二日町城(ふつかまちじょう)
二日町城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 岐阜県郡上市白鳥町二日町
旧国名
- 美濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 東益之
築城年
- 康永年間(1342〜1344)
主な改修者
- -
主な城主
- 東氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、竪堀、横堀、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
篠脇城(岐阜県郡上市)[12.0km]
義平館(福井県大野市)[14.9km]
郡上八幡城(岐阜県郡上市)[18.8km]
小山城(福井県大野市)[30.3km]
桜洞城(岐阜県下呂市)[32.8km]
萩原諏訪城(岐阜県下呂市)[32.8km]
亥山城(福井県大野市)[33.4km]
越前大野城(福井県大野市)[34.4km]
戌山城(福井県大野市)[35.2km]
帰雲城(岐阜県大野郡)[35.3km]
二日町城の口コミ情報
2024年01月26日 RED副将軍
六ツ城[二日町城 周辺城郭]
石積みが多様された猪俣氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は詳細不詳。猪俣氏により築かれた代々の居城。
猪俣氏は篠脇城の東氏の家臣であり、戦国時代には猪俣義綱の居城と伝わります。
1540年に朝倉氏侵攻時には、白米で馬を洗うなどして水がある様に見せかけた白米伝説がここにもあり、朝倉軍を越前に撤退させたと伝わります。
1559年に遠藤氏により東氏により滅亡すると、猪俣氏は遠藤氏に属した様で、1584年の小牧・長久手の戦いにおいて猪俣義綱は豊臣秀吉方の遠藤氏に属して参陣。美濃の旗頭であった池田恒興に従い奮戦するも討死。その後、六ツ城は廃城となった様です。
見所
牛道川と阿多岐川に挟まれた標高540mの山陵に築かれており、東西に伸びる尾根に郭が連なる連郭式山城です。
西側大手から大手曲輪、二の曲輪、本丸、狼煙台と連なり搦手に続きます。
在地土豪の城郭とは思えないくらい石積みが多様されているのが特徴的で、本丸の東西は土塁と大堀切で区切られ、南側には三条の竪堀が落ちています。
二の曲輪は上下二段で構成され、北側面には明瞭な石積みが残り、狼煙台には石組みの穴があります。
整備も行き届き、案内板もあります。マイナーながら楽しめました。
行き方は、県道316号から少し入った城域西側麓に案内板と城跡碑があり、駐車スペースと登城口があります。
比高は約80mで15分くらいで主郭に辿り着きます。
2023年10月05日 とんかつおやじND
石徹白城[二日町城 周辺城郭]
石徹白城は代々、現地の白山信仰の神職も兼任した石徹白氏の城 越前朝倉氏の傘下で越前が織田の支配下になると その時の城主、石徹白長澄は金森長近に従う
単郭に 南側から東側に腰曲輪があり 北側に土塁からの堀切がのこる 丘城 道路脇からすぐ
2021年12月07日 RED副将軍
二日町城
篠脇城の支城であり同じく畝状竪堀群が見事です✨
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
1340年頃に篠脇城主東益之により築城。次男の安藤遠江守氏世を居城させた。北の鷲見氏、後には内ケ島氏、西の越前朝倉氏に対する東氏の北の守りの城。
見所
主郭の東側から南側にかけて畝状竪堀群がビッシリと連なる。残存度合いは良好。
写真
①②登城路
③④主郭
⑤主郭の切岸
⑥⑧⑨主郭下の畝状竪堀
2021年06月26日 とんかつおやじND
六ツ城[二日町城 周辺城郭]
この城跡は牛道郷の中心を流れる牛道川と阿多岐川の合流する位置で野添と中西の間を東西に走る海抜600米の山の先端部で築城には天然の要塞の絶好地である。
城歴はあきらかでないが、宇治川の先陣で追手の大将軍御曹司範頼に相伴う武者の一人、又侍賢門の戦いで有名な武蔵七薫の豪族と言い伝えられた猪俣小平六末裔の古城趾とも言われ今から六六〇年前頃の創築と考えられる。その末裔五平次義綱は天文、弘治の頃越前穴馬の一部をも分領し飛ぶ鳥も射落とすほどの勢いであった。
天文九年越前朝倉本郡を、侵略せんとし、まずこの城を攻めようとしたがこれを逸早く察知した城主は、土地の土民を集めて川原の小石(投げ石)など城頭に運ばせて恩地辺りに敵を発見するや岩上より白米を流して滝に見せ、又馬の足を水に見せた白米で洗ふ等して敵を詐瞞し城の威勢を見せた敵はこの城の攻撃を断念し早々に退却したと言う。尚、阿千葉城、篠脇城の激戦にも大勝利を得こうした戦の中でも山となった三日坂の死骸の話は聞くのも恐ろしい。
天政十二年長久手の戦いに豊臣方池田信輝に属して出陣し壮烈な戦死を遂げた。城に残る一族は敗戦を知り城を焼き払って方々に逃隠した。威勢を振るった猪俣氏の居城も遂に敗散した。
現地看板より
整備されて 遺構を楽しめます。
狼火台 一見の価値あり
2021年06月09日 とんかつおやじND
鷲見城[二日町城 周辺城郭]
鷲見城創築については諸説があるが、本城築城は、文治元年との説が有力である。
鷲見城址は、現在の高鷲村のほぼ中央に位置する向鷲見山にあり、大鷲盆地から九五mであまり高い山ではないが、北側と西側は長良川、南側は切立川の急流が山脚を洗い、東側には深い谷があり、周囲を天然の濠に囲まれた地勢である。
加えて北側足下に長良川を挟んで飛騨街道を擁し、東方は鷲ヶ岳を主峰とする重畳たる山岳に続く要害である。
鷲見城は、恵まれた地形を巧みに生かして縄張りが施されていた。
城主は、平時には居館城に居住し戦時には本城にあったものと推察される。
現地案内看板より
藤原北家房前の家系より出た頼保を祖とする。伝承によると、美濃の山間に人々に危害を及ぼす大鷲が棲息することが順徳天皇の耳に達し、頼保は命により郡上郡雲ヶ嶽(現・鷲ヶ嶽)で大鷲2羽を退治して、朝廷から鷲見姓を許され、美濃国芥見荘鷲見郷を永代下賜されたという(鷲狩り伝説)。頼保は同地に向鷲見城を築き、元久元年(1204年)に死去した。
wikipediaより
2019年01月16日 青コアラ美濃守
二日町城
先人様が書かれている道は現在、かなり荒れていますので、車高の高い四駆でないと難しいです。途中の「天満宮大神」という石碑が立っている所に若干のスペースがありますので、そこに駐車して歩くのが無難だと思います。そこから徒歩10分ぐらいで入口です。
2013年06月30日 三河守コーキしゃん
二日町城
国道156線「二日町下田」のバス停を西に入り、山道を600m程進むと左手に登城口の石碑があります。
石碑の前に駐車できます。
郭自体は単郭で、主郭の西側には畝状竪堀が残り、規模の小さいお城ですが、見応えがあります。