羽衣石城(うえしじょう)
羽衣石城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石
旧国名
- 伯耆国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- 独立式層塔型[3重3階/1931年築・1990年改/RC造模擬]
築城主
- 南条貞宗
築城年
- 貞治2年(1363)
主な改修者
- -
主な城主
- 南条氏、尼子国久、毛利元経
廃城年
- 慶長5年(1600)
遺構
- 曲輪、石垣、井戸
指定文化財
- 県史跡(羽衣石城跡)
再建造物
- 模擬天守、石碑、説明板
周辺の城
-
打吹城(鳥取県倉吉市)[7.1km]
堤城(鳥取県東伯郡)[8.7km]
河口城(鳥取県東伯郡)[9.0km]
岩倉城(鳥取県倉吉市)[9.9km]
会下城(鳥取県鳥取市)[14.0km]
鹿野城(鳥取県鳥取市)[15.1km]
槻下豪族館(鳥取県東伯郡)[17.5km]
富吉城(鳥取県鳥取市)[18.5km]
草幾山城(鳥取県倉吉市)[19.2km]
余戸城(鳥取県鳥取市)[19.4km]
羽衣石城の解説文
[引用元:Wikipedia「羽衣石城」の項目]
羽衣石城(うえしじょう)は、伯耆河村郡埴見郷(現在の鳥取県東伯郡湯梨浜町)にあった中世の日本の城(山城)。鳥取県指定史跡。
概要
城跡は東郷池の南、羽衣石川上流にある羽衣石山(標高372メートル)にあり、山陰道と東郷池に臨む東伯耆の要衝にある。永禄から天正年間にかけてこの地を治めていた南条氏の本拠地で、伯耆の支配権を巡り尼子氏や毛利氏が激しい攻防を繰り返した[1]。
山頂には1990年(平成2年)に建てられた三層の模擬天守と「羽衣石城主南条公累代碑」がある。それ以前にも、1931年(昭和6年)に大阪在住の南条氏の子孫によって建てられた模擬天守があった。
南条氏は、伝承によると当初、羽衣石城よりも奥にある十万寺集落付辺に築城を予定していたという。築城しようとしたところ予定地のそばにある「日向池」(現在は地名のみ残る)にツバメが落ち、不吉なことだと感じた貞宗が羽衣石山へと変更させたといわれている。現在、その十万寺集落の北に広大な城跡(十万寺所在城)があることが判明しており、2019年(令和元年)度から調査が始まっている。
歴史
- 貞治5年(1366年)、南条貞宗が築城。
- 大永4年(1524年)、大永の五月崩れによって落城。尼子領となり、南条宗勝は山名氏の元に逃れる(近年の研究ではこの五月崩れの存在自体が否定されている)。
- 天文15年(1546年)、南条国清(のちの宗勝)、武田国信の要請を受けて尼子方を離れると同時に羽衣石城から退去する。
- 永禄5年(1562年)、宗勝、毛利氏が尼子氏を滅ぼした際、羽衣石城へ復帰する。
- 天正3年(1575年)、宗勝、月山富田城の吉川元春らに謁見。その帰途病死する。宗勝の死により、子の南条元続が家督を継ぐ。
- 天正7年(1579年)、元続、父宗勝の死を毛利方の謀略とみて毛利方に背き、羽柴方につく。
- 天正9年(1581年)、元春が馬ノ山に布陣し、子の元長に羽衣石城を攻めさせる。鳥取城を落とした秀吉軍が馬ノ山で元春軍と対陣したが、両者共に退いた。
- 天正10年(1582年)、元春配下の武将・山田重直の手により落城する。
- 天正12年(1584年)、織田氏と毛利氏の和睦が結ばれ、伯耆国東3郡が南条氏領となる。
- 天正19年(1591年)、元続が病死し、子の南条元忠が家督を継ぐ。
- 慶長5年(1600年)、元忠は西軍について敗れ、羽衣石城は廃城となった。
- 昭和6年(1931年)、南条氏の子孫の手により、山上に鉄骨・トタン葺き・トタン張りの模擬天守が建てられた。
- 平成2年(1990年)、模擬天守が建て替えられ、中腹までのアクセス道が整備された。
- 平成13年(2001年)、県史跡に指定される。
構造
標高372メートルの峻険な羽衣石山に多数の曲輪が設けられている。天嶮を利用した山岳城郭であるが、随所に石垣も設けられており中世城郭から近世城郭への移行の姿をとどめている。
本丸と帯曲輪
羽衣石城の本丸は山頂部に設けられ、東西66メートル、南北20メートルほどの細長い長方形である。本丸の西端に模擬天守が建造されているが、天守が存在したかどうかは定かではない。模擬天守建造に伴う試掘調査の際、地鎮具と見られる壺が出土した。本丸への入り口は本丸西側にあり、石垣を用いた虎口も設けられている。
一段下がって本丸を取り巻くように帯曲輪が設けられている。帯曲輪の北端からは試掘調査の際に柱穴や柵穴が検出され、物見櫓や板塀の存在が推定されている。現在、帯曲輪西端には東屋風の展望台が建てられている。
調査の際、瓦の出土がなく、基本的に建物は板葺であったと思われる。
砦群
本丸を中心に放射状に広がる北方尾根と西方尾根に、90余に及ぶ砦群が階段状に設けられている。南条氏の居館は山腹の八幡神社上にある比較的大規模な曲輪と伝えられているが、定かでない。ここからは試掘調査の際に土師質の土器片、備前焼、白磁・青磁などが出土している。平時における南条氏の居館は、羽衣石集落の北方にある小鹿谷にあったと考えられている。
東方尾根は峰伝いに攻撃されやすい弱点のため、数段の砦と堀切で防御している。しかし、1582年(天正10年)の吉川元春との攻防戦の際は、東方尾根からの攻撃を支えきれずに落城している。城の南方面の防御は峻険な崖を利用しており、特に人工的な防御施設はない。
本丸への登山道としては大手口と搦手口の2本がある。大手口には「天然の塁壁」と呼ばれる高さ5メートルほどの崖を利用した防壁がある。大手口途中には「お茶の水井戸」と呼ばれる井戸があり、城内の水の手として利用されていたことが推測される。搦手の本丸下には「羽衣岩」という天女が羽衣を掛けたと伝えられる巨石があり、ここも砦として利用されている。
十万寺所在城
十万寺所在城は、羽衣石城の南方に位置する423メートルの山頂にあり、東西70メートル、南北50メートルの主郭を中心に、土塁、堀切、空堀及び切崖が広範囲に分布している。土塁で囲境された平らな主郭を中心に、各峰の防備に設けた堀切と空堀は、中世城郭の特徴を持つ。
大規模な野戦築城がなされているにもかかわらず、地元に城としての伝承が伝わっていない。これは外部からやってきた軍が、攻城戦のなどのために一時的に設けたもの(すぐに廃城となった)で、地元との関係が希薄のため伝承として残らなかったのでは、と言われている。
そのように呼ばれ始めた時期は不明ではあるが、羽衣石地区では「たいこうがなる(太閤ヶ平)」と呼ばれており、羽柴秀吉の在陣があったことをうかがわせる。なお、秀吉が鳥取城攻めの際に鳥取市百谷に築城した陣城も「太閤ヶ平」と呼ばれているが、関連性は不明である。
出城群
付近に白石砦、河口城、田尻城、高野宮城、松崎城、番城、上山砦などの出城がある。
参考文献
鳥取県の歴史散歩編集委員会 2012『鳥取県の歴史散歩』新全国歴史散歩シリーズ31 山川出版社 p.125
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羽衣石城の口コミ情報
2024年05月03日 井上権大納言(^^)v
羽衣石城
雨上がりに模擬天守? 見に登山いたしました。心拍数 爆上がりに何度もなりながら頑張って登りました。
2023年12月06日 気分爽快豊後守
羽衣石城
駐車場から左ルートと右ルートがあり迷うところですが、小雨が降っていたので登り左、下り右が正解でした。左ルートは丸石が敷かれていて、確実に足を滑らすことになったと思います。
かつてはトタン板壁の天守だったようですが、サッシのガラス窓でできた天守が鎮座していました。
①天然の塁壁 自然のものらしい
②帯郭と谷
③似てないけど、しろまるひめが頭に浮かぶ
④この切岸は登れない
⑤羽衣石 伝説は三保の松原だけではないのね
⑥お茶の水井戸
⑦右ルート途中の石垣
⑧発掘調査中の様子
2023年10月08日 宇治ひろの勘解由長官ふくやん
羽衣石城
午後5時、駐車場から入山。ガイドには約15分の行程と記載でしたが、かなりの急傾斜でこの日4城目の攻城でもあり、足が止まることもしばしば。ただ、登りきったあとの眺望は絶景です。晴れていれば足元も整備のため大丈夫です。
2023年09月28日 馬防柵
羽衣石城
見晴らしがすごいです。雨の日は滑りやすいので、足元注意です。
2022年06月14日 しぇるふぁ加賀守
松ヶ崎城[羽衣石城 周辺城郭]
東郷池の南東部ほとり、JR山陰本線・松崎駅付近にある城跡です。別名があり、「亀形ヶ鼻城」(きぎょうがさきじょう)とも呼ばれています。かつては湯梨浜町立桜小学校の敷地内となっていましたが、廃校となっており現在は校舎建物がリノベーションで活用されてカフェ兼ミニシアター館になっています。
現地には案内板設置されています。その内容を簡単にまとめると…
「羽衣石城主の南条氏の与力である小森和泉守方高の居城だったとあります。小森和泉守は南條氏から離反しようとしましたが、進ノ下総免之に攻められて討ち取られてしまいます。その後は進ノ下総が城主となりましたが、関ヶ原の戦いで主君の南條氏が西軍として参加して敗れてしまい、羽衣石城とともに壊されて廃城となった。
桜小学校建設の際、石垣と思われる石材が多数出土し、一部にくさび跡があります。」
以上のような内容が記されていました。
2020年12月06日 KAZ左大臣正勝
十万寺城入り口[羽衣石城 その他]
手前2本の赤いGPS杭が目印になります。ここまで上がった沢沿いと別れて左側に曲がると大堀切の真下に出れます(^O^)/羽衣石城からの中国自然遊歩道でたどり着く方法はお勧めでは、ありません(>_<)熊さんの公衆トイレなど…12月6日現在も気配が有り有りの有りっす(>_<)駐車場は無いのですが、すぐ下の一般道からのアプローチに徹しましょう:(;゙゚'ω゚'):
2020年12月06日 KAZ左大臣正勝
十万寺城 大堀切[羽衣石城 遺構・復元物]
堀底通路になっているとの事です(^-^)
ここを通って北西部を回る通路兼
曲輪との事です*\(^o^)/*
2020年12月06日 KAZ左大臣正勝
十万寺城[羽衣石城 周辺城郭]
羽柴秀吉が羽衣石城の南条氏救護の為に築いたお城になります。砦と表記される方もいらっしゃいますがお城表記でも問題ない程の土木量!驚愕の土木量!!圧倒的な土木量!!!まさしく、太閤ヶ平だと思います(°▽°)今年1番のマックステンションっす!見晴らしも最高で、羽衣石城越しの馬の山(吉川元春陣地)まで見渡せました*\(^o^)/*まさに、ここが!秀吉軍3万と毛利軍(吉川軍)6千の対峙した現場です!((o(^∇^)o))
2019年05月26日 のぶひろ雅楽允
羽衣石城
十万寺所在城から、羽衣石城を望む。
十万寺所在城は「たいこうがなる」と地元に伝わる。鳥取城兵糧攻めの後、吉川元春と対峙する南条元続の救援のため、羽柴秀吉が着陣した陣城か…。
2018年09月01日 安那備後守はるか
羽衣石城
駐車場より左右に登山道があり左手は大手、右側は搦め手側になります。搦め手側からあがりましたが山道は整備されており、この時期でも草もなく息を整える程度で普通にあがることが出来ました。主郭、曲輪も少々の雑草程度だったのでしっかり散策することが出来ました。管理の方に感謝です。大手道はあまり整備されておらず石がゴロゴロしており足元が悪いです。それぞれ見所があるのでグルリと回ると良いかと思います。本城の北東側には番城という支城があり東側からの攻撃を見張る為に作られています。同じく南側にも十万寺城という大規模な支城があり織田軍の駐屯があったそうです。番城へは尾根伝いに行けるみたいなので外枡形状の虎口、他遺構があり時間があれば散策したいものです。
2017年06月20日 織田上総介晃司
羽衣石城
羽衣石城の麓に駐車場があります。
向かって右側の登山道から模擬天守を目指しました。
途中石垣や羽衣岩などありますが、かなりキツイ道のりです(備中松山城もキツイですが多分、羽衣石城のほうがキツイ)
備中松山城は登城の辛さがあっても重文の天守が出迎えてくれて達成感はありますが、羽衣石城は模擬天守なので…「どうしても模擬天守を見たい!」という方以外リア攻めはあまりお薦めしません。
東郷温泉か、はわい温泉の方を薦めます。
2017年05月12日 戦国の覇者もどき
羽衣石城
羽衣石城の近くに駐車場がありトイレも在ります。
山頂にはトイレはないですが、素晴らしい眺めです。山を下り羽衣石川に沿って下ると山陰地方最大級の古墳 北山古墳があります。是非行ってみてください。
2016年05月26日 梅鉢近江守Silvine
羽衣石城
入り口の看板に徒歩15分と書かれていますが、なかなかきつい坂道で20〜30分は見たほうがいいと思います。入り口の杖は持って行きましょう。井戸への道は少し崩れていますが、通れないことはないと思います。大手の方はよく整備されていますが、搦手(徒歩20分と書かれたほう)は石がごろごろしており、苔むして滑りやすいので気をつけてください。
2015年05月03日 まるき〜陸中守
羽衣石城
城取り攻略は倉吉駅前付近でGPS攻略できますが
実際に行くと、かなりの山道を歩きます。
麓の駐車場には綺麗なトイレが有ります、今登ってきましたが辿り着くとパノラマビューで眺めは最高でした。かなりの急坂です、入り口付近に杖が置いてあるのが納得できました。
2010年11月14日 ️_
羽衣石城
伯耆国・羽衣石城再訪にて四年連続リアル百城達成
今思えば、現状把握目的の再訪に拘らなければ、そろそろリアル千城に手が届いてたかも
まっ、いいか