須賀川城(すかがわじょう)
須賀川城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 福島県須賀川市宮先町他
旧国名
- 岩代国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 二階堂行続
築城年
- 応永6年(1399)
主な改修者
- -
主な城主
- 二階堂氏、石川昭光、蒲生郷成
廃城年
- 寛永4年(1627)頃
遺構
- 土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑
周辺の城
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守山城(福島県郡山市)[5.8km]
宇津峰城(福島県須賀川市)[8.4km]
国神城(福島県西白河郡)[13.3km]
長沼城(福島県須賀川市)[14.3km]
長沼南古館(福島県須賀川市)[15.4km]
三芦城(福島県石川郡)[17.4km]
三春城(福島県田村郡)[20.1km]
安子島城(福島県郡山市)[21.3km]
小野城(福島県田村郡)[22.1km]
白河小峰城(福島県白河市)[22.5km]
須賀川城の解説文
須賀川城の口コミ情報
2023年05月04日 やんちゃ幸村
須賀川城
街の中に神社⛩が城址跡地となっており、牡丹がキレイに咲いています♪
2023年04月07日 国府左京大夫城介
稲村御所[須賀川城 周辺城郭]
鎌倉府における奥州の統治機関である稲村公方の本拠地
【歴史】
応永6年(1399)に、足利満兼(第3代鎌倉公方)が弟の満直(篠川公方)と満貞(稲村公方)をそれぞれ陸奥に下向させた。
稲村公方である満貞は、二階堂氏、伊東氏、白河結城氏と連携して、鎌倉府に反抗的な伊達氏と何度か衝突している。応永9年(1402)に、伊達政宗の乱を鎮圧した上杉禅秀が力を持つと、稲村公方の力は弱体化していった。足利持氏(第4代鎌倉公方)の頃になると、鎌倉と奥州との取次程度となり、応永31年(1424)に満貞は鎌倉に退去し、稲村公方の役割は終焉したと云われている。(正長2年(1429)頃の命令文書が残っており、この頃まで奥州で活動していた可能性がある)
なお、足利満貞は、永享の乱で持氏に与したが、幕府に敗北し、永享11年(1439)に持氏と共に自害した。
【遺構】
須賀川城から南西に約3.9kmにある台地(比高20m)に築かれている。
赤城寺の背後にある南側の「御所館」と、赤城神社の背後にある北側の「北ノ城」の二つの曲輪から構成されています。
主郭にあたる「御所館」は御所として十分の広さを持っており、北側には土塁や折れ、虎口が残っている。一方、「北ノ城」は倒竹が激しく遺構の状態を確認することはできなかった。そして、両曲輪の間には、深さ10m近くある巨大な堀切と、曲輪を繋ぐ土橋が残っている。
【感想】
御所ということで、城郭としての遺構はあまりないのかと思っていたら、曲輪間にある巨大な堀切が一番の見所です。とにかく本当に巨大で、応永年間にこのような巨大な堀切が掘られたことは信じられないくらいです。この堀切は、台地下にある道路からも確認することが出来ます。
しかし、この堀切に到達するのが中々困難でした。「北ノ城」は倒竹が激しく進む気力が湧かず、主郭にあたる「御所館」の半分近くは畑となっており、畑の上を突っ切らないと行けないような状態でした。縁にある半分藪化した土塁の上を時間をかけて行くことで、何とか目的の巨大な堀切に到達することができます。
【アクセス】
須賀川駅から「長沼車庫」行きのバスに乗り、「稲村」で下車し、徒歩8分。
【写真】
①赤城寺入口
②御所館
③御所館の土塁
④虎口
⑤土橋
⑥堀切(東)
⑦堀切(西)
2022年11月22日 RED副将軍
