会下城(えげじょう)
会下城の基本情報
通称・別名
- 大坂の城
所在地
- 鳥取県鳥取市気高町会下
旧国名
- 因幡国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 逢坂与十郎
築城年
- 元亀・天正年間(1570〜1592)
主な改修者
- -
主な城主
- 逢坂与十郎
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、土橋
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板(会下城)
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-
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会下城の解説文
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遺構
日本海の海岸線から南へ約2km、逢坂谷の西側に南北に伸びる山の山頂に位置する。文政年間(1818~1831)に作成された『因伯古城跡図志』には、山頂部に四間(約7m)×二間(約4m)の平地、南の尾根に4ヶ所の平地、北の尾根に2ヶ所の帯曲輪が描かれている。尾根筋には曲輪・堀切・土橋の遺構が残る。
山頂からは大手側とされる東の逢坂谷、北の日本海、南は鷲峰山までを一望することができ、交通の要衝を押さえる立地であったことがわかる。
また、城の北東約300mの段丘先端には、南と西を堀で守られた城主の館があったという。
歴史
城主は逢坂谷3千石を領する国人の逢坂与十郎と伝わる。『気高郡史考』によると、元亀年間(1570~1573)のある日、突如敵が海上から現れ鬨の声を上げて城へ押し寄せてきた。与十郎は城を出て防戦するも衆寡敵せず自害しようとしたが、村人に諫止され落ち延びることとなった。
これを見た敵勢は与十郎を取り囲んだが、与十郎が弓術の達人であったために虎口を脱し、青屋(青屋町)に落ち延びたという。
会下城もまもなく落城した。
交通
・JR西日本山陰本線浜村駅から車で約15分参考文献
・『気高郡史考』楢柴竹造、1923年。・『日本城郭大系 第14巻』新人物往来社、1980年。
・会下城跡現地説明板、旧気高町教育委員会。