駒ヶ嶺城(こまがみねじょう)

駒ヶ嶺城の基本情報

通称・別名

臥牛城、駒ヶ嶺要害、駒ヶ嶺所

所在地

福島県相馬郡新地町駒ヶ嶺字館

旧国名

磐城国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

相馬盛胤

築城年

永禄年間(1558〜1570)

主な改修者

主な城主

藤崎氏(相馬氏家臣)、黒木氏、桜田氏、新田氏、富塚氏、宮内氏(伊達氏家臣)

廃城年

慶応4年(1868)

遺構

曲輪、土塁、空堀

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

中村城(福島県相馬市)[6.0km]
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駒ヶ嶺城の解説文

駒ヶ嶺城(こまがみねじょう)は、福島県相馬郡新地町(陸奥国宇多郡)にあった城。

沿革
永禄年間から天正初年頃に、相馬盛胤が伊達氏への防衛網を強化するために築き、藤崎摂津守を城将として置いた。

天正17年(1589年)5月に、伊達政宗の家臣・亘理重宗が駒ヶ嶺城を攻略すると、政宗は黒木宗俊を城主とした(のちに桜田元親と交代)。
この時に政宗が獲得した宇多郡北部(現:新地町)は幕末に至るまで仙台藩の所領となり、駒ヶ嶺城は浜通りの伊達領最南端の城砦となった。

藩政期には駒ヶ嶺要害と呼ばれ、新田氏を経て正保元年(1644年)には富塚重信が、享保3年(1718年)には宮内定清が城主となり、以降は宮内氏が幕末まで城主を務めた。なお、宝暦年間には要害から所へ格下げとなっている。

慶応4年(1868年)の戊辰戦争の際には、仙台藩の浜通り方面軍の本営が置かれたが、8月6日に相馬藩が薩長方に降ると、翌7日には薩長軍が駒ヶ嶺城攻めを開始、11日には相馬・久留米藩兵等の攻撃により陥落。仙台藩は16日と20日の二度にわたって奪還作戦を仕掛けたがいずれも失敗に終わった。

本丸跡には城跡碑と案内板が、南麓には「戦死塚」および「仙台藩士戊辰戦没之碑」が建つ。

参考文献
『新地町史』歴史編(福島県相馬郡新地町、1999)

駒ヶ嶺城の口コミ情報

中務少輔きたろう三世様[2014年05月06日]
大手道は、切通しの通路から畑に抜ける道のようだが、駐車スペースがなかなかない。少し遠くに停めて登城したが、法輪寺側の道から登城してもいいかもしれない。

主郭付近はやや改変されているように感じたが、周囲の大規模な横堀や、虎口だらけの構造は、十分に見応えがある。

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