鹿屋城(かのやじょう)

鹿屋城の基本情報

通称・別名

亀鶴城

所在地

鹿児島県鹿屋市北田町(城山公園)

旧国名

大隅国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

島津氏?

築城年

承久年間(1219〜1222)?

主な改修者

伊集院忠棟

主な城主

鹿屋氏、伊集院忠棟、島津久信

廃城年

遺構

曲輪[大名城・今城・鳥添城]、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

高山城(鹿児島県肝属郡)[14.0km]
西原城(鹿児島県鹿屋市)[17.5km]
垂水城(鹿児島県垂水市)[18.9km]
蓬原城(鹿児島県志布志市)[20.4km]
勝尾城(鹿児島県肝属郡)[21.3km]
恒吉城(鹿児島県曽於市)[22.3km]
志布志城(鹿児島県志布志市)[27.0km]
松山城(鹿児島県志布志市)[27.7km]
給黎城(鹿児島県鹿児島市)[29.8km]
廻城(鹿児島県霧島市)[31.5km]

鹿屋城の解説文

鹿屋城(かのやじょう)は、鹿児島県鹿屋市北田町にあった城である。

概要 

鹿屋市街地の隘路(あいろ)にせまる火山灰台地の、突端をたくみに利用した中世の山城である。

城郭は本丸(貯水池)高さおよそ40mを中心に、二の丸(公園)・中城(公園)・松尾城・大明城・今城・取添城などに分かれ周囲およそ2km、大手口は南面にあり、いま大手町の地名を残す、両面の水濠は現在、駐車場、公園に変じている。

構造 

城の高さも大きさもそれぞれに異なり、堀で境界が形成されていた。東方は水田があり、南方は空堀で西北方は台地と堀を隔てている。中城と大明城との間には天然の深い池沼があって、およそ30アールくらいの面積があった。このため場内には飲料水に困るようなことはなかったという。東の方に土手が築かれ水は鹿屋川(肝属川)に注ぎ、一部は水田のかんがい用水にもなっていた。周囲およそ2km、堅固を誇る城であった。

この城の抜け穴は、東の方に出口があって、明治のころまでは子供がコウモリを捕っていたという。別称して一ノ谷城ともいわれているが、その後の調査で祓川に鹿屋一ノ城が確認されており、ここと混同して長い間伝えられてきたものと思われる。

この鹿屋城をめぐっては2、3の城があった。

「古城」。現在の市役所の近く(新栄町)に西之城、厄ヶ城、茶臼城などの城跡があり、以前は外堀も形をとどめていたが、区画整理によってわからなくなってしまった。これも鹿屋氏に属する城塞であった。

「古前城(こせんじょう)」。旧市役所後方の台地一帯をいうが堀の跡などは市街地になりなくなっている。古戦場という意味ではないかという説もあるが、「鹿屋文書」には古世城とも見える。なお、以前市役所があった所は地頭館の跡だという。

歴史 

この城の始まりは『古城主由来記』に「島津久経時代津野四郎兵衛、鹿屋城主」とあるからだいたい鎌倉時代承久年間頃と思われる。

もっとも津野氏の拠った鹿屋城というのがこの城址であったのか、また肝付氏一族の萩原氏、鹿屋氏の居城であったのかはっきり断定できない。

その後は鹿屋氏の居城となっている。

鹿屋氏没後天正8年(1580)から伊集院忠棟が15年居城し、大改修し、現在の形に整備したものと思われる。忠棟が文禄4年(1595)都城に転封後は島津相模守久信が一時居城、その後廃城となった。

情報提供:鹿屋市文化財センター


鹿屋城の口コミ情報

2024年03月26日 reipin
鹿屋城



城山公園から本郭へは、天然の大きな堀に遮られて行けません。しかし航空写真で見ると気になる空き地が写っている。

そこで、駐車場から道路を北へ上り、登城口の少し先に八角形のあずま屋がある辺りから入って行くと、途中で竪堀を横切りながら本郭に着きました。

本郭は草むらになっていますが、木は伐採してあるので、それと分かります。一段下のやや広めの曲輪は木が伐採されていませんが、わずかに土塁の跡が残っています。

また、駐車場の上の登城口から城山公園に向かう途中で右に上る道を行くと、上は曲輪になっていて、土塁も残っています。テーブルとベンチも設置してありますが、汚れていて使えませんね(笑)

2024年03月25日 reipin
駐車場公衆トイレ[鹿屋城  トイレ]

女子トイレにペーパーはありませんでした。ご用意を!

