日光奉行所(にっこうぶぎょうしょ)

日光奉行所の基本情報

通称・別名

日光御役所

所在地

栃木県日光市安川町10-24

旧国名

下野国

分類・構造

奉行所

天守構造

築城主

徳川幕府

築城年

元禄13年(1700)

主な改修者

主な城主

日光奉行

廃城年

明治4年(1871)

遺構

消滅

指定文化財

市史跡(日光奉行所跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

轟城(栃木県日光市)[13.6km]
玉生城(栃木県塩谷郡)[22.5km]
加園城(栃木県鹿沼市)[23.1km]
大宮城(栃木県塩谷郡)[24.4km]
鹿沼城(栃木県鹿沼市)[24.6km]
多気城(栃木県宇都宮市)[24.9km]
徳次郎城(栃木県宇都宮市)[25.4km]
中里城(栃木県宇都宮市)[26.9km]
川崎城(栃木県矢板市)[29.1km]
矢板城(栃木県矢板市)[30.1km]

日光奉行所の解説文

日光奉行の発祥は梶定良に始まる。定良は徳川3代将軍家光の遺臣で、承応3年(1652)から40数年の間、日光山守護職を務めた。その後元禄13年(1700)に日光奉行が置かれるに及び、定良の屋敷を改造して「御奉行屋敷」が竣工する。

日光奉行の職掌は、日光目付や梶定良の職務を継いで、日光廟の警備・営繕・祭祀一切を監理し、定員2名で1名あて交代で日光に在勤した。ただし、寛政3年(1791)以降、それまで日光領行政の中核をなしてきた日光目代、山口氏の失脚により、従来の業務に加え、日光山取締り・収納・修復・公事訴訟まで取り扱うようになる。奉行所内には米蔵やお白州などもあった。

建物はその後も存続し、明治2年(1869)に設置された日光県の庁舎となったが、廃県とともに取り壊される。その跡地に日光ホテルが建つが焼失し、その後に古河電工の晃楽荘が建てられたが、平成6年に解体された。現在では輪王寺信徒会館となっている。

情報提供:日光市教育委員会事務局文化財課


日光奉行所の口コミ情報

2024年10月04日 reipin
日光奉行所



石碑あり。石碑に「昭和三十五年八月二十二日 日光市文化財指定第一号」とありますが、説明の通り遺構は何もなく、何をもって「文化財」としているのか…敷地(跡地)が文化財なら、世の中、文化財だらけ(笑)

城郭基本情報の再建建造物欄に「説明板」とありますが、見つけられませんでした。もしや敷地内に?と思いましたが、門には赤外線アラームが付いていて立ち入り禁止です。

2024年09月18日 尼崎城駿河守一口城主
黒田長政公奉納の石鳥居[日光奉行所  寺社・史跡]



日光東照宮参拝後、歩いていると石鳥居の看板(写真①)を発見。説明文の通り、元和四年〜黒田長政公(写真②)の名前が刻まれていました。鳥居は東照宮の石碑(写真③)の奥にありました(写真④)
福岡から海路・陸路で日光まで運ばれたとのことで海路から陸にあげてスカイツリーと同じ高さの地(写真⑤)までよく運んだなと江戸時代の先人方に脱帽するとともに将軍様の御威光が感じられます。
鳥居からの参道を眺めて見ましたが杉並木(写真⑥)綺麗でした🌲

2024年07月09日 昌幸近江守晩秋リア旅
徳川家光廟所[日光奉行所  寺社・史跡]



正式名は大猷院(たいゆういん)と言います。祖父の家康公を凌いではならないという遺言により派手な彩色を控えていますが、いくつもの門をくぐり登っていく様は厳かな雰囲気を感じました。あと拝観者が東照宮と比べると圧倒的に少ない!落ち着いて見学できたのも好印象でした。

【写真の説明】
①仁王門。「阿吽の呼吸」の元となった2体の金剛力士像が安置されています。
②二天門。左右に持国天・増長天を安置していることが名前の由来です。世界遺産日光の中で一番大きな門らしいです。
③315基の灯籠は全国の大名からの献上品で、奥の建物は大猷院を護った直臣の住まいでした。
④〜⑥夜叉門。四体の夜叉が安置されています。
⑦拝殿・間の間・本殿の入口。金彩をまとった建物がとても印象的です。※撮影禁止
⑧皇嘉門(こうかもん)。明朝様式の門で、この門の先に家光公のお墓があります。※お墓は立入禁止

2024年07月09日 昌幸近江守晩秋リア旅
養源院跡[日光奉行所  寺社・史跡]



【現地説明板より】
寛永3年(1626)、水戸頼房の養母「英勝院」が、「於六の方」の菩堤を弔うために創建した寺院です。家康の側室であった於六の方の院号が「養源院」であったことから、そのまま寺号としたものです。水戸家が代々の大檀家となり、元禄2年(1689)には、松尾芭蕉が奥の細道行脚の途中、この寺を訪れてから東照宮に参詣しましたが、明治の神仏分離の際、廃寺となりました。


◆英勝院とは
英勝院は「お梶の方」といい、家康最後の子となる子女を産むも、その子は早逝してしまいます。それを不憫に思った家康。
家康の側室は多数おり、その中の「お万の方」には後の紀州徳川家の祖・頼宣と水戸徳川家の祖・頼房の二人の男児がいました。家康は頼房をお梶の方の養子とし教育を任せました。

◆「お梶の方」と「於六の方」との関係
於六の方はお梶の方の部屋子だったそうです。家康の目に止まり側室となりました。
家康逝去後は落飾しそれぞれ「英勝院」「養源院」と名乗りました。
しかし養源院は1625年、家康の法事で日光に訪れていた際、急死してしまいます。英勝院は1626年、菩提を弔うため日光の地に建てたのがこの寺で院名をそのまま寺の名前とします。その縁もあり養源院は水戸徳川家の宿坊として使われるようになるのです。

【写真の説明】
①墓石。左が英勝院、右が養源院のもの。
②石仏
③〜⑧寺跡を囲む石垣

2023年10月31日 シゲ越後守豊右衛門
日光奉行所



碑があるだけで、これというものはない。日光東照宮のついでにどうぞ

2023年01月03日 左近衛中将五郎八(いろは)姫
日光奉行所

東武日光駅前から世界遺産めぐりバスまたは中禅寺温泉行きバスで西参道前で降りると信号渡って正面右手に日光奉行所跡の石碑があります。敷地は進入禁止で入れません。

2020年05月02日 【籠城中】下野守智ぞう
日光奉行所

二社一寺を神橋辺りから石段を使い、上に登っていくとメグラーさん好きな石垣あったり何気に見所あります。

世界遺産としてではなく、城を意識して歩くと、やはり二社一寺は霊廟としてではなく、城としての機能があったとしか思えません。

石段沿いにオシャレなカフェがあったりもします❗

さらに東照宮の奥にある、二荒山別宮の滝尾神社に続く参道は、怪しい石垣が点在しており、滝尾神社じたいも詰め城感満載!

樹齢600年の杉に囲まれつつ、パワースポット感も満載!!マジで近所にこんなパワースポットあったのか!とビックリするくらいパワー感じられます。 はい

滝尾神社参道~滝尾神社までもいろいろ見所満載!(香車堂や御新馬の碑など)

コロナ収束のあかつきには是非日光二社一寺までおいでください




日光奉行所の周辺スポット情報

 徳川家康の神馬の碑(碑・説明板)

 日光奉行所跡碑(碑・説明板)

 日光東照宮(寺社・史跡)

 徳川家光廟所(寺社・史跡)

 釈迦堂殉死墓及び譜代家臣墓24基(寺社・史跡)

 日光奉行 馬場讃岐守の墓(寺社・史跡)

 日光二荒山神社(寺社・史跡)

 輪王寺(寺社・史跡)

 養源院跡(寺社・史跡)

 黒田長政公奉納の石鳥居(寺社・史跡)

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