世田谷城(せたがやじょう)
世田谷城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 東京都世田谷区豪徳寺
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 吉良氏
築城年
- 応永年間(1394〜1428)
主な改修者
- -
主な城主
- 吉良氏
廃城年
- 天正18年(1590)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 都史跡(世田谷城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
赤堤砦(東京都世田谷区)[1.2km]
三宿城(東京都世田谷区)[2.4km]
瀬田城(東京都世田谷区)[3.8km]
深沢城(東京都世田谷区)[3.9km]
烏山城(東京都世田谷区)[4.1km]
大蔵館(東京都世田谷区)[4.2km]
碑文谷殿山(東京都目黒区)[4.3km]
奥沢城(東京都世田谷区)[4.7km]
目黒氏館(東京都目黒区)[5.0km]
喜多見城(東京都世田谷区)[5.2km]
世田谷城の解説文
[引用元:Wikipedia「世田谷城」の項目]
世田谷城(せたがやじょう)は、武蔵国荏原郡世田谷[1](現:東京都世田谷区豪徳寺)にあった日本の城。
概要
世田谷城は、吉良氏によって築かれた平城。世田谷に本拠を置いた奥州吉良氏が代々居を構えた。
歴史・沿革
- 貞治5年(1366年)、吉良治家が世田谷郷を与えられる。
- 応永年間(1394年 - 1426年)頃、居館として整備されたと考えられている。
- 吉良成高の頃、城郭として修築されたものと考えられている。
- 天正18年(1590年)、吉良氏朝の代に小田原征伐により豊臣氏勢に接収されたが、同戦役後に廃城となった。江戸城改修に石材を利用したという。
構造
世田谷城は経堂台地から南に突き出た舌状台地上に占地し、城域の三方を取り囲む様に麓を烏山川が流れ天然の堀を成していた[2]。
開発が進み旧態は詳らかでないが、豪徳寺付近に本丸を置き、現在の世田谷城阯公園付近まで城域が拡がっていたものと考えられている。
遺構
世田谷城阯公園内から北に向けて延びる、空堀及び土塁が現存する。世田谷城阯公園内の遺構に関しては公園整備時に手が加えられている。
豪徳寺参道脇の土塁、アパート脇の空堀や土塁の遺構は旧態を留めているが、一部立ち入りができない。
支城
- 奥沢城 - 出城
後史
江戸時代、世田谷代官屋敷が、東急世田谷線「上町駅」の東南200mほどの所にあった。
参考文献
- 八巻孝夫「世田谷城」村田修三(編著) 『図説中世城郭事典』第一巻、新人物往来社、1987年、285〜286ページ。
- 三田義春・東京都世田谷区教育委員会編 『世田谷の中世城塞』東京都世田谷区教育委員会、1979年。
- 世田谷区教育委員会の三田義春が奥沢城や世田谷城をはじめとする世田谷区内の城郭に関する研究成果をまとめている。
- 伊禮正雄「城南の中世城館址 その3」大田区史編纂委員会編『史誌』5号、大田区史編纂室、1976年、71〜78ページ。
- 1915年(大正4年)に作成された世田谷城跡見取り図を掲載。
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世田谷城の口コミ情報
2024年07月28日 織田上総介晃司
世田谷城
小田急小田原線豪徳寺駅から東急世田谷線に乗り換え宮の坂駅下車。徒歩数分で世田谷城阯公園に到着。
公園は城域のごく一部で、豪徳寺も城域となります。公園西隣りの公営団地の奥に土塁がありますが、住民及び関係者以外は立ち入り禁止となっており、土塁と空堀を見ることはできません。ブラタモリの放送でしか見れない代物です。
豪徳寺は17:00には閉門しますので時間にはゆとりを持ったほうがいいです。
招き猫発祥の地とされる豪徳寺には外国の方が多く訪れます。
帰りは商店街をぶらぶら通り、豪徳寺駅まで歩きました。風情があるので時間があれば豪徳寺駅から歩くのもいいでしょう。
彦根藩主・井伊直孝が大木の下で雨宿りしてると白猫が手招きしたので近づくと大木に落雷し、命拾いしたというのが、豪徳寺の招き猫発祥の由来ですが、ひこにゃんの発祥の地でもあります。
2023年11月28日 気分爽快陸奥守
世田谷城
世田谷に城址が残っていること自体が凄いということに満足して散策しましょう。
①城址公園の土塁
②城址公園の堀
③城址公園の堀
④豪徳寺前の土塁
⑤城址公園の土塁
⑥郭
2023年08月23日 世界左京大夫三郎太
世田谷城
世田谷城址公園を訪れました。
