熊倉城(くまくらじょう)
熊倉城の基本情報
通称・別名
- 日野城、城山
所在地
- 埼玉県秩父市荒川日野
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 長尾景春
築城年
- 戦国時代
主な改修者
- -
主な城主
- 長尾氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、竪堀、堀切
指定文化財
- 県選定重要遺跡(熊倉城跡)
再建造物
- 碑
周辺の城
-
塩沢城(埼玉県秩父郡)[8.7km]
秩父氏館(埼玉県秩父市)[11.3km]
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岡部屋敷(埼玉県飯能市)[20.8km]
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熊倉城の解説文
[引用元:Wikipedia「熊倉城」の項目]熊倉城(くまくらじょう)は、武蔵国秩父郡日野村(埼玉県秩父市荒川日野)の城山にあった日本の城。別名・日野城(ひのじょう)。
城名は城山が熊倉山に連なる峰であったからとみられているが、中世期の文献には「熊倉城」の名前がなく、江戸時代以降の命名である可能性がある(「熊倉城」の名前は『新編武蔵風土記稿』に登場する)。そのため、中世期には村名より「日野城」と呼ばれていたと考えられている。
主君・上杉顕定に反抗した長尾景春は、拠点である鉢形城・長井城を失い、秩父郡へと逃亡、再起を期して築城した城の1つと考えられている。だが、文明12年(1480年)に景春は上杉方の太田道灌に攻められて日野城(熊倉城:「太田道灌状」には“日野要害”と記載)に追い込まれ、同年6月24日に同城は落城、拠点を失った景春は逃亡し、長尾景春の乱は終結した(後に景春は下総国の古河公方の下に亡命する)。その後、鉢形城の支城として上杉氏・北条氏・武田氏などの支配下に置かれ、遅くても小田原の役によって廃城になったと考えられている。
城は熊倉山から北へ伸びる城山の尾根に沿って大手門があったとみられる南東から北西に向かって築かれ、尾根と荒川およびその支流が形成した崖と渓谷に阻まれた天然の要害であった。城跡の外周は急斜面となっており、中央部の本丸を囲むように空堀が巡らされていたことが知られている。
【参考文献】
・荒川村郷土研究会『長尾景春と熊倉城』荒川村役場、1982年(所収: 黒田基樹編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一巻 長尾景春』(戒光祥出版、2010年)ISBN 978-4-86403-005-2)[続きを見る]
熊倉城の口コミ情報
武蔵守黒鍬さん[2018年06月04日]
上記にもありますが 険しい立地ながら林道が直下にあるので訪問は容易です。
ただし道は荒れ気味で走行には注意が必要。
それに 熊出没注意の看板があり 熊避けの鈴が必要かと。
遺構は風化が進んでますが 山上に広大な郭を擁す縄張りは一見の価値あり。
ぎっちゃんさん[2013年01月02日]
林道が城のすぐ下まで通っているので車で行けます。しかしあくまでも林道、待避所が幾つかありますが急勾配のうえ、道が狭いので気をつけて進みましょう。
主に三つ曲輪からなる城ですが遺構の残りも良く
訪れる甲斐はアリですね。こんな山奥の城に逃げるしかなかった長尾景春、大変だっただろうなぁ~