下田原城(しもたばるじょう)

下田原城の基本情報

通称・別名

下田原グスク

所在地

沖縄県八重山郡竹富町波照間下田原

旧国名

琉球国

分類・構造

平山城

天守構造

なし

築城主

不明

築城年

不明

主な改修者

主な城主

不明

廃城年

遺構

曲輪、石垣、井戸

指定文化財

国史跡(下田原城跡)

再建造物

周辺の城

フルスト原遺跡(沖縄県石垣市)[52.7km]
高腰城(沖縄県宮古島市)[180.8km]
伊敷索城(沖縄県島尻郡)[393.0km]
具志川城(沖縄県島尻郡)[394.9km]
宇江城(沖縄県島尻郡)[395.9km]
具志川城(沖縄県糸満市)[451.2km]
南山城(沖縄県糸満市)[456.0km]
三重城(沖縄県那覇市)[458.6km]
豊見城城(沖縄県豊見城市)[458.7km]
八重瀬城(沖縄県島尻郡)[458.9km]

下田原城の解説文



下田原城(しもたばるじょう)は、八重山諸島の波照間島(沖縄県八重山郡竹富町)にある城(グスク)。2003年(平成15年)3月25日に国の史跡に指定されている。琉球王国統一の歴史を示す重要な遺跡[1]。沖縄の日本復帰直後「ぶりぶち公園」として、地元老人会により寄付で整備されたが、現在は公園としては荒れ、亜熱帯の自然の侵食のままとなっている[2]

概要 

八重山諸島では、12世紀末頃に農耕社会の発展と中国を主にした海外との交易の活発化などから支配者層が現れ、1500年に波照間島出身のオヤケアカハチが起こしたオヤケアカハチの乱によって琉球王国の支配下に置かれるまでの間、各地に群雄が割拠した。

波照間島には、この時代のものと推定される城跡等の遺跡が点在している。島北部の大泊浜に近い標高約25メートルの崖上に位置する下田原城跡もそのひとつである。下田原城は、15世紀から16世紀にかけての中国の青磁器片が出土していることから、この時期にはすでに築城されていたものと考えられているが、築城の正確な年代や、だれによって築かれたのかは不明である。

下田原城の規模は東西150メートル、南北100メートルに及び、崖上に野積みの珊瑚性石灰岩で造られた城壁に囲まれ、8つの郭状遺構が形成されている。また、遠見台、石室、井戸などの跡も残っている。

下田原城跡は、琉球王国の統一の歴史を示す重要な遺跡で、戦災等の被害を受けていないため状態も良好であるとして、2003年3月25日に竹富町で初めての国の史跡に指定されている。

現在は、ぶりぶち公園という公園になっており、標石が建ちコンクリート製のベンチが設置されるが、整備は進まず荒れ放題となっている。「ぶりぶち」は「城跡」または「はじまり」を指す波照間の方言であるといわれる。

下田原貝塚 

下田原城跡の海岸寄り(ぶりぶち公園前の道を更に北海岸の方に下り左手)には、下田原貝塚[3]及び大泊浜貝塚がある。発掘当初は14世紀頃のものと考えられたが、その後、紀元前1800年頃の先島石器時代の遺跡と推定されている。貝塚の東側にある大泊浜は船の接岸に便利な地形であり、かつては港であったと推測され、さらに島でも数少ない湧水が得られる場所であるなど好立地であったため、波照間にたどり着いた先住民はここで暮らし始めたと推測されている。

この貝塚から出土した石器や土器等に、台湾やインドネシア、オセアニア、メラネシア文化との関連が確認されることから、先島石器時代は南方系文化であったと考えられている。また、出土したイノシシの骨や石器の材料になった石は西表島から持ち込まれたもので、西表島との交流が盛んであったと推測されている。ゆるやかな形状の丸底の土器は「下田原式土器」と呼ばれる先島最古の土器で、宮古・八重山の土器の原形とされる。

交通アクセス 

  • 波照間港から徒歩約15分。

下田原城の口コミ情報

2024年02月24日 生駒讃岐守江現蔵21日九州
下田原城



下田原城(しもたばるじょう)は、有人島としては日本最南端の波照間島にあるグスクです。城郭の規模は東西150メートル、南北100メートルで、野面積み風の珊瑚性石灰岩で築かれています。2003年に国の史跡に指定された琉球王国の城ですが、詳細は不明です。

2月の暑い琉球国、石垣島から安栄観光のフェリーで1時間半、電動のレンタサイクルで島を調査する際に訪城しました。入り口にぶりぶち公園の石碑が建っていますが、荒れていて公園として利用する人はいないと思われます。