須賀川城
周辺の寺社に土塁や堀は良好に残っています
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
1400年頃に二階堂行続によって築城された須賀川二階堂氏の居城。蘆名氏に従い、後に養子となり蘆名性を名乗る様になりました。
蘆名氏は伊達政宗によって滅ぼされ、須賀川城も伊達氏によって落城すると、伊達氏家臣の石川昭光が入城。
豊臣秀吉による奥州征伐の後は会津に蒲生氏郷が入ると田丸中務具直が城主となりました。
1598年に上杉景勝が会津に入った後は千坂景親、二本松右京らが城代となりました。
見所
二階堂神社が本丸であるが城郭遺構は見当たらず。
しかし、近隣の長松院の境内に土塁と空堀が良好に残り、神炊館神社にも土塁と外壕が残ります。
写真
①②長松院に残る土塁と空堀、解説板
③長松院の山門
④神炊館神社に残る土塁と外壕
⑤神炊館神社の社殿
⑥本丸跡の二階堂神社
2022年07月01日 城社まにゃ日向守柴田軍織田
須賀川城
社がある。近くにオープン時間になれば御朱印が貰える寺神社が在る
2022年06月12日 ヨッシー
須賀川城
現在は小さな神社で、大きな木がありました。
2017年07月12日 まー刑部卿
須賀川城
目印は【須賀川市保健センター】もしくは【魚鮮水産須賀川店】。県道54号線から右折し突き当りが保健センター。手前にある神社(二階堂神社)に石碑と町割図の看板有り。駐車場なし。路駐。残存遺構として二階堂神社が鎮座する下に本丸土塁、神社から出て保健センターを右折後直進すると【神炊館神社(諏訪宮)】の池にある土塁、拝殿右脇にある三八稲荷を横切ると奥宮前のウッドチップが敷かれている道を左手方向に進むと【長松院】裏手の墓地に出ます。ここには相楽等躬と云う人のお墓や須賀川萬年観音の塔を左手に見ながら通過すると土塁と空堀があります。【保健センター】左折し直進すると右手に【長松院】入口があり駐車場も有り。
須賀川城の周辺スポット情報
土塁・空堀(遺構・復元物)
須賀川城説明版(碑・説明板)
鎌足神社館(周辺城郭)
要害館(周辺城郭)
搦手館(周辺城郭)
守谷館(周辺城郭)
岩瀬山城(周辺城郭)
五老山館(周辺城郭)
保土原館(周辺城郭)
南館(周辺城郭)
十日山館(周辺城郭)
古館(周辺城郭)
諏訪館(周辺城郭)
雨呼館(周辺城郭)
八幡崎館(周辺城郭)
牛袋館(周辺城郭)
堀ノ内館(周辺城郭)
山寺館(周辺城郭)
遠藤雅楽守居館(周辺城郭)
陣場山館(周辺城郭)
しどみ柄館(周辺城郭)
弥六内館(周辺城郭)
江持館(周辺城郭)
下宿御所宮館(周辺城郭)
堤鐘突堂(周辺城郭)
稲村御所(周辺城郭)
二階堂神社(寺社・史跡)
神炊館神社(御城印)
城跡は阿武隈川の中流付近で合流する釈迦堂川(岩瀬川)の氾濫原を見下ろす比高約20mの台地上にあって、東山道が岩城街道・会津街道と交差する交通の要衝である岩瀬郡を押さえる地点にある。
二階堂氏の岩瀬郡領有は鎌倉時代初期とされているが、二階堂行村が領有したとされる岩瀬西部21郡は稲村城を拠点としたものと考えられ、須賀川城のある川中郡は郡司政光の子孫の岩瀬氏の支配が続いていたとされている。
この地に二階堂家の支配が及ぶのは鎌倉時代後期にまで下るものと考えられ、その頃、須賀川二階堂氏の祖先とされる行光の流れを汲む二階堂信濃入道行珍(行朝)の領有となったとされている。
これは建武元年(1334)に南朝方によって任命された奥州府式評定衆に行朝の名が見られ、彼は評定奉行も兼ねていたことから理解される。
須賀川城を築城したとされる行続は行朝の5代目である。行続が須賀川城主として活躍するのは応永6年(1399)の稲村公方足利満貞・篠川公方足利満直の奥羽下向以後で、特に同11年に両公方の命に従い、一揆して敵にあたるとして、一揆契約を結んだ連署の中心になったのが、行続であるとの説がある。
