猪苗代城(いなわしろじょう)
猪苗代城の基本情報
通称・別名
- 亀ヶ城、(鶴峰城、鶴峯城)
所在地
- 福島県耶麻郡猪苗代町古城町
旧国名
- 岩代国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 佐原経連
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 佐原氏(猪苗代氏)
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(猪苗代城跡附鶴峰城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
母成峠防塁(福島県郡山市)[12.9km]
高玉城(福島県郡山市)[16.9km]
会津若松城(福島県会津若松市)[17.5km]
桧原城(福島県耶麻郡)[19.4km]
神指城(福島県会津若松市)[19.5km]
安子島城(福島県郡山市)[20.4km]
北田城(福島県河沼郡)[20.4km]
向羽黒山城(福島県大沼郡)[22.3km]
新宮城(福島県喜多方市)[24.6km]
青山城(福島県喜多方市)[25.7km]
猪苗代城の解説文
[引用元:Wikipedia「猪苗代城」の項目]
猪苗代城(いなわしろじょう)は福島県耶麻郡猪苗代町にある日本の城。別名、亀ヶ城。福島県指定史跡[1]。
歴史・沿革
中世
猪苗代城の築城については、奥州合戦によって会津を与えられた相模国の御家人佐原義連の孫・経連が鎌倉時代初期に築いたといわれているが、真偽は不明である。ただ、経連の子孫は代々猪苗代氏を名乗り、地頭として一帯を治めていたため、その過程において築城されたのは間違いないであろう。ちなみに会津盆地を治めていた蘆名氏も佐原義連の血統で、猪苗代氏とは同族である。猪苗代氏は本家・蘆名氏に対しては、反逆と従属を何度も繰り返し、最終的には、天正17年(1589年)の摺上原の戦いの直前に、当時の当主・猪苗代盛国が伊達政宗に内応し、蘆名氏を滅亡に追い込むこととなった。豊臣秀吉の奥州仕置によって伊達氏が会津を離れると、盛国も猪苗代を離れ、約400年にも及ぶ猪苗代氏の支配が終焉した。
近世
その後、会津領主は蒲生氏郷、上杉景勝、蒲生秀行、蒲生忠郷、加藤嘉明、加藤明成と続くが、猪苗代城は会津領の重要拠点として、江戸幕府の一国一城令発布の際もその例外として存続が認められ、それぞれの家中の有力家臣が城代として差し置かれていた。蒲生秀行時代の城代・岡左内は熱心なキリシタンとして知られ、猪苗代でもキリスト教を奨励していたが、彼の死後江戸幕府のキリシタン弾圧政策によって猪苗代でも弾圧が行われた。寛永20年(1643年)に保科正之が会津藩主となると、猪苗代城には城代が置かれ、また、正之の死後はその墓所(正之は城の北、土津神社に葬られた)の守護という重要な役目も担った。
幕末
慶応4年(1868年)の戊辰戦争の際、母成峠の戦いで西軍(薩摩藩・長州藩など)が東軍(会津藩・新撰組など)を破って、会津領へ侵入すると、当時の城代・高橋権大夫は城を焼き払って若松へ撤退し、建物は全て失われ、ここに猪苗代城の城としての役割は終わった。
近現代
戊辰戦争後、猪苗代城跡地は荒廃したままの状態だったが、明治38年(1905年)に小林助治ら町内の有志が日露戦争の戦勝記念として桜やツツジを植樹し、東屋や観月橋を公園として整備した[2]。現在も春になると、花見でおおいに賑わっている。また、野口英世は幼少時代に城跡でたびたび友人と遊んでいたという。平成13年(2001年)に城跡は「猪苗代城跡 附鶴峰城跡」として福島県指定史跡に指定された。
構造
猪苗代城は、街の中心部の小高い丘に築かれた平山城で南北250メートル、東西200メートル、比高差30メートルの規模をもつ。現在は、本丸・二の郭・帯郭・石垣・土塁・空堀が残り、保存状態が比較的良好である。構造は、丘の最上部の平坦地が本丸で周囲は土塁で囲まれており、その南側の一段下がったところが二の郭、さらに南に下ったところに南帯郭、本丸北と西の一段下った箇所に北帯郭と西帯郭がある。大手口は城の東麓部分で、ここには石垣を利用した巨大な枡形虎口が造られている。なお、この大手口の石垣は穴太積(あのうづみ)という技法が用いられていることから、蒲生氏によって造営されたと思われる。
城周辺
鶴峰城
