
喰違見附の坂道、紀尾井坂を上ると江戸時代紀州藩徳川家、尾張藩徳川家、彦根藩井伊家の大名屋敷が有った所でこの辺りの地名紀尾井町もこの各藩の名前を1字ずつとって名付けられています。
この辺りは現在首都高4号線が走り道路外壁奥には迎賓館赤坂離宮が有ります。
2019年03月22日 橘若狭守次郎吉
喰違見附
喰違見附は江戸城三十六見附のひとつ。他の見附は石垣の桝形虎口だが、喰違虎口は石垣ではなく土塁を喰違わせた戦国時代の城郭によくみられる虎口が特徴です。設計したのは小幡景憲といわれています。
2019年02月06日 柏木常陸介マサカド
喰違見附
②真田濠とそこで起きた事件(2)
1894年(明治27年)10月9日甲武鉄道(会社は1906年に国有化し1987年にJR東日本、線路は中央線の部分)が新宿・牛込(牛込見附辺りに存在した駅)の区間が開通した。その際の敷設工事で濠の半分が四ツ谷駅の用地となった。
1945年(昭和20年)の第2次世界大戦直後に濠は戦災瓦礫の投棄所となり、財政難に窮した東京都は20年の無償供与を条件に資金提供者を募った所、1948年(昭和23年)に上智大学がそれに快諾しグラウンドとして使用権を得た。尚、1968年(昭和43年)以降は、有償での契約となる。
・参考したサイト様
「東京坂道ゆるラン」・「大江戸歴史散歩を楽しむ会」
2019年02月06日 柏木常陸介マサカド
喰違見附
②真田濠とそこで起きた事件(1)
1636年(寛永3年)に完成した江戸城外濠の中では、最も高い所に位置する。濠の開削には、真田家・伊達家・上杉家が受け持ったが、定期的な浚渫などの維持管理は真田家が行っていた為、「真田」の名が冠された。江戸時代は蓮華の花の景勝地だった。
時を経る事、約240年の1874年(明治7年)1月14日の午後8時 赤坂仮御所(現・迎賓館)で公務を終えた右大臣岩倉具視を乗せた馬車が喰違見附に差し掛かった時に元土佐藩士・武市熊吉ら不平士族に待ち伏せを受けた。岩倉はいち早く異変に気付き馬車から逃げたが、武市らに切りつけられ傷を負った。が、次の瞬間岩倉は真田濠に飛び込んだ。襲撃犯は夜陰で岩倉を見つける事が出来ず、車夫が御所より呼んだ救援部隊が到着した事により逃げるほかなくなった。その際、現場に下駄を残す事になる。岩倉は軽傷で済んだ状態で助け出された。ただ精神的なショックは大きかったようで、公務復帰は2月23日だった。(赤坂喰違の変)
2019年01月09日 柏木常陸介マサカド
喰違見附
①-2喰違見附から、東(写真の向きだと正面)に歩いて2~3分の所に「紀尾井坂」があり、中腹辺りに坂の名前を冠したの標柱が立っている。「紀尾井坂」の名前を冠した事件だと1878年(明治11年)に起きた時の内務卿・大久保利通が暗殺された「紀尾井坂の変」が思い浮かぶが、この地で事件は起きていない。実際の現場は、清水谷公園辺りが現場であった事が 標柱の裏に「紀尾井」の由来とともに記されている。当時、現場近くであった清水谷公園(千代田区紀尾井町2-1)は標注から歩いて5分程の場所にあって、「贈右大臣大久保公哀悼碑」(大久保利通哀悼碑)が建立されている。
個人的な見頃は、石碑の周囲に植えられている鹿児島県の県木・アメリカデイゴの花期と重なる夏です。落葉樹ですが、濃い目の緑色の葉に赤い花が映え、石碑を彩っています。また、石碑と書くと小さく見られがちですが、初めて立ち寄った際、大きさに圧倒されました。「東京都千代田区の歴史」というブログによると、台座を含めた高さは6.27mとの事です。
2018年12月19日 柏木常陸介マサカド
喰違見附
①写真の正面(東側)に見える坂が「紀尾井坂」。江戸時代は、左(北側)の建物(上智大学)が「尾張家」(現・上智大学)・右手前(南側)の建物(ホテルニューオータニ)が「井伊家」・右奥の高層ビルから南西の紀尾井町ガーデンテラス辺りまでが「紀伊家」の屋敷地だった。それが転じて地名の「紀尾井」の由来となった。
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見附とは敵の侵入を発見するための見張所という意味で、江戸城では俗に三十六見附と言われる多くの見附があった。他の見附の多くは枡形の城門が築かれていたが、この喰違見附は周囲が高くなっている地形を生かして土塁を築く形となっており、城門は存在しなかった。
現在も当時の土塁が残されており、碑も立っている。