鹿野城(しかのじょう)

鹿野城の基本情報

通称・別名

王舎城、志加奴城、鹿奴城

所在地

鳥取県鳥取市鹿野町鹿野1829

旧国名

因幡国

分類・構造

平山城

天守構造

不明(天守台あり)

築城主

志加奴氏(鹿野氏)

築城年

不明

主な改修者

亀井茲矩

主な城主

志加奴氏、山名氏、亀井氏、池田氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

曲輪、石垣、横堀、土塁

指定文化財

市史跡(鹿野城跡)

再建造物

周辺の城

会下城(鳥取県鳥取市)[5.6km]
富吉城(鳥取県鳥取市)[6.2km]
蓑上城(鳥取県鳥取市)[6.6km]
防己尾城(鳥取県鳥取市)[8.2km]
大崎城(鳥取県鳥取市)[8.3km]
鵯尾城(鳥取県鳥取市)[11.1km]
布勢天神山城(鳥取県鳥取市)[11.7km]
河口城(鳥取県東伯郡)[12.7km]
新山城(鳥取県鳥取市)[13.2km]
丸山城(鳥取県鳥取市)[13.7km]

鹿野城の解説文



鹿野城(しかのじょう)は、鳥取県鳥取市鹿野町鹿野(旧・因幡国気多郡)にある日本の城(平山城跡)跡。鳥取市指定史跡[1]

歴史 

戦国時代まで

城の創建年代は不明であるが、因幡の国人領主・志加奴氏(鹿野氏)が居住していたと言われる。

『陰徳太平記』によれば、1544年(天文13年)初夏、因幡に侵攻してきた尼子晴久によって攻撃され、城主の鹿野入道以下300余名が討ち死にしたという。

1563年(永禄6年)には武田高信の攻撃を受けた因幡守護・山名豊数が守護所である布勢天神山城を捨てて鹿野城に退いている。

亀井氏の入城

1580年(天正8年)羽柴秀吉による第1次鳥取城攻撃の際に織田方の城となり、尼子家の旧臣亀井茲矩が守将となった。茲矩は本能寺の変後に秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍に属して加増され、都合3万8,000石の領主として近世大名となった(鹿野藩)。この過程で、鹿野城は近世城郭へと改築された。

亀井茲矩は朱印船貿易を行っていたため、天守以下の櫓や門に仏教に由来する名称を付けていたと言われる。さらに自らの居城(鹿野城)を王舎城(おうしゃじょう)、城下町を鹿野苑(ろくやおん)、城の背後にそびえる山を鷲峰山(じゅぶせん)、城下を流れる川を抜堤川(ばったいがわ)と名付けている。また、城の改築にあたり、亀井家略紋(丸に一つ引)の入った瓦を使用している[2]

1617年(元和3年)、茲矩の嫡子政矩は津和野藩へ転封される。

鳥取藩池田氏の治政

1617年(元和3年)、池田光政の鳥取入府に伴い、家老・日置忠俊が城主となる。1628年(寛永5年)には鹿野城下の火災によって城の一部が焼ける被害に遭った。このとき、亀井茲矩が朱印船貿易で入手した香木で作らせた「唐木の小座敷」と呼ばれる一室が焼失したという。1640年(寛永17年)から1662年(寛文2年)にかけては播磨国宍粟騒動で改易された山崎城主・池田輝澄が堪忍料一万石で鹿野城下の光輪寺に居住した(当時の庭が残っている)。その後、1632年(寛永9年)に入部した池田光仲によって代官・佐藤知之が派遣されたが長くは続かず、『鹿野筆縋』によれば1644年(正保元年)2月に城の破却が行われたという。

1868年(明治元年)、鳥取池田家の支藩(新田藩)である東館新田藩3万石の藩庁が鹿奴(鹿野)陣屋に置かれ、同藩は鹿奴藩の名称で呼ばれることになる。しかし鹿奴藩は鳥取藩に付随する形式上の藩という性格が強く、鹿野に鹿奴藩主が来ることも、鳥取藩から独立した政庁が置かれることもなかった。翌1869年(明治2年)には鹿奴藩はみずから廃藩を行って鳥取藩に吸収された。