室町幕府と鎌倉府との争いの中で、稲村二階堂伊勢入道・式部少輔らが永享11年(1439)2月、稲村公方満貞に殉じて鎌倉において自害した。この時点で稲村二階堂一族の勢力は大きく退化したと考えられ、戦国大名として力を付けつつあった須賀川城の二階堂盛重の勢力下に組み込まれていったと考えられる。
一説には、二階堂為氏が須賀川に下向し、治部少輔と争って須賀川城主となったとする説があり、地元の二階堂氏研究の大勢を支配しているが、『鎌倉管領所有役考応仁武鑑』は治部少輔行続の遺子である盛重を須賀川城主とし、約5万7千石を領有し、陸奥守を務めたとしている。
須賀川城の支配に入った有力豪族は、西部衆の方は浜尾・守谷・保土原・安積の各氏、東部衆は須田・矢田野・塩田・矢部・岩瀬・前田川の各氏で、現在の須賀川市・岩瀬郡の全域に及ぶものと考えられる。
須賀川城は四面を有力な武将に囲まれ、必ずしも華々しく戦国の世を乗り切った歴史を持っていない。まず北には東北の勇将・伊達氏がおり、すでに安積・田村を支配し、田村氏を使って岩瀬郡の北方を脅かしていた。
特に今泉城をめぐる攻防戦は家運をかけた激しい戦いであった。これに加えて会津の蘆名氏は仙道(福島県中通り)への進出を図り、諏訪峠から岩瀬領を狙っていたが、永禄6年(1563)に蘆名盛氏は峠から松山城を攻めた。
同8年まで蘆名氏との戦いが続き、二階堂氏はついに蘆名盛氏に敗れ、須賀川城主二階堂盛義は会津に赴き、和睦し、長男盛隆を人質に差し出した。
天正2年(1574)に会津領主蘆名盛興が卒去したため、盛隆は蘆名家を継ぎ、これ以来、蘆名・二階堂両家は一心同体の動きをしている。同9年7月、城主二階堂盛義が卒去し、その後、二階堂家の仕切りは子の蘆名盛隆が行ったが、同12年、盛隆は寵臣大場三左衛門に殺害された。これからは後室が城を守り、家老須田美濃盛秀が実質的な城代をつとめた。
この頃から伊達家との間がうまくいかず、天正13年(1585)の本宮人取橋の合戦、伊達政宗の会津攻めを経て、運命の同17年10月26日、落城の日を迎えるのである。
落城直前の須賀川城は家臣団が完全に2つに分裂していた。盛隆の没後、蘆名家は佐竹義重の子義広が嗣子となり、その後、須賀川城代須田盛秀は佐竹氏と同盟して反伊達勢力の中心となった。これに対して西部衆は必ずしも快しとはしていなかったようである。
天正17年6月10日、伊達政宗は蘆名義広を破り、黒川城に入城した。政宗はただちに須賀川城の反須田勢力に工作を開始し、二階堂一門筆頭保土原江南斎を味方にした。岩瀬西部衆の多くは保土原江南斎について政宗に味方し、須賀川城を見捨てた。
これに対し、後室大衆院・須田美濃と行動を共にし、城に籠城したのは岩瀬東部衆が多かった。須田一族・塩田一族・家老の遠藤雅楽一族を主とする200人の兵の他、400人の兵、合わせて600人の士と足軽2000人という。
城の守りは西に堅く備え、釈迦堂川の南岸を決戦場とした。守将須田美濃は本丸の西にある城内最高所の「ハリツケ場」に本陣を置き、伊達軍を見下ろした。北の虎口には守谷筑後を置いた。南の虎口、大黒石口には須田家の笹山・服部勢と佐竹勢が固めていた。
天正17年10月26日、伊達政宗は須賀川山寺の城に入った。この城は須賀川城家老遠藤雅楽の居城であるが、須賀川城に入城したため空城となった。本陣を山王山に移し、重臣と両虎口の下見を行い、作戦を立てた。激戦のすえ、守谷筑後の内応によって夕方、落城した。
伊達政宗は城を一族の石川大和昭光に与えた。
その後、会津を領有した蒲生氏郷の時代には田丸中務具直が3万石を領有して在城した。慶長3年(1598)の上杉景勝の時、千坂対馬景親・二本松右京が城代として入城した。その後は奥州街道の宿駅として整備が進み、白河領として明治維新を迎えた。