2024年01月30日 RED副将軍
鹿屋城



島津氏重臣である伊集院忠棟の居城🏯

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。
承久年間(1219年〜1222年)に島津氏により築かれたとも伝わります。諸説あり定かではありません。
大隅半島は元々は肝付氏が支配していた地域であり、肝付氏は島津氏と抗争していた時期や服属していた時期があり、1400年には七代当主の島津元久は肝付氏庶流の鹿屋忠兼に鹿屋郷を与えたとされ、鹿屋忠兼が鹿屋城を改修した可能性も指摘されています。
永正年間(1504年〜1521年) 以降は再び肝付氏と島津氏と対立関係となり肝付氏が大隈国で勢力を圧倒したため、遅くとも1530年には鹿屋城は肝付氏の属城となり鹿屋氏の居城となっていた様です。
1574年に内紛もあり弱体化していた肝付氏は島津氏に服従。
1577年に島津氏は薩摩、大隅、日向の三国を統一し、1578年には耳川の戦いで大友氏を破り南九州を支配。
1580年に島津氏重臣の伊集院忠棟に肝付氏旧領が与えられ鹿屋城に入城。現在に残る遺構は伊集院忠棟による改修とされます。
豊臣秀吉による九州征伐において、1587年に島津氏は豊臣秀吉に降伏。豊臣秀吉との外交にあたったのが伊集院忠棟であり、豊臣秀吉は伊集院忠棟を評価。1595年に都之城へ転封となり、鹿屋城は垂水島津氏の島津久信の居城となりましたが、一時的なもので、その後に廃城となりました。
1599年に伊集院忠棟は、豊臣方に通じていたことと、知行配分の不満から島津氏家中から反感を買い、島津家久により国賊として家中全員が成敗されています。

見所
現在は一部が城山公園となっているものの、大半の遺構は市街化により消失。
シラス台地特有の空堀と曲輪群による当地の典型的山城。縄張り図はハッキリとしておらず様々なものがあります。本丸、二の丸、中城、松尾城、大名城、今城、鳥添城、外郭などの名前が残り、現在では公園や貯水施設、福祉センター等になっています。

2022年08月29日 ぶらなおき
鹿屋城



これより中に入ろうとしたが木々や竹が倒れていて、進入困難。仕方なく、鹿屋自衛隊を見学。

2022年02月11日 薩摩相模守義弘維新斎
鹿屋城



鹿屋氏の居城である鹿屋城跡は、現在、城山公園として市民に親しまれてる。土塁等の形状が残存しており、公園内を散策するとおそらく城跡って感じ。

2021年12月10日 徳にぃ図書頭4/20九州
鹿屋城

城跡の南側に城山公園駐車場(トイレ有)があり、そこから道路沿いに北に向かって直ぐです。

行く途中に「史跡 鹿屋城址」の案内板があります。が、どの郭や堀などにも立て札みたいな物は一切なく"きっとここが○○だろう"と想像するしかありません。
因みに、細い道が沢山あり歩き回りましたが、どこからも本郭に辿り着くルートが発見出来ませんでした。あんなに整備された公園を作ったのに何故?です。

またお時間のある方は、とんかつ竹亭という有名なお店が直ぐ近くにあります。12時過ぎには、30人ほどの方が外で待っていましたので私はパスしましたが。

2014年05月29日 【隠者】史学会帰新参
鹿屋城

城山公園まで車で登ったら駐車場がなくて、ふもとの大きな駐車場に停める。公園になっているが曲輪と空堀が残る。空堀は藪になっていて分かりにくい。


2013年01月16日 minmin
鹿屋城

ランニングの途中で立ち寄りました。車で行くには近くに駐車場がありました。
昼間の明るい時に行ったので日当たりが良く鹿屋市が見渡せて良かったです。お城の雰囲気はちょっとした石垣があったりですが趣がありました。桜の木があったので春の花見スポットに良さそうです。桜の時期にまた行きたいです。ベンチやトイレもあり散歩等にも良さそうです。

鹿屋城の周辺スポット情報

 堀切(遺構・復元物)

 北田池跡之碑(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 駐車場公衆トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 登城口(その他)

 登城口(その他)

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