高瀬城(たかせじょう)
高瀬城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 島根県出雲市斐川町神庭
旧国名
- 出雲国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- なし
築城主
- 米原氏
築城年
- 戦国時代?
主な改修者
- -
主な城主
- 米原氏、吉川氏
廃城年
- 元亀2年(1571)?
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、竪堀
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
金山要害山城(島根県松江市)[5.5km]
三刀屋氏城館(島根県雲南市)[7.7km]
佐世城(島根県雲南市)[8.9km]
半分城(島根県出雲市)[9.4km]
平田城(島根県出雲市)[9.5km]
鳶ヶ巣城(島根県出雲市)[9.7km]
茶臼山城(島根県雲南市)[11.1km]
檜ヶ山城(島根県出雲市)[13.9km]
玉造要害山城(島根県松江市)[14.7km]
牛尾城(島根県雲南市)[15.5km]
高瀬城の解説文
[引用元:Wikipedia「高瀬城」の項目]
高瀬城(たかせじょう)は島根県出雲市斐川町神庭にあった日本の城。
概要
高瀬城は、尼子氏に与した米原氏によって築かれた山城である[1]。宍道湖南岸及び出雲平野の押さえとして重要視され、尼子十旗の一つに数えられた。
構造・遺構
高瀬城は、宍道湖南岸の独立性の高い丘陵上に占地し、山頂の大高瀬、一段下がった小高瀬、山麓付近の鉄砲立、の三段からなる。大高瀬と小高瀬の間の鞍部には駄置場と呼ばれる郭群が築かれ、両段間の接続に加え七曲道を通じて鉄砲立へも接続する。
主郭は大高瀬とされるが、山頂の大高瀬は削平の甘い小規模な郭からなるのに対し、小高瀬は比較的大規模な郭が連なることから、小高瀬を主郭、大高瀬を詰の城と考える向きもある。
城域には自然地形を巧みに利用しながら、横堀や土塁、竪土塁とを複雑に組み合わせて構成した防御施設が数多く存在しており、守備側のさまざまな工夫と激しい攻防戦の事実をうかがわせる。
現在は登山道がよく整備され、容易に登城できる。地元では、米原氏が落城時に持ち出せずに埋めたという埋蔵金が城内に眠っているという伝説もある。
沿革
- 築城年代は詳らかではないが、戦国時代に米原氏により築城されたものと考えられる。
- 天文元年(1532年)、塩冶興久の乱に際し、高瀬城主米原綱広が塩冶興久を救い出そうとしたと伝わる。
- 永禄12年(1569年)、尼子氏残党の挙兵に加わった米原綱寛が拠った。
- 元亀元年(1570年)、布部山の戦いの結果尼子勢は総崩れとなり、高瀬城は孤立、鳶ヶ巣城の毛利輝元・元春、平田城の岡又十郎等との間に、城下で激しい戦いが繰り広げられた。
- 元亀2年(1571年)、毛利輝元に率いられた毛利勢に攻められ落城。一時吉川元春が入城したが、尼子残党勢が一掃された後廃されたと考えられる。なお、元春は父毛利元就の訃報をこの城で受け取っている。
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高瀬城の口コミ情報
2021年10月10日 ビーンズマン修理大夫
上之郷城[高瀬城 周辺城郭]
城主は塩冶氏と伝わっているが、定かでない。城の裏からまわって登城できる。三の丸、四の丸は整備されている。途中に駐車場があるが、道は狭く車での登城は注意。
城の7、8合目まで車で上がれ、駐車場がある。
2021年08月30日 ビーンズマン修理大夫
高瀬城
こちらは、高麻城ではなく、高瀬城。
登城口から上り、尾根伝いに上がるとまず、三の丸(鉄砲立)がある。尾根の頂上の細いところが連なっていて、敵の人数に制限をかけられる。また、この尾根から鉄砲で山裾の敵兵を狙い撃ちできる。その後、進んでいくと七曲りがあり、開けた郭の駄置場がある。ここから右手に行けば、小高瀬(二の丸)。左手に行くと、大高瀬(本丸)。大高瀬までは、小さな郭が連なっており興味深い。本丸の大高瀬からは、宍道湖や出雲平野を見渡すことができる。
さすが、尼子十旗の一つ。強固な作りをしている。
小高瀬は、びびっていかなかったので、不明。
2021年07月25日 ビーンズマン修理大夫
高麻城[高瀬城 周辺城郭]
尼子十旗の一つ。(大西城ともいう)大西氏の居城。
城の標識が麓にあるが、それ以外は説明板もない。回りの山より高く、目立つ。登山道は、草刈りなどが昔はされていたようだが、今はされておらず少し薄気味悪い。