鹿屋城(かのやじょう)
鹿屋城の基本情報
通称・別名
- 亀鶴城
所在地
- 鹿児島県鹿屋市北田町(城山公園)
旧国名
- 大隅国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 島津氏?
築城年
- 承久年間(1219〜1222)?
主な改修者
- 伊集院忠棟
主な城主
- 鹿屋氏、伊集院忠棟、島津久信
廃城年
- -
遺構
- 曲輪[大名城・今城・鳥添城]、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
高山城(鹿児島県肝属郡)[14.0km]
西原城(鹿児島県鹿屋市)[17.5km]
垂水城(鹿児島県垂水市)[18.9km]
蓬原城(鹿児島県志布志市)[20.4km]
勝尾城(鹿児島県肝属郡)[21.3km]
恒吉城(鹿児島県曽於市)[22.3km]
志布志城(鹿児島県志布志市)[27.0km]
松山城(鹿児島県志布志市)[27.7km]
給黎城(鹿児島県鹿児島市)[29.8km]
廻城(鹿児島県霧島市)[31.5km]
鹿屋城の解説文
鹿屋城の口コミ情報
2022年08月29日 ぶらなおき
鹿屋城
これより中に入ろうとしたが木々や竹が倒れていて、進入困難。仕方なく、鹿屋自衛隊を見学。
2022年02月11日 薩摩相模守義弘維新斎
鹿屋城
鹿屋氏の居城である鹿屋城跡は、現在、城山公園として市民に親しまれてる。土塁等の形状が残存しており、公園内を散策するとおそらく城跡って感じ。
2021年12月10日 徳g図書頭ゆくいん
鹿屋城
城跡の南側に城山公園駐車場(トイレ有)があり、そこから道路沿いに北に向かって直ぐです。
行く途中に「史跡 鹿屋城址」の案内板があります。が、どの郭や堀などにも立て札みたいな物は一切なく"きっとここが○○だろう"と想像するしかありません。
因みに、細い道が沢山あり歩き回りましたが、どこからも本郭に辿り着くルートが発見出来ませんでした。あんなに整備された公園を作ったのに何故?です。
またお時間のある方は、とんかつ竹亭という有名なお店が直ぐ近くにあります。12時過ぎには、30人ほどの方が外で待っていましたので私はパスしましたが。
2014年05月29日 【隠者】史学会帰新参
鹿屋城
城山公園まで車で登ったら駐車場がなくて、ふもとの大きな駐車場に停める。公園になっているが曲輪と空堀が残る。空堀は藪になっていて分かりにくい。
2013年01月16日 minmin
鹿屋城
ランニングの途中で立ち寄りました。車で行くには近くに駐車場がありました。
昼間の明るい時に行ったので日当たりが良く鹿屋市が見渡せて良かったです。お城の雰囲気はちょっとした石垣があったりですが趣がありました。桜の木があったので春の花見スポットに良さそうです。桜の時期にまた行きたいです。ベンチやトイレもあり散歩等にも良さそうです。
概要
鹿屋市街地の隘路(あいろ)にせまる火山灰台地の、突端をたくみに利用した中世の山城である。城郭は本丸(貯水池)高さおよそ40mを中心に、二の丸(公園)・中城(公園)・松尾城・大明城・今城・取添城などに分かれ周囲およそ2km、大手口は南面にあり、いま大手町の地名を残す、両面の水濠は現在、駐車場、公園に変じている。
構造
城の高さも大きさもそれぞれに異なり、堀で境界が形成されていた。東方は水田があり、南方は空堀で西北方は台地と堀を隔てている。中城と大明城との間には天然の深い池沼があって、およそ30アールくらいの面積があった。このため場内には飲料水に困るようなことはなかったという。東の方に土手が築かれ水は鹿屋川(肝属川)に注ぎ、一部は水田のかんがい用水にもなっていた。周囲およそ2km、堅固を誇る城であった。この城の抜け穴は、東の方に出口があって、明治のころまでは子供がコウモリを捕っていたという。別称して一ノ谷城ともいわれているが、その後の調査で祓川に鹿屋一ノ城が確認されており、ここと混同して長い間伝えられてきたものと思われる。
この鹿屋城をめぐっては2、3の城があった。
「古城」。現在の市役所の近く(新栄町)に西之城、厄ヶ城、茶臼城などの城跡があり、以前は外堀も形をとどめていたが、区画整理によってわからなくなってしまった。これも鹿屋氏に属する城塞であった。
「古前城(こせんじょう)」。旧市役所後方の台地一帯をいうが堀の跡などは市街地になりなくなっている。古戦場という意味ではないかという説もあるが、「鹿屋文書」には古世城とも見える。なお、以前市役所があった所は地頭館の跡だという。
歴史
この城の始まりは『古城主由来記』に「島津久経時代津野四郎兵衛、鹿屋城主」とあるからだいたい鎌倉時代承久年間頃と思われる。もっとも津野氏の拠った鹿屋城というのがこの城址であったのか、また肝付氏一族の萩原氏、鹿屋氏の居城であったのかはっきり断定できない。
その後は鹿屋氏の居城となっている。
鹿屋氏没後天正8年(1580)から伊集院忠棟が15年居城し、大改修し、現在の形に整備したものと思われる。忠棟が文禄4年(1595)都城に転封後は島津相模守久信が一時居城、その後廃城となった。