小菅城(こすげじょう)

小菅城の基本情報

通称・別名

小菅砦、天神山城

所在地

山梨県北都留郡小菅村川久保

旧国名

甲斐国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

小菅信景

築城年

室町時代前期

主な改修者

主な城主

小菅氏

廃城年

遺構

曲輪、堀切、虎口

指定文化財

再建造物

碑、説明板

周辺の城

岩殿山城(山梨県大月市)[15.6km]
檜原城(東京都西多摩郡)[18.8km]
於曾屋敷(山梨県甲州市)[19.8km]
浄古寺城(山梨県山梨市)[20.8km]
熊倉城(埼玉県秩父市)[21.0km]
上野原城(山梨県上野原市)[21.7km]
勝沼氏館(山梨県甲州市)[21.9km]
連方屋敷(山梨県山梨市)[22.6km]
勝山城(山梨県都留市)[23.3km]
谷村城(山梨県都留市)[23.6km]

小菅城の解説文

※この城郭は2025年4月6日に名称と位置が変更となりました。

小菅城の口コミ情報

2025年03月03日 いれぶん武蔵守
宝生寺[小菅城  寺社・史跡]



門前の案内看板脇に武田菱を入れた墓があり、小菅氏家臣である亀井姓が記されていた。歴史との出会いに感謝させて頂きました。
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宝生寺
山寺号・住職 湧金山宝生寺・奈良憲雄
宗派 臨済宗建長寺派 本山建長寺
所在地 山梨県北都留郡小菅村川久保六〇七一
本尊 延命地蔵大菩薩
開山 勅謚覚禅師
開基 小管遠江守信景、藤原重清(古寺)
開創年月 鎌倉時代 康元元年(七三七年前)
世代 一世、寿久道法和尚 二世〜二九世省略
  三〇世、梶川禅英和尚
由緒·略歴
当寺は大菩薩連嶺の東麗に在り。川久保向山の中腹、シノハチに在り。次に下り古寺に在り、小菅村の略中央にある、往昔は城砦の南門に位置し、城と双対の位置にあった。
原元元年(一二五六年)真言宗の寺として創立され応安三庚成年(一三七〇年)本願甫和尚、藤原重清の資を得て整備せりと伝う。この本願甫和尚なるもの真言の僧か、寺の過去張には記載されず。但し、当地箭弓神社の棟札にその名が誌されている。その後、文明十年(一四七八年)に至り小菅遠江守信景により、寿元道世和尚が建長寺第二十八世肯山聞悟(勅謚覚海禅師)を勧進開山として開創された。
当時は、寺宝、「十三仏画、十六善神、阿弥陀仏画影」その他多くあり、中本山として未寺七か寺あり、二階建で盛大であった。
大正五年六月十五日、日中、大火にあい、全什宝記録等一切灰となった。以後、住職の定住を欠き、遂に終戦後の農地開放にあい、多少の農地山林も解放され、記録伝説等も再び消滅す。
然し、昭和二十七年に至り、大方檀信徒の協力により、梶川和尚の努力もあり再建され、昭和四十三年、仏具 什器等調達され、その後庫裏を完成。平成四年、宝生寺、三十一世住職、秋田宗幸となった。
平成五年三月吉日
雄飛
(解説看板全文)

2025年03月03日 いれぶん武蔵守
小菅城



武蔵と甲斐の国境は甲府盆地を形取る山々を越えた先にあり、奥多摩地方も小菅村・丹波山村が甲州側の最前線になります。丹波山村の直ぐ手前には信玄期を支える黒川金山があり、一ノ瀬川周辺に居住した金山衆や金山奉行にも近いのですが、直接の統治関係はなく、小菅一族はあくまで境の最前線防備役・統治者であるようです。

武蔵側に対峙する杉田屋敷と異なり、せりたった切岸を持つ山城で、はっきりと残る三箇所の堀切や虎口、主郭周りの帯状腰曲輪もいいですが、破壊か所を登っていった先の主郭は、三段くらいに高低差を持って防備に工夫がされていて面白いです。特に櫓台?風の西端部は堀切先のニ郭と引橋で連絡可能な形状にも見受けられます。土塁が全くないのも特徴でしょう。

三つ目の堀切の先の山道の二股を右に進むと高さ1m強の手積石垣があるが、城には関係ないと思われます
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史跡・小菅城・天神山
 この山城は、室町初期に築かれたと思われる。堀切・帯状腰曲輪・破壊ケ所・虎口有。城主は、藤原朝臣小菅遠江守信景。
丹波と小菅一村の領主で、小菅村川久保(現小学校付近に屋敷があった)に、代々住んだ。戦時には、この城に詰めた。甲武の国境警備に当たり、丹波黒川金山を支配し、又、現在の大月市土室沢・小金沢も支配していた。丹波・小菅の寺社等の再興、建立をした。
 信景死後、子孫は、代々 城主を務めた。又、武田家に親類、家臣として仕えた。信玄公、勝頼公の時代には、侍大将、足軽大将として活躍した後、故あり、佐渡島に行って戻った、佐州道賢あり。武田家滅亡後、小菅五郎兵衛尉忠元は、織田信忠に殺された。小菅又八郎信有、小菅次郎三郎信久、小菅九兵衛などは、郡内へ侵攻した北条氏を撃退したので、家康公の旗本になり、甲斐国に領地を貰った。後、上野国赤堀城主となり、上野原の加藤氏の跡を、家康公より貰って治めたことがある。
 他国で活躍した小菅一族もあり、川久保に帰農した小菅一族は、江戸時代、村役人を代々務めた。全国の小菅·古菅姓は、小菅村川久保が発祥の地である。他にも、加藤氏・船木氏・木下氏も、村役人を務めた。明治の戸長は、藤木氏・古菅氏・杉田氏・青柳氏が務めた。
 天神山は、古くより、天神・地神・八幡を、相殿に祭ってあり、江戸時代はもとより昭和二十年頃までは、毎日のように参拝する人がいた。
 尚、信景の家臣で七騎といわれた小泉氏・亀井氏・青柳氏(梶原氏は絶えた)などの子孫も川久保、池の尻、田元に帰農して、今も住んでいる。
平成十六年五月
文責 川池地区 古菅一芳
(以上、主郭説明看板全文)

写真①②③④
  ⑤⑥⑦⑧
①主郭の説明看板
②主郭から堀切越しの二郭
③主郭東側。一段低い
④二郭〜三郭間の堀切
⑤主郭〜二郭間の堀切
⑥三郭西側の堀切
⑦主郭登口の破壊か所
⑧小菅城谷向かいの手積石垣(使途不明)

2025年03月02日 いれぶん武蔵守
諏訪神社[小菅城  寺社・史跡]



諏訪神社

古い神社と言われ、境内には、巨木も数本ある。長野の諏訪大社よりの分祠は、全国に約九千社あるが、その内の二十番代にあたり、当時は有名な神社であった。田元の青柳一晴の先祖は諏訪明神を厚く信仰し、信濃諏訪大社の御柱祭に参詣、奉納した一頭の鹿頭が、折しも祭礼に必要な頭数の不足を補い、無事に祭礼は行われ、青柳の姓を賜った。
(紹介看板より由緒抜粋)

2024年06月21日 いれぶん武蔵守
箭弓(やぎゅう)神社[小菅城  寺社・史跡]



1478年に小菅・丹波山の領主であった武田家臣・小菅遠江守信景が創建し、両者の総社とされました。(明治6年、小菅村社に列す)。

東北に小菅城を位置する山の麓にありますが、注目すべきなのは1500坪強の広さを有する境内を持ち、現代にも毎年8月第一土曜日に伝統芸能「箭弓神社の獅子舞」の奉納が行われ、近隣含めた村民が集まる場となっている事です。"弓矢"を意味する"箭弓"といい、根古屋としての側面も感じられる神社です。

小菅城へは神社の脇から進めます。小菅村情報サイト等によれば、約5台分の駐車スペースとトイレがあります。
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箭弓神社(箭弓三所大明神)由緒
小菅村川久保、祭神、天日鷲命

文明十年(一四七八)小菅遠江守藤原朝臣信景が造営
小菅・丹波山両村の領主にして、城跡は神社の東北上にあり当時は小菅丹波の総社であった。
応永三年、永正十七年の鳄口あり、棟札は文明十年より幕末まで十七枚あり、宮主・願主は、小菅一族、神主は青柳・留浦村の酒井、村の杉田、丹波山村の守岡。
神領境内一五五一坪、社殿・神楽殿、昔より有り現在の拝殿は、大正時代建立、社殿は昭和六十三年再建。
祭日陰七月二十七日、現在祭日、八月第一土曜日、神主丹波山村 守岡。
箭弓神社の獅子舞は昔、伊勢神宮より各国に一組の獅子舞を許し、甲斐の国には、一宮にこれを授与し、小菅村(三ヶ村川久保・池の尻・田元)に伝授し、毎年祭典に奉納、余興。
として獅子舞をせり、又、悪疫流行の時は疫病神の神送り、寺の祈祷に獅子舞をせり、舞の種類には、十二種類あり、現在は四種類が演じられている。
(説明看板全文)

小菅城の周辺スポット情報

 黒川金山(遺構・復元物)

 丹波山金山 不動滝遺跡説明板(碑・説明板)

 箭弓(やぎゅう)神社(寺社・史跡)

 諏訪神社(寺社・史跡)

 宝生寺(寺社・史跡)

 おいらん堂(寺社・史跡)

 丹波山金山不動滝遺跡駐車場(駐車場)

 山吹橋(歩行橋)(関連施設)

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