吉崎御坊(よしざきごぼう)

吉崎御坊の基本情報

通称・別名

所在地

福井県あわら市吉崎

旧国名

越前国

分類・構造

城郭寺院

天守構造

なし

築城主

蓮如

築城年

文明3年(1471)

主な改修者

主な城主

蓮如

廃城年

永正3年(1506)

遺構

消滅

指定文化財

国史跡(吉崎御坊跡)

再建造物

石碑

周辺の城

大聖寺城(石川県加賀市)[5.2km]
日谷城(石川県加賀市)[7.6km]
堀江館(福井県あわら市)[9.5km]
丸岡藩砲台(福井県坂井市)[9.5km]
勅使館(石川県加賀市)[12.5km]
黒谷城(石川県加賀市)[12.6km]
丸岡城(福井県坂井市)[15.1km]
長崎城(福井県坂井市)[16.0km]
御幸塚城(石川県小松市)[19.5km]
朝倉山城(福井県福井市)[20.7km]

吉崎御坊の解説文



吉崎御坊(よしざきごぼう)は、かつて越前吉崎(現在の福井県あわら市吉崎)にあった坊舎。「史跡 吉崎御坊跡」の石碑が立つ。

起源 

文明3年(1471年)7月27日、比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れた本願寺第8世法主蓮如が、本願寺系浄土真宗の北陸における布教拠点として越前吉崎にある北潟湖畔の吉崎山の頂に建立した。吉崎は興福寺大乗院の門跡であった経覚の所領であったが、経覚の母が本願寺の出身で、蓮如も若い頃に経覚の元で修行していたこと、また偶々吉崎の代官の地位にあったのが当時の本願寺にとっては数少ない末寺であった和田本覚寺の住持蓮光であったという関係もあって経覚が蓮如のために吉崎を譲ったのだといわれている。

この地で蓮如は教義を民衆にわかりやすく説き、時には御文(「御文章(ごぶんしょう)」)を用いたり、「南無阿弥陀仏」の六字名号を下付したため、御坊には北陸はもとより奥羽からも多くの門徒が集った。また、御坊周辺の吉崎一帯は坊舎や門徒の宿坊などが立ち並び寺内町を形成した。

  • 文明6年(1474年)3月28日、火災で焼失するも、その後再建。
  • 文明7年(1475年)8月21日、戦国の動乱で再び焼失、蓮如は吉崎を退去する。
  • 永正3年(1506年)、朝倉氏が加賀より越前に侵攻した加賀一向一揆勢を九頭竜川の戦いで退けた後、吉崎の坊舎を破却し、以後廃坊となる。

別院の建立 

延享3年(1746年)に西別院(本願寺派)が山下道場のあった場所に建立され、翌年の延享4年(1747年)には東別院(大谷派)が吉崎山のふもとに建立される。

寺院・諸施設の現況 

御坊跡に向う階段の西側に浄土真宗本願寺派の別院が、東側に真宗大谷派の別院が置かれる。ともに「吉崎別院」と称するため、本山の通称にちなみ本願寺派の別院を「西御坊」・「(吉崎)西別院」、大谷派の別院を「東御坊」・「(吉崎)東別院」と通称される。また、「吉崎寺」(浄土真宗本願寺派)・「吉崎御坊願慶寺」(真宗大谷派)などの寺院、一般財団法人 本願寺文化興隆財団(旧称・本願寺維持財団。浄土真宗大谷本願寺派)が運営する「吉崎御坊 蓮如上人記念館」「眞無量院吉崎別院」などがある。

浄土真宗本願寺派(西本願寺)

  • 本願寺派吉崎別院(西別院、あわら市)
  • 吉崎別院研修センター(あわら市)
  • 吉崎寺(あわら市)

真宗大谷派(東本願寺)

  • 真宗大谷派吉崎別院(東別院、あわら市)
  • 吉崎御坊願慶寺(あわら市)
  • 浄覚寺(あわら市)
  • 名願寺(加賀市)

その他宗教施設等

  • 吉崎御坊 蓮如上人記念館(あわら市・本願寺文化興隆財団)
  • 本願寺眞無量院 本山別院吉崎御坊(あわら市・浄土真宗大谷本願寺派)
  • 浄土真宗親鸞会 吉崎御坊(あわら市・浄土真宗親鸞会)[1]

