奥沢城(おくさわじょう)
奥沢城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 東京都世田谷区奥沢7
旧国名
- 武蔵国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 大平氏
築城年
- 天文〜永禄年間?
主な改修者
- -
主な城主
- 大平氏
廃城年
- 天正18年(1590)
遺構
- 土塁、(発掘調査:畝堀)
指定文化財
- 区史跡(奥沢城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
深沢城(東京都世田谷区)[1.4km]
大平砦(東京都世田谷区)[1.6km]
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奥沢城の解説文
[引用元:Wikipedia「奥沢城」の項目]奥沢城(おくさわじょう)は東京都世田谷区奥沢にあった日本の城。
【概要】
奥沢城は、吉良氏によって築かれたと言われる平城。世田谷城の出城として用いられた。昭和62年(1987年)12月18日に世田谷区の区指定史跡に指定されている。
【歴史・沿革】
・天文 - 永禄年間頃、吉良頼康により築かれ、家臣の大平氏が守った。
・天正18年(1590年)、小田原征伐の後廃城となった。
・延宝6年(1678年)、珂碩により九品仏浄真寺が開かれた。
【構造】
周囲の平野部に南の台地から北方に突き出た舌状台地上に占地し、台地上の九品仏浄真寺境内に方形の郭跡が認められる。九品仏駅前から台地東麓に掛けて城郭由来の地名が残ることから、城域は九品仏駅付近から台地端まで拡がっていたものと考えられる。また、現在は開発が進んで失われたが、城跡周囲には近年まで堀跡及び「奥沢の底なし田圃」と言われていた深田が拡がっていた。往時はこの堀と北麓の沼地とで、三方の守りを固める構えとなっていたものと考えられる。
【考古資料】
〜遺構〜
九品仏浄真寺境内に方形に廻る土塁が残る。
【民俗資料】
〜鷺草伝説〜
奥沢城の城主・大平出羽ノ守の愛娘・常盤姫が、世田谷城の7代目城主・吉良頼康公に10人目の側室として選ばれ寵愛を受け子供を宿した。このことを嫉妬した頼康公の他の9人の側室達の計略で、常盤姫は無実の罪を頼康公に咎められ、最期は上馬の地で追手に捕らえられ自害した。世田谷城から追われる前に、常盤姫は大平出羽ノ守に助けを求める手紙を白鷺の足に付け託したが、折からの雨に濡れた足の手紙が重くなり白鷺は奥沢城近くで力尽き息絶えた。白鷺の亡骸は付近の村人によって発見され丁寧に葬られた。あくる年の夏に、その白鷺を埋めた場所に美しい花が一斉に咲き、それは白鷺の舞い立つ姿にそっくりな花であった。人々は、常盤姫の運命を偲んでこの花を鷺草と名付けた。
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奥沢城の口コミ情報
2020年09月18日 左馬允りょうた
奥沢城
あまり遺構はのこっていないがお寺の塀の近くに土塁が残っていて近所の人は小学生の頃古銭が出てきたとか
2017年09月17日 【右近衛少将奉公衆】土支田将監
奥沢城
北側に九品仏川が流れており、奥沢城のある台地を形作っている。
昔は城の南南西に「台場」という土地があり、そこには奥沢城の出城があったという。
2017年02月26日 まー刑部卿
奥沢城
先人の書かれてある通りだが駐車場に注意書きが。【禁無断駐車】とあり駐車場は檀信徒専用駐車場で参拝する場合は寺務所で『許可証』が渡すそうでしたが場所がわからず朝早かったのもありましたがウロウロする間に仁王門脇にある『奥沢城跡』という小さい石碑を見つける。石碑後ろの少し盛り上がった土が土塁跡?という感じでした。
2016年03月11日 斉藤権中納言にょふん
奥沢城
九品仏浄真寺が城跡。寺として見学してもとても静寂につつまれていて良い。建物としても良い。土塁もそれなりの高さを残しているのも良い。