構造 

標高148mの山頂に設けられた本丸を中心に、二の丸・三の丸と階段状に配置されている。また鳥取県内の近世城郭としてはただ一つ、西の丸の呼称を持つ郭も存在する。

  • 本丸には小規模な天守台が残り、2層程度の天守が存在していたと推測されている。
  • 二の丸には朝鮮櫓・オランダ櫓の呼称をもつ櫓があったと伝わっている。城の絵図等が残っていないため詳細は不明だが、こうした呼称をもつ櫓の例は全国的に見ても珍しい。
  • 近年になって発掘調査が行われ、因幡池田氏の定紋である揚羽蝶紋や菊紋の軒丸瓦が出土している。また裾瓦も出土しているため、金沢城新発田城と同じような海鼠壁の城壁だったと推測されている。
  • 短い期間ではあるものの亀井氏治世下においては家紋の略紋である丸に一つ引紋の灰色瓦が用いられており、これは亀井氏の転封先である津和野に遺物として伝わる。
  • 城の絵姿としては、文久元年に他藩士の描いた『因州記』(湯舎人著 絵付旅日記 譲伝寺亀井茲矩二五〇年法要参列旅程記録)が残されている[3]

備考 

鹿野城は毛利氏の因幡経営の本拠地として戦国時代から存在しており、亀井茲矩の入部後に近世城郭としての改築が図られたと見られる。近世城郭としての鹿野城は上記の規模・構造だが、この規模では毛利氏因幡経営の本拠地としては余りにも小さい。杉原土囲という天正八年の付城跡が幸盛寺に残っており、現在の鹿野城跡がその一部であったことが想像される。さらに、現在の鹿野城跡南側の裏山に広がる遺構が毛利氏の因幡経営の本拠地としての中世山城鹿野城であると考えられている。

交通アクセス 

  • 山陰本線 浜村駅からバスで15分、「鹿野総合支所前」下車、徒歩8分

周辺 

  • 鹿野(城下町)
  • 鹿野往来(旧城下町を貫く旧街道)
  • 鹿野温泉

鹿野城の口コミ情報

2021年05月06日 数珠丸恒次左近衛大将ヒロティー
鹿野城

雨上がりで多少滑りやすかったですが、攻城しやすく、切岸等遺構も残っていて見やすいです。

2020年09月08日 兵部卿圧切とらのすけ
鹿野城



21号線から城跡に向かって行く道は、大型車では少し辛い道幅でした。

2018年08月06日 源山城守ポンコ2…
鹿野城

鳥取駅から21号線を道なりに西に走らせ、鹿野に入ってから歯医者さんを左折し、直進して鹿野中学が見え、そこを右折し光輪寺前の路地を通って、鹿野苑の駐車場まで車で約25分でした。
ここの駐車場は5~6台停めれます。

麓に鹿野中学がある二ノ丸、中学グランドがある本丸、各々を囲う水濠があり、本丸裏の山に天守台があります。
麓が近世城郭、山が中世城郭と近世に改修した城郭のようです。
水濠は下部に石垣があり、二ノ丸は横矢掛が入り、幅も広いとこで20mほどありそうです。
二ノ丸の水濠沿を1周して二ノ丸に進み入ると、二ノ丸の東西隅は少し高台の土塁があり、櫓台のようです。
二ノ丸から橋を渡ると本丸虎口の表示があり、草の下に石垣がありました。

鹿野苑に戻り、神社鳥居を潜って階段や石段を上っていきましたが、夏場でも藪漕ぎはないものの革靴で歩くのは少し辛かったです。
途中に西ノ丸、城山神社があり、神社のすぐ上に小さい目で礎石が残る天守台があります。まわり始めてから50分ちょっとでした。

天守台へは、虫対策や水分持参で行かれるほうがいいと思います。静かでよい所でした。



2017年06月20日 織田上総介晃司
鹿野城

近くに観光者用の無料駐車場がありますがあまり広くないので早い者勝ちチックな駐車場です。

「オランダ櫓」「朝鮮櫓」と変わった名前の櫓があったそうです。

二の丸に鹿野中学校校舎。本丸にグラウンドがあり、薬研堀を赤い欄干の橋で行き来します。

二の丸の鐘を鳴らすと餌を貰えるのを知っているので丸々太った鯉がわんさか集まってきます。



鹿野城の周辺スポット情報

 石垣(遺構・復元物)

 幸盛寺入口(碑・説明板)

 童里夢(御城印)

 駐車場(駐車場)

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