なお、上述の蓮如上人記念館の敷地内には登録有形文化財「七不思議堂」があったが、道の駅蓮如の里あわらの整備のため、いったん解体され、2023年(令和5年)11月に新潟県妙高市の赤倉温泉に移築されることになった[2]

吉崎山 

吉崎山(御山)とは、北・西・南の三方を北潟湖に囲まれた天然の要害で、海抜33m程、面積約2万平方メートルの小高い丘である。この山の頂に吉崎御坊があった。1975年(昭和50年)には国の史跡に指定され、公園として整備されている。現在は東西両派共有の地である。

また、2021年(令和3年)は吉崎御坊開創550年になることから、東西本願寺の別院やそれぞれの崇敬区域の僧侶・門徒による実行委員会が組織され、山上などでの合同記念法要や記念行事を計画した。当初は2021年に法要や行事を予定していたが、新型コロナウイルス感染症の感染拡大(コロナ禍)のため2022年(令和4年)に延期し、2021年(令和3年)9月19日には吉崎御坊が東西分裂後初めて合同で吉崎山上の蓮如上人銅像前でお待ち受け法要として法要を勤修した[3][4]

  • 御坊の本堂跡
  • 蓮如上人銅像(高村光雲作・1934年)
  • 蓮如上人御腰掛石

蓮如忌 

  • 毎年4月23日 - 5月2日
  • 蓮如上人御影道中
    • 京都東本願寺から吉崎御坊(東別院)まで門徒が徒歩で蓮如の御影(ごえい)の入った輿を運び、蓮如の吉崎下向を再現する。4月17日に京都を出発し、琵琶湖沿岸の蓮如ゆかりの地を通り、22日夜、東別院に到着し、本願寺吉崎両別院で法要が営まれる(日付は年度によって変動あり)。

吉崎地区と県境 

地域

1950年代から吉崎地区を通る国道が整備され、1970年(昭和45年)に国道305号に指定。現在、吉崎御坊を中心とする門前町は県境(国境)を跨いで石川県(加賀国)側にも拡がっており、加賀市吉崎町となっている。元は越前国と加賀国の国境で、吉崎地内で県境が地続きとなっている[5]。史跡吉崎御坊跡に隣接している参拝・観光客向け商業施設(土産店)としてあわら市の吉崎御坊前に吉崎観光センターがあるが、観光地としては寂れており、門前町も商店は少なく大半が一般住宅となっている。

現在の地続きとなった背景には、大聖寺川がかつて二方向に分流した時期があり、平安時代に大聖寺川南側に境界が引かれた説がある。その後、土砂が堆積し農地の開拓から町域が拡大し、蓮如が吉崎に本拠を構えた文明時代にはすでに地続きになっていたとされている。

小学校・中学校の通学
あわら市吉崎小学校の学区はあわら市金津中学校の通学区域の一部となっているが遠方であり、吉崎地区が県境に跨る集落であることから、あわら市教育委員会では金津中学校よりも近い加賀市の加賀市立錦城中学校への入学を認めている[6]。吉崎地区から公立中学校へ進学する児童はほぼ全員が錦城中学校へ入学していたが、吉崎地区においても少子高齢化・過疎化が進行しており、吉崎小学校は2016年(平成28年)3月をもって休校となった。現在、吉崎地区はあわら市細呂木小学校の通学区域となっているが、吉崎地区に近い加賀市立緑丘小学校への入学も認めている。

越前加賀県境の館

県境上にあわら市と加賀市が運営する観光ガイダンス施設「越前加賀県境の館」が2015年(平成27年)4月11日に開館した。入口の石畳や北潟湖側の敷地が県境で色分けされているほか、建物内も県境で分けられている。石川県側は「石川県加賀市吉崎町」、福井県側は「福井県あわら市吉崎2丁目」とそれぞれ床面に表記されている。

  • 所在地:石川県加賀市吉崎町ヘ1番1・福井県あわら市吉崎2丁目1004番地2
  • 開館時間:9:00 - 17:00
  • 休館日:毎週火曜日(年末年始を除く、祝日は開館)

道の駅

吉崎地域の観光を強化すべく道の駅蓮如の里あわらが建設され[7]、2023年(令和5年)4月22日に開業した[8]。あわら市では初めてとなる道の駅で、農産物直売所などを設置。また、平屋建で寺内町をイメージした建物で、隣接する加賀市からの誘客を想定している。