亜熱帯の自然の侵食のままとなっていますが、奥は広く、恐れず進むとジャングルのようで楽しめました。なかなか行けない波照間島なので、島を訪れた際は是非リアしてください。

2024年02月24日 生駒讃岐守江現蔵21日九州
底名溜池展望台[下田原城  その他]



地元民からも人気がある底名溜池(そこなためいけ)展望台は、知る人ぞ知る穴場の観光スポットです。海の見える畑の中、農業用の溜池の横にポツリと建っている石を盛っただけのシンプルな作りですが、石垣みたいなので城好きなら気に入る事間違いなし。晴れていると眺めは抜群です。

行き方は難しく、Googleマップ通りに行くと溜池で行き止まりになります。電柱の続く砂利道を海の方に進むと辿り着けます。波照間島は電動自転車で回るのがオススメです。

2024年02月02日 笑門来猫
小城盛(クスクムイ)[下田原城  寺社・史跡]



竹富島にある火番盛(狼煙台)で、旧展望スポットとして有名な なごみの塔の北側にあります。
火番盛としてはかなり大型タイプで、且つ弓なりに石垣を伸ばす構造を持つので、実は戦いを意識した造りなのでは?と、妄想が膨らみます^ ^
ここからさらに北に進むと、ブラタモリでも紹介された竹富島始まりの地もあります(草ボーボーですけど)

2024年01月31日 笑門来猫
プズマリ[下田原城  寺社・史跡]



先島諸島に点在する火番盛・遠見台の1つで、黒島の西海岸にあります。火番盛・遠見台は琉球時代に海上交通を監視するために作られ、狼煙による情報伝達に使われました。

かなり大きいので、上に登って海の向こうを眺めたくなりますが、崩落の危険があるとのことで現在は登れません。残念。

すぐそばにある黒島研究所は怪しい雰囲気を醸していて楽しいです。庭園の水路には多数のサメが回遊してるので足元注意(((;゚Д゚)))))

2024年01月07日 陸奥守たろす
ダテイクチデイ[下田原城  遺構・復元物]



【ダテイクチディ】
アプリ上で最南端&最西端の下田原城のある波照間島から直線で100km、日本最西端の与那国島にある遺構『ダテイクチデイ』の紹介です。

◆沖縄県八重山郡与那国町

◆1644年(正保元年)尚賢王は、琉球官船の航路にあたる諸離島に対し、遠見番所の設置を命じ火番小屋を造らせて、海上監視や出入りする船の通報などをこおなわせた。
 三人の番人を置き、船が現れると一人は早馬で村に至り、「ンネーンネー」と連呼して船が来たことを伝えた。
 その番小屋造り作業をダティククイと称して、毎年旧暦八月第一丙子の日に造り替えられた。現在では番小屋造り替えはないが、この日に祭事が行われている。  与那国町教育委員会
〈現地案内板より〉
◆「ダティク」は地名、「チディ」は頂上という意味で、漢字では「屋手久頂上(ダティグチディ)」と書くそうです。
〈GoogleMap口コミより〉

◆感想
ワンルーム程の広さでしょうか、土台部分と思われる石積はキレイな長方形に形成され、1箇所に出入口が設けられています。

石材はグスクの石垣に用いられる琉球石灰岩でしょうか? 往時の遺構か復元かは調べ切れませんでしたが、崩落防止にセメントかモルタルで補強されていました。

現在も視界を遮る物は無く、島の北側全域の監視が可能であり遠見番所としての機能は充分果たせたことは容易に想像できます。

まさにオーシャンビューを独占できる物件です♪

◆注意
周囲には牛や馬が放牧されてまして、遺構の周りにはデッカイう◯ちが散乱してますので、足元注意で散策してくださいませw

◆リア攻めマップの登録可能距離は8000m以内であり、当然下田原城から100kmも離れた与那国島の遺構を登録できるわけもなく、年末に運営さまに範囲拡大をリクエストしておりました。

年始のお忙しい中、早々にご対応いただき、誠にありがとうございました🙇

2023年12月29日 陸奥守たろす
コート盛[下田原城  遺構・復元物]



【コート盛(先島諸島火番盛)】
◆沖縄県八重山郡竹富町波照間

【概要】
◆国指定史跡『先島諸島火番盛(さきしましょとうひばんむい)』(沖縄県宮古島市、石垣市、多良間村、竹富町、与那国町)の一つ
◆指定年月日:平成19年3月23日
◆先島諸島火番盛は、17世紀中頃に首里王府が、異国船監視・通報のため先島諸島に設置した遠見番所跡群である。火番盛とは「火を焚く丘」 というような意味であり、烽火台・ 遠見台を意味する。火番盛は高いものでは9m、低いものでも3 m弱に琉球石灰岩を積み上げ、頂部には囲いを巡らす。囲いの中に方位石を置くものが多く、また頂部まで螺旋状の階段を 設けるものもある。宮古島の蔵元 (政庁) に届いた情報は早船で首里王府まで届けられた。
◆琉球諸島における烽火制度採用を示す最初の文献史料は、『球陽』尚賢4年 (1644年、崇禎17年)の記事で、中山ならび各島に烽火台(又は遠見番所・ 火番所)を設け、進貢船や異国船が来たら烽火を焚き、順次伝えることとあるものである。琉球における烽火台の設置の背景には、日本の鎖国の 影響と、琉球を軍事的に支配していた薩摩の要請等があったものと推測され、既存の烽火台を再編成し、王府として番人を配置する等の整備を図 った側面もあったと考えられる。琉球列島の最西端に位置し、東シナ海の緊張に直面し、対外関係と鎖国体制の完成を示す遺跡として重要である。
◆琉球王朝時代に設置された 「コート盛」は波照間公民館の北北西約300mにあります。基底部分の直径約8.2m、高さ約3.8m、 上面の直径約5.5~6.6mの二層の琉球石灰岩の石積みからなり、右側から貫くように階段が設けられています。石積みは各々円形 状に築かれ、頂上の中央部には方位石も設置されています。コート盛で得た情報は烽火を使用して西表島から小浜島、竹富島、ま たは、新城島から黒島、竹富島を継いで石垣島の蔵元 (政庁)に情報を伝えました。
《現地案内板より》

【感想】
◆波照間島の高台に位置し周りは今も視界を遮る物は少なく、サトウキビ畑の中に一際目立つ琉球石灰岩で積まれたコート盛は一見の価値ありです。
下田原城跡からもすぐ近くですので、波照間島にお越しの際はセットでの散策をお薦めします♪

2021年07月10日 MACHT征夷大将軍
下田原城



私の記念すべき3000城目となる下田原城に訪れたので一言口コミなど。
波照間港からは比較的近いと思います。ただ私はバイクで訪れたので徒歩や自転車だとまた感覚が違うかも。
入口は案内表示があるので凄くわかりやすい。しかし、城の内部はほぼ整備されず放置状態という感じです。
ただ、琉球石灰岩による石垣が意外といっては何ですがちゃんと残っております。縄張り図とかがなかったので具体的な郭の配置はよくわかりませんでしたが、石垣で6~7つくらいの区画があったように感じました。
日本最南端にここまで城跡が残っていたことに感動。
なかなか簡単に訪れる訳にはいかない場所ではありますが、有人島の日本最南端を訪れた際にはぜひ立ち寄ってみて下さい。

2021年01月03日 さすらいの征夷大将軍慶誾尼☆寧
下田原城



石垣島のフルスト原遺跡に行ったついでに、日本最南端に渡って来ました〜

石垣島から安栄観光が運行する高速船の便数は1日に夏季4便、冬季3便。所要時間は約60分~70分です復路の欠航も考えて、帰りの飛行機の日は行かない方がいいでしょう…

10月も終わりに近い日、港から徒歩で下田原城〜コート盛〜港と回りました
はい、夏!夏!夏!って感じで道中日陰が全くなく道路で干からびるかと思いました。

道路の隅で干からびるミミズの気持ちがわかったような…現在の下田原城は、無手入れの原始的なぶりぶち公園となっております。ジャングル化しているので山賊でも出てくるのでは?と風の音がしただけでビビってしまいました。もう少しお手入れして頂くと絶景の眺望やグスクも映えると思いますが…ちょっともったいないよーな。

下田原城の周辺スポット情報

 コート盛(遺構・復元物)

 ダテイクチデイ(遺構・復元物)

 案内矢印(碑・説明板)

 オヤケアカハチ誕生の地(碑・説明板)

 大東亜戦転進記念碑(碑・説明板)

 学童慰霊碑(碑・説明板)

 日本最南端の碑(碑・説明板)

 プズマリ(寺社・史跡)

 小城盛(クスクムイ)(寺社・史跡)

 駐車スペース(駐車場)

 底名溜池展望台(その他)

 波照間島灯台(その他)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore