千徳城(せんとくじょう)
千徳城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 岩手県宮古市太田2
旧国名
- 陸中国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 河北閉伊氏
築城年
- 14世紀後期
主な改修者
- 一戸千徳氏
主な城主
- 河北閉伊氏、一戸千徳氏
廃城年
- 天正20年(1592)
遺構
- 曲輪、横堀(空堀)、天守跡
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
刈屋館(岩手県宮古市)[14.7km]
大梵天館(岩手県宮古市)[25.5km]
大槌城(岩手県上閉伊郡)[30.8km]
狐崎城(岩手県釜石市)[40.2km]
普代城(岩手県下閉伊郡)[41.4km]
火渡館(岩手県遠野市)[41.9km]
田代館(岩手県宮古市)[44.0km]
蒲田館(岩手県盛岡市)[45.3km]
鍋倉城(岩手県遠野市)[48.6km]
大迫城(岩手県花巻市)[56.3km]
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千徳城の解説文
[引用元:Wikipedia「千徳城」の項目]千徳城(せんとくじょう)は、岩手県宮古市千徳町に存在した中世の城。一戸千徳氏の居城として知られる。
【概要】
閉伊川及び近内川に挟まれた要害の地にあり、標高78mの小山の上に築かれた平山城である。東西320m、南北に420mの規模を持ち、主郭、二の郭、三の郭、四の郭、五の郭からなる曲輪群を形成しており、それぞれの郭は空堀で区切られている。雄大な規模と精緻な縄張りを持つ、中世の城としては第一級のものと評されている。
【歴史・沿革】
遺領争いをきっかけに分裂した閉伊氏の内、閉伊川より北の地を領有した河北閉伊氏によって14世紀後半に築城されたとする説が一般的である。河北閉伊氏は天文年間に南部氏によって滅ぼされ、その後に南部氏の目代として一戸系千徳氏が入り、城を拡張したと考えられている。千徳氏は城主であった千徳政氏の代に浅瀬石城に移ったため、千徳城は一族の一戸孫三郎が守った。その後孫三郎は南部信直に従って文禄の役に従軍したが、その後消息不明となる。
天正20年(1592年)、「諸城破却令」により廃城された。諸城破却書上には「千徳 山城破 一戸孫三郎 持分」とある。[続きを見る]
千徳城の口コミ情報
2013年12月31日 中務少輔きたろう三世
千徳城
神社の奥の道を行くと畑があり、更に奥に行くと複数の郭や切り岸がある。
閉伊川を挟んだ対岸には、千徳氏と並ぶ有力国人、田鎖氏の田鎖城があり、こちらも良好な遺構が残る。
2010年06月14日 のぼちゃん陸奥守
千徳城
県道40通り沿いの保育園の裏通りに神社がありました。たぶんそこから上がると城跡かと思いますが、駐車場は見当たりませんでした。