交通 

自動車

  • 北陸自動車道金津ICまたは加賀ICより約20分。

タクシー

  • 西日本旅客鉄道(JR西日本)加賀温泉駅・芦原温泉駅からタクシーで約15分。
  • えちぜん鉄道三国芦原線あわら湯のまち駅からタクシーで約15分。
  • あわら市観光タクシー「あわらぐるっとタクシー」が運行されていて、「道の駅蓮如の里あわら」停留所が最寄り。また、平日と土曜日には後述のコミュニティバスの代替としてあわら市乗合タクシー(要利用登録)も運行されている。いずれもデマンド型交通であり、電話予約が必要である。

乗合バス

いずれも本数が少ないので注意が必要。

  • 加賀温泉駅・大聖寺駅前バス停より北鉄加賀バス吉崎線(塩屋行き)「吉崎」バス停下車。
バス停は加賀市側にあり、あわら市側の史跡や各寺院、その他諸施設までは徒歩5分~10分。
  • 「JR加賀温泉駅前・アビオシティ加賀」または「大聖寺駅口・加賀市役所」バス停より加賀周遊バス キャン・バス加賀越前線「吉崎御坊蓮如上人記念館・越前加賀県境の館」バス停(あわら市側の「吉崎御坊 蓮如上人記念館」の駐車場内)下車。
観光周遊バスのため普通運賃ではなく周遊乗車券が必要。
  • あわら北部周遊バス「あわらぐるっとバス」は2023年(令和5年)3月26日の運行を最後に廃止されている[9]

  • 芦原温泉駅・あわら湯のまち駅~吉崎間の旧金津町営バスを引き継いだあわら市コミュニティバス北ルート3号線(吉崎・北潟方面。7便)および北ルート4号線(観光コース。5便)の「吉崎」バス停が、かつてあわら市側の吉崎御坊及び吉崎観光センター前にあったが、2012年3月31日に全線廃止。

鉄道

  • 大正時代には吉崎地区に鉄道を敷設する構想があり、事業者に鉄道免許状が下付されていたが実現に至らず終わっている(えちぜん鉄道三国芦原線#歴史を参照)。

参考文献 

  • 【書籍】「 蓮如の聖地に県境を見に行く」

吉崎御坊の口コミ情報

2024年04月29日 super対馬守すぎっち
吉崎御坊



お東さん、お西さんの別院が隣接し、御坊の像が立つ小高い御坊跡地からは日本海も見渡せる風光明媚な景勝地。

2023年10月25日 RED副将軍
神宮寺城[吉崎御坊  周辺城郭]



詳細不明ながらも戦国期の技巧的な縄張りが残る城跡🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

築城年代等の詳細不詳。春日神社の別当神宮寺に由来するとされます。
堀江氏一族の細呂木氏が築いた詰め城で、1337年に新田義貞の重臣で新田四天王の一人に数えられる畑時能が、北朝方で守護大名の斯波高経の争った際に利用されたものと考えられています。また、畑時能は細呂木城を守り、家臣の細屋右馬助に築かせたとされる川口城に比定もされています。
しかし、縄張りは南北朝時代のものではない複雑なものであり、戦国時代には朝倉氏が加賀一向一揆に備えて改修をした様です。
1573年に朝倉氏が滅亡した後は、一向一揆衆の織田信長に対する拠点となりましたが、1576年に織田信長勢の侵攻により落城したとされます。

見所
春日神社西側の標高40mほどの丘陵上に築かれています。
登城路を進むと両サイドに広い平段が続いており、神宮寺の坊跡とされます。奥の広い平坦地が本堂跡でその背後の尾根上が城跡となります。
南北に伸びる尾根上の最高所に主郭を配し、南の尾根上に郭が連なります。
主郭西側は空堀が巡り、本堂からの動線として土橋が架かり馬出し状の小郭に連結しています。
主郭の北側下に竪堀が三条あり、南側は二郭、三郭と連なりますが堀切で遮断されています。

戦国時代の技巧的な縄張りが面白いですが、散策道を歩きやすく整備するために土塁が削られ、土橋も不自然に固められているなどのかなり改変を受けている様に感じました。岐阜県や群馬県の様に遺構を残しつつ整備をして欲しいもので残念な気持ちになりました。