猪苗代城の北西の丘陵は鶴峰城と呼ばれる城跡である。土塁や空堀、石塁等の遺構が残されている。史料から推察すると、猪苗代氏の隠居城として用いられたと思われる。猪苗代城が近世以降も城として使用されたために、近世城郭へ改変されているのに比べ、鶴峰城は猪苗代氏が去った後は廃城となったため、戦国時代の城郭の構造をそのまま現在に伝えている。
参考文献
- 会津事典編纂会『会津大事典』(国書刊行会、1985年)
- 小島一男『歴春ブックレット20 会津の城』(歴史春秋社、1998年)
- 猪苗代湖の自然と歴史・文化を考える会編『湖育む―語り継ぐ猪苗代―』(猪苗代の自然と歴史・文化を考える会、2003年)
[続きを見る]
猪苗代城の口コミ情報
2022年07月22日 長けた 治部大輔 進言
猪苗代城
整備され城址公園化しています。
写真の看板の場所に駐車場があり、見たところ8台くらいは停められそうです。
苔むした石垣を眺めながら、同じく苔むした階段を登っていけば本郭までは割と楽に行けます。
2022年05月27日 樋ノ口映劇
猪苗代城
お城の駐車場が本丸入口に整備され、鐘撞堂からの広い階段を登ると本丸への階段と南に位置する野口英世胸像が立つ公園への階段に分かれます。右手の本丸への階段を登ると直ぐに本丸跡に到着します。ここからは目の前に秀峰磐梯山を見ることができますし、南に猪苗代湖を眼下に眺めることができます。城郭をゆっくり散策できますし、隣接する小学校は、湖畔に立つ天鏡閣を真似て造られた素晴らしい建物ですし、西には広い公園が整備され、多くの方の憩いの場になっています。
2021年08月22日 うっちー外記幸村
猪苗代城
石垣、石積みの崩落が進んでいます。最近の地震や雨天の為でしょうか。土塁も残っているので当時の姿を想像できます。
2020年11月01日 kurobuta
猪苗代城
猪苗代町の中心部に近くアクセスは良好です。町立図書館の駐車場に停めそこから歩きます🚶♂️
土塁が多く残っており、半周回り込む感じで登って行きます。
本丸に登る道は人が1人通れる程の道幅で、当時の登城が大変であったことが想像できます。
本丸は広場になっており、今の時期であれば紅葉🍁が楽しめます。
帰りは旧山内邸の裏側に降りる道を使うと近道です。こちらはさらに急で滑りやすいので足元に注意して下さい。
だいたい40分位で見て回れると思います。
石垣も残っており非常に満足できる🏯でした。
2020年09月27日 関白やつた
猪苗代城
土砂崩れしてるところがありますので、ご注意!
2019年08月27日 三尺坊左近衛中将影ちゃんII号
猪苗代城
【道の駅 猪苗代】
猪苗代町の道の駅"猪苗代"が、おすすめです。ちょうど、磐越道の猪苗代磐梯高原ICのすぐそばにあって、R49からも堅田中丸の交差点を曲がってすぐのところあって、交通の便が良いです。レストランで会津ソースかつ丼とかけ蕎麦のセットを食べました。両方とも並盛で2000円でしたが、実物を見ると大盛りに近く食べごたえは充分あります。売店では、野菜から工芸品まで売っていたので、家族や職場へのお土産を確保するには困らないと思いますよ。猪苗代城や土津神社からもそんなに離れていないので、リア攻め&参拝の後の休憩にも使えます。
2019年05月09日 さあさ上総介甲相駿三国同盟
猪苗代城
西帯郭土塁とニノ郭。帯郭とニノ郭を隔てる空堀の遺構は明確に残っている。
2019年05月08日 さあさ上総介甲相駿三国同盟
猪苗代城
鶴峰城南郭からの堀切と猪苗代城土塁。この大堀切が2つの城を隔てている。
2019年05月07日 さあさ上総介甲相駿三国同盟
猪苗代城
北帯曲輪堀切から鶴峰城南郭を望む。近世城郭と中世城郭が連結している。鶴峰城は当初は隠居城として使用された模様。
2016年04月19日 ひとりもん
猪苗代城
亀ヶ城公園北側の県道7号沿いに駐車場(3台分)があり、公園案内図も出ています。
2015年12月28日 ぷー姫=黄色頭巾の局
猪苗代城
猪苗代城に行かれるのであれば、同町内の保科正之公墓所 土津神社へのお詣りも良いのではと思います。
2015年12月27日 西沢岩代守修一
猪苗代城
猪苗代駅からは遠いですから、車で来ることをオススメします。本丸に行くのに石段を昇りますが、非常に不安定なんで気をつけて下さい。駐車場は、広いので大丈夫ですが、トイレは中になる公園の中にあります。後、4月中旬から末は桜が満開になるので、混雑します。
2015年02月27日 安田越後守秀俊
猪苗代城
亀姫という妖怪の言い伝えがある城です。