本丸は豪徳寺のあたり、南北の郭で小高くなっているあたりが城址公園になっていて土塁と堀が残っておりここに城があったことを感じることが出来ます。
2023年07月22日 あんどー右馬頭
世田谷城
少し小高い山城ですが、江戸時代には豪徳寺が居館跡だったということで、城跡公園はほんの一部ということになります。空堀や土塁っぽいのは見れますが、公園整備されたよう。豪徳寺には井伊家代々の墓石があり、広大な墓地になっています。また、招き猫発祥の地として、外国人の観光地となっています。
2023年01月15日 そるちーな
世田谷城
地元育ちですが、小学生の頃に誰か大人から「これは防空壕の跡」と城趾公園内で横穴?を見せられた記憶があります。隣がさらに高い土地で団地がありますが、そこも城内だったのでしょう。
2023年01月09日 嘘つき宰相アベ
世田谷城
区立世田谷城址公園があるが、吉良氏の世田谷城は、豪徳寺の本堂あたりが中心です。豪徳寺の境内や世田谷城址公園を散策すれば、その地形から世田谷城の概要が見えてくる。
2022年10月18日 むーたん図書頭
世田谷城
小さな城址公園は整備されていて、堀らしきのが確認できる。地元の人の憩いの場のようだ。メインは豪徳寺、歩いて行ける松陰神社をセットの観光で。
2022年08月21日 キャワ
世田谷城
豪徳寺に初めて行きました。大老のお墓に手を合わせました。
2021年12月30日 左近衛中将五郎八(いろは)姫
世田谷城
リア攻めポイントは豪徳寺ですが、少し離れた場所に世田谷城阯公園があります。豪徳寺には井伊直弼のお墓や井伊直孝縁の招福猫児(まねきねこ、と読む)像などあります。世田谷城阯公園には土塁や石垣があります。
2021年04月19日 龍馬備中守【】
世田谷城
東京都の世田谷区にある世田谷城☆吉良氏関連になります☆吉良氏の本城として機能しました☆そして都内23区の中で空堀を残している点では素晴らしいなって思います♪住宅街の中に良く残してくれたなぁ〜って感激と感動しか無いです☆
この城郭は世田谷に本拠を置いた奥州・吉良氏が代々居を構えました☆南北朝時代にです♪戦国時代に入ると吉良氏朝の代に小田原征伐で豊臣氏勢に接収されてしまいます☆同戦役後廃止されて行きました☆
その後の吉良氏は徳川家康に仕えて行く訳ですが吉良氏はこの頃から蒔田城を領して行き【蒔田氏】として正式に改称していきます☆
江戸時代に起こった赤穂事件では三河吉良氏が断絶した事を契機に再び「吉良」への復姓が許されました☆この復姓は吉良を名乗るのは一人のみという徳川家の意向があったからの様です☆名家の証ですね〜☆
なお同年に浅野長矩の弟・浅野長広が旗本として浅野家を再興しています☆つまりこの年に「浅野」「吉良」両家が同時に再興する形となりました☆
世田谷城を含むこの場所は後に彦根藩の世田谷領として存在して行きました☆豪徳寺には今も彦根藩・井伊家の墓が残ります☆
世田谷城はこの豪徳寺をも城域としていてかなり広大な城郭だった事が分かります☆
遺構としては空堀、土塁、郭等が街に溶け込みながら残っています☆
また招き猫ちゃんも有名です♪
可愛い招き猫ちゃんは福を呼んでくれるかもしれません♪
2021年04月19日 龍馬備中守【】
勝光院[世田谷城 寺社・史跡]
東京都の世田谷区にある勝光院☆ここは吉良氏が南北朝時代に創建したと伝えられています☆
吉良氏の菩提寺は吉良氏代々の墓が残ってます☆吉良氏は奥州管領にまで出世したりと陸奥多賀城に拠って足利政権の奥州統治の要となったり凄い武将様なんです☆
鎌倉公方家にも仕えた奥州吉良氏は公方と同じ足利氏の流れをくむ家として【鎌倉公方の御一家】という別格の扱いを受けたり凄い名家となっていきます☆「足利御一家衆」「無御盃衆」とも称されたりと吉良成高の時に遂に世田谷城を構えここに土着しました♪以後、拠点を変える度に「蒔田御所」「世田谷御所」「世田谷殿」と呼ばれました☆
戦国時代には関東の覇者となった後北条氏に取り込まれて操り人形と化した古河公方と共に吉良氏も政略結婚を通じて北条氏の傘下に入りました☆吉良成高の子の頼康は北条氏綱の娘と結婚し神奈川県の蒔田城をも領して「蒔田殿」と呼ばれ後北条氏の分国内にありながら独自の印判状を用いる事を許されました☆吉良氏朝の時に豊臣秀吉の小田原征伐による後北条氏の滅亡に遭い庇護者を失って旧領世田谷の実相院に隠居しました♪
江戸時代になると徳川家康に従う様になって家格の高さを認められ高家として取り立てられました〜☆昔からやっぱり力があったんですね〜☆
2021年04月19日 龍馬備中守【】
実相院[世田谷城 寺社・史跡]
東京都の世田谷区にある実相院☆
ここは世田谷城の吉良氏が開基します☆
お城では無いんですが(後に吉良氏が隠居した館)江戸城の残念石が実相院内に転がっています☆石切丁場だった訳では無さそうですが?石切丁場だったのかな〜?調べてませんw
主家の小田原北条氏の滅亡で吉良家は下総に逃れましたが徳川家康の江戸入府後に吉良氏朝は世田谷に戻り実相院で隠居したとされています☆
深い歴史を持つお寺です☆
お近くに寄った際は是非行かれてみて下さい♪
2021年04月17日 龍馬備中守【】
世田谷代官屋敷[世田谷城 寺社・史跡]
東京都の世田谷区にある世田谷代官屋敷♪表門はボロ市の開かれる通称ボロ市通りに面して建ってます☆
世田谷大場家は桓武平氏・大庭景親の子孫と伝えらています☆鎌倉時代には大場弥次郎房久が吉良家の家臣で吉良四天王の1人です☆
武蔵国の世田谷に移り住んだと言う訳です☆どのタイミングなんでしょうかね☆大庭氏がいつしか大場に変わって時代が流れます♪吉良氏は世田谷城を本拠地とした豪族で戦国時代には後北条氏に付いてました☆
更に話の冒頭にあったボロ市も1578年に北条氏政の【楽市掟書】により世田谷城下で始まった楽市が始まりとなります☆未だに年に何回かのボロ市は開催されているので凄い歴史になります☆「ボロ市」という名が付いたのは明治時代です♪古着とかの売買が盛んに行われてからこの名前がつきました♪
大場家の屋敷は元宿にありましたんですが大場信久とその嫡男・大場房勝の時に現在地に移って来ました☆
大場家邸宅の普請記録の初見は7代目の大場六兵衛盛政が建て替えた際の江戸時代の中期となります☆大場盛政は彦根藩から米105俵を借用して邸宅の改築を行いました☆大場盛政が代官に登用されると書院座敷を増築し居住部分を改修しました☆10代目の当主・大場弥十郎景運が書院座敷を建て替えていて大場景運はに内蔵を建てました☆
白州跡は罪人を正座させる場所です☆代官所だけにリアルですね〜☆
2021年03月21日 長森原
滝坂道・クランク[世田谷城 遺構・復元物]
世田谷城下を東西に通過していた2つの古街道、滝坂道(瀧坂道)と矢倉沢往還は、防衛上の理由から世田谷城近くでそれぞれ鉤の手状にクランクさせられていました。
今も滝坂道のクランクポイントには地蔵堂やS字に蛇行する街道筋が残され、古道の面影を偲ぶ事ができます。
なお、クランクポイント近くに瀧坂道説明板があり、それに書かれていた世田谷城の広域の防衛ライン(支城含む)についての説明が大変勉強になりました。
(説明文中の多聞寺砦=三宿城です)
2021年02月02日 あっきー民部卿
世田谷城
城跡をゆっくり見にいきたい方は、平日日中をおすすめします。放課後は子どもたちの遊び場に、走り回っていました。活気があって、これはこれで良いのですが、見学には不向きかと。
2020年09月21日 左馬允りょうた
世田谷城
堀切はとても大きいですが少し手が加えられています。公園は立ち入り禁止の所が一番価値があると思い住宅地の所を外から見たところ手がついていないようです。
2019年12月07日 国府左京大夫城介
世田谷城
世田谷線の上町、宮坂のどちらからでも5分程歩けば到着します。なお、駐車場はないので、リア攻めするには電車が便利だと思います。ただし、12/15,16と1/15,16はボロ市で世田谷線が凄く込むので、注意を。
現在の世田谷城は、二つの郭と堀しかありませんが、実際は豪徳寺も城内だったそうです。また、地図上では、豪徳寺住宅の裏も公園内ですが、入ることはできません。ただ、豪徳寺山門辺りから、郭らしき高台を確認することができます。
世田谷城主である吉良氏にあっては、上町駅から南に5分の所にある大場代官屋敷内の世田谷郷土資料館に系図等があります。また、この代官屋敷は国の重文に指定されており、必見です!
2019年05月18日 満州里
世田谷城
城壁の一部と空堀だけが残る感じ。住宅街の中でとても静かな雰囲気でした。
2018年08月11日 左馬允りょうた
世田谷城
堀は少し手が加えられている
2016年06月19日 ふーきち右近将監
世田谷城
世田谷城址公園、豪徳寺と史跡が多い。住宅街で本当に静かな場所。トイレは完備。駐車場は無し。
2013年01月11日 田部朝臣土持安房守
世田谷城
住宅地の真ん中で静かな場所。駐車場はなし。公園の範囲はけして広くないが十分な見応えがある。説明文があり、隣接の豪徳寺に屋敷とかがあったとか、教育的で好感をもった。
2010年09月13日 古楽侍従広家
世田谷城
この城のまわりの窪みは堀の跡らしいです。相当大きいですよね。
2010年06月07日 北左衛門佐信愛
世田谷城
昨日リアルに訪問して来ましたが、なかなか雰囲気があってイイとこでした。
23区内で静かに城めぐりしたい人にはオススメ。