2023年05月21日 ばらく~だ
吉崎御坊

あわら市のぐるっとバスは3月で廃止になりました。
その代わりに「ぐるっとタクシー」というシステムが始まっています。
これは、登録スポット間を片道1回500円/台で乗せてもらえるというものです。
自分は、えちぜん鉄道あわら湯のまち駅から道の駅蓮如の里あわらまで乗りました。(タクシーのメーターは4000円越えてました)
登録スポットも多く、使えるタクシー会社が限られているので、利用する際には観光案内所で説明をうける必要があると思います。

2023年04月23日 RED副将軍
細呂木館[吉崎御坊  周辺城郭]



技巧的な動線の細呂木氏の居城🏯

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。細呂木氏によって築かれた代々の居城。
細呂木氏は、堀江氏一族の国人領主です。
1338年には、新田義貞の味方をした畑時能が細呂木城を守備し、足利方の斯波氏と戦ったともされます。
1494年の加賀一向一揆が越前に侵攻した際には、細呂木氏は朝倉宗滴とともに一向一揆衆を迎え撃ち戦ったとされます。

見所
北潟湖と観音川に挟まれた舌状台地先端に築かれており、現在は春日神社の境内となっています。
神社の石段を登ると四郭、本殿と続き、西側に回り込んで二郭、主郭と続き、主郭西側下に三郭が連なる縄張り。
急峻な断崖上に築かれており、比高は20mほどですが堅城の印象を受けます。
後世の改変も見受けられますが、土塁や虎口が認められ、動線が技巧的です。

2023年04月13日 在来線男右京進
吉崎御坊



4月11日に行ったときは土産物店の駐車場は工事中でした。城山に登るときにクマンバチがいたので注意して下さい。あまり何も残っていませんが、蓮如上人像は立派でした。本堂跡や蓮如の娘の墓、蓮如の座った石などがありました。

2022年12月23日 RED副将軍
吉崎御坊



蓮如上人が建立した一向衆の拠点となった城郭寺院🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

1471年に本願寺蓮如によって開かれた城郭寺院。比叡山延暦寺などから迫害を受け北陸に逃がれた蓮如が北陸地域における布教拠点としました。全国から多くの門徒が集い、周辺の吉崎一帯は坊舎や門徒の宿坊などが立ち並ぶ寺内町を形成しました。1474年には火災で焼失し再建。しかし翌1475年には戦国の動乱で再び焼失。蓮如は吉崎を退去しました。1506年、越前国守護の朝倉氏は、越前に侵攻した加賀一向一揆勢を九頭竜川の戦いで撃退。その後に吉崎御坊は破却されました。

見所
越前と加賀の国境に位置する北潟湖畔の吉崎山のピークに建立されており、北・西・南の三方を北潟湖に囲まれた天然の要害です。広大な削平地に蓮如上人像や本堂跡の碑が立っています。吉崎山の麓には1746年建立の本願寺西別院、1747年建立の東本願寺別院が並び立ちます。特に天守を思わせる東本願寺の宝物館は必見です。

現在は、国史跡に指定され公園となっています。駐車場完備で駐車場から整備された道を数分登れば辿り着きます。

2022年11月06日 RED副将軍
川口城[吉崎御坊  周辺城郭]



城跡碑と案内板のみというより場所の特定も出来てません😿

オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

1337年に畑時能によって築かれたと云われます。
畑時能は、新田義貞の重臣で新田四天王の一人に数えられました。
太平記によると、畑時能は細呂木城を守り、川口城には家臣の細屋右馬助に守らせました。
そして、在地土豪の敷地氏、山岸氏、上木氏とともに大聖寺城の津葉五郎を滅ぼし、守護大名の斯波高経の大軍をこの地で破ったとされます。

見所
城跡碑と案内板が立つのみです。
しかも場所の特定も出来ていないらしいです。
というわけで★1です😢

2022年06月19日 陸奥守新九郎
吉崎御坊



遺構はほとんどありません。想像して思いを馳せてください。、

2022年05月23日 しぇるふぁ加賀守
神宮寺城[吉崎御坊  周辺城郭]

2021年(令和3年)3月付であわら市史跡に登録されたごく新しい城郭スポットです。あわら市公式サイトの紹介文によると、戦国時代に築城された山城で、大きさは東西約270m、南北約250mあります。これは、あわら市、坂井市の山城の中では最大規模です。城の用途については、兵士が常駐する「詰城」と考えられ、加賀一向一揆に対する最前線の重要拠点として、使用されていたと推定されています。

また南方向の細呂木方面には、太平記に登場する城で同じくあわら市史跡に登録されている川口城跡があります。

2022年05月23日 しぇるふぁ加賀守
川口城[吉崎御坊  周辺城郭]



太平記に登場する城です。案内板と城址碑が設置されています。昨年2021年3月に新しく市史跡に登録された神宮寺城に隣接しています。

2022年05月01日 マサキ兵部大輔
吉崎御坊



工事の関係で立入禁止の部分がありましたが、トイレもキレイにしてあって、気持ち良く見学出来ました。

2020年12月07日 ドラガン尾張守店長
吉崎御坊



初冬夜明け前の静けさの中、一人訪れる。いったん駐車場に車を停めて、境内を散策。その後、山頂近くまで再び車で上がる。トイレに掲げられた「蓮如様も見ています」との標語で、いつもより丁寧にする。

振り返ると蓮如様像、見上げると明け方の月。坊様どもの夢の跡。昔日に思いを馳せるひとときでした。

2020年08月28日 山城征夷大将軍碑前守
吉崎御坊

願慶寺の和尚の話はなかなか面白い、また吉崎御坊は城郭寺院のはしりでお城です。

2019年09月07日 織田上総介晃司
吉崎御坊

山門そばのスペースに停めて東別院太鼓楼のみ撮影しました。

駐車場はちゃんとあります。
吉崎御坊は寺院の奥になります。

加賀は一向宗の盛んな地で寺院城跡があります。
金沢城も「尾山御坊」の跡に築城してます。

寺院ですから庫裏もあり…
庫裏…
「庫裏リンの事かーー!!」

2018年03月27日 iggy摂政
吉崎御坊

《探索状況》
吉崎小学校と公民館に挟まれた道路「馬場大路(東へまっすぐ)」に沿い探索、道はあるものの何ら見まがうこともない藪。
踏み込むと、段を形成する削平地(坊舎跡?)が現れる。
その西側は藪で見通しがきかないが、南側は削平地が広がる。
西へ進むと削平地は段を成し、やがて蓮如像のある頂部へ通じる。
同様に公民館南側の頂部直通路北側も削平地が段を成す。
土塁や堀等の遺構は見当たらず。

《遺構の現状》
約20年前に調査され、調査報告があわら「吉崎御坊跡」として資料化(縄張り図あり)されています(図書館)。
調査によると現況は、土塁等の遺構は認識されていないとのことですが実態は不明であるとのこと。
削平地にあっては、当時の多屋(掘っ立て小屋など)の跡地と推測されているようです。
また、吉崎小学校北側に堀切状の切断部分が存在した可能性も指摘されているそうです。

《お願い》
当地を離れてから資料を目にしたため小学校北側、堀切状のものについて確認できず。
どなたか、現地リアをされ上記が可能性を秘めるものであるなら、フォトアップのほどよろしくお願いいたします。

2016年04月21日 野呂利左衛門督休三
吉崎御坊

吉崎御坊は願就寺の右手に上がった吉岡山の上が当時の場所です。現在は、基本情報にあります通り、蓮如上人の象(高村光雲作)や本堂の碑、腰掛石、道場創立の功労者の祐念坊や蓮如娘の見玉尼の墓などがあります。
吉岡山は北潟、さらに日本海が望める風光明媚な場所でもあります。

かつてはもっと近くまで北潟が迫り、舟で渡ってお参りするのが普通だったとか。
また吉崎御坊の地には現在、東西それぞれの別院と願就寺がありますが、宗教政策の変遷の過程の中でそうなったとか。

願就寺には嫁威肉附面が伝えられていますが、現住職の祖父の代までは北は青森から南は九州まで、本願寺の指示もあって出開帳をしています。
現住職のお話は面白いのでぜひ一度ご拝聴を。

2015年11月15日 稼ぐぞ休日給征夷大将軍クララ姫
吉崎御坊

寺院正面入口には複数の土産物屋さんがあり、その駐車場に停めて観光等ができます。

吉崎御坊の周辺スポット情報

 川口城(周辺城郭)

 神宮寺城(周辺城郭)

 細呂木関所(周辺城郭)

 細呂木館(周辺城郭)

 お手洗(トイレ)

 駐車場(駐車場)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore