居倍野城(いばいのじょう)
居倍野城の基本情報
通称・別名
- 中川城、轆轤(ろくろ)城
所在地
- 愛媛県喜多郡内子町中川
旧国名
- 伊予国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 小倉為家
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、切岸
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
大除城(愛媛県上浮穴郡)[12.7km]
千里城(愛媛県伊予郡)[14.6km]
曽根城(愛媛県喜多郡)[17.0km]
三滝城(愛媛県西予市)[18.1km]
松岡城(愛媛県上浮穴郡)[19.8km]
荏原城(愛媛県松山市)[21.9km]
由並城(愛媛県伊予市)[22.4km]
白木城(愛媛県西予市)[27.2km]
松前城(愛媛県伊予郡)[27.9km]
米津城(愛媛県大洲市)[28.3km]
居倍野城の解説文
居倍野城の口コミ情報
2025年05月10日 レオン
居倍野城
伊予国 内子町小田地区に現存する最大規模の山城です😊往時 肱川の支流 小田川を利用した流通で栄えていました
標高375m比高約125mの愛宕山頂にある連郭式山城で 太田城主 大野氏家臣小倉丹後守為家が居城
案内板もあり地元の方々により整備されていますが 城報は少なく 縄張図は探せませんでした😥
駐車場はありません😥近くに公民館があったのでお願いすれば🚗停めれるかも!? 夏頃は草ボーボーで登りにくいかもです
先ずは竜王神社を目指して登城します🙋竜王神社は城下が一望できる高台に位置し 物見台があり珍しくて可愛いハートの手水鉢があります♡
土橋状の尾根沿いを進むと堀切があり 小さな郭を越えて お堂跡の瓦が埋まった虎口を上がると愛宕神社があります⛩️
高さ1.2m✕奥行70cm程の石室に🐎騎馬像の城主 小倉丹後守為家『だんごの神様』が祀られています🍡 丹後守が訛ってだんごになったとか🤭
愛宕神社には希少な現存する土俵があり🤼 火災鎮め祈願として奉納相撲が行われるようです😊 両端の九段ある桟敷席には屋号や名前が刻まれた石もあり築造当時の盛況ぶりが偲ばれます✨
桟敷席を登り僅かに残る土橋を進むと三の郭です😊 二の郭との間は高い切岸で阻まれています😮
二の郭は広くて主郭も囲んでいます更に周りを腰曲輪で防御され まさに別名でもある轆轤(ろくろ)城でした
主郭は二段の段曲輪になっていて下段は土塁に囲まれ 上段には竜王様と呼ばれた城主の小倉丹後守為家の祠があります😊
城域の南端の断崖には自然地形を利用した深さ約2.6mの大堀切✨ 搦手側も堅固になっています♪ 堀切は上から覗いても迫力ありますが 下から見るには13m程の崖下を降りるので それなりの装備は必要かと思います
2024年04月11日 龍馬備中守【】
太田城[居倍野城 周辺城郭]
愛媛県の喜多郡の内子町にある【太田城】♪ 歴史詳細が無い為、記載します♪
『城の台』と呼ばれる山に築かれました♪現在は城の台公園になっています♪元々は標高284mをピークとする山城でありましたが、公園を作る為に250m付近まで広く削平していて、遺構は残りません☆麓には小田集落があり、西に行けば大洲方面へ、北東側は久万方面へと抜ける場所となりますが、東側は標高1500m級の山々が連なり、四国山脈の中に入った山深い場所という印象です♪眼下の小田川・上流域に立地し、小田川が削り残した河岸段丘上に集落、その背後には太田城と中世の城郭スタイルだったのでしょう♪
築城主は土居方玄と伝わります♪築城年等は不明ですが、土居家は伊予豪族である河野氏の支族であります♪土居方玄は河野家第39代当主・河野通直の命で長宗我部氏討伐の為、上浮穴郡の本川野村(現在の内子町小田)に移り河野家の家来である大野城主の大野直昌の家来となっています♪土居方玄は本川城を築き、その当主となっています♪
小田の地は戦国の時代には、伊予の国衆である湯築城の河野氏の支配下にありました♪
遠く、この喜多郡までその支配域を持っていました♪戦国時代末期の天文12年(1573年)土佐・長宗我部氏の侵略に備え、河野氏は明神村(久万高原にある)に大除城を築き、宇津城主である大野安芸守直家を城主として代々居城させました♪松山方面への侵攻を阻止するべく、久万の地を大野氏に領有させたのです♪大野氏は浮穴郡の山間部を本拠とする、国人領主であります♪河野氏はこの頃、土佐街道を監視する名目で、土佐と松山平野を繋ぐ動線上に、チラホラと砦や城郭を築いています♪因みに大除城は『大いに敵を払い怨を除く』の意で命名されています♪
実際の大野氏の勢力範囲はカナリ広くて、小田から内ノ子、大洲付近までありました♪
現に弟の大野直行が、大洲の亀ヶ森城主であります♪大野家は、往時の湯築城主・河野通直の家臣として『御一門三十二将』の1人であり、御家老衆5人の筆頭に位置しています♪そう考えていくと、土居氏が居城とした太田城は大野氏の息のかかった城郭だったのでしょう♪久万から大洲へ抜ける為の、街道を押さえる為の城郭だったのでしょう♪
天正13年(1585年)秀吉の四国征伐に河野氏は降伏し、大野氏も大除城を開城させられ、小早川隆景の所領となっています☆
河野通直の室は、毛利元就の孫姫でありました♪その為、毛利輝元や小早川隆景は、河野通直への援助を積極的に行っており、毛利輝元の勧めで河野通直は妻の里方である安芸国竹原(三原)に移住する事になります♪
大野氏は、この移住に垣生氏同様に付き従っています♪一方の土居家は帰農し江戸時代になると、土居方貞の嫡男である土居方徳は、浮穴群の大川村、上黒岩村、有枝村の3ヶ村(いづれも現在の久万高原町です♪)の庄屋職に任ぜられています♪
この場所に山城があったなんて♪
ワクワクしました♪
写真1枚目は城の台公園から見る大洲方面です♪バッチリ高台♪眼下には街道があったのでしょう♪
2024年01月24日 尼崎城安芸守一口城主
太田城[居倍野城 周辺城郭]
1月5日、愛媛県内子町小田の太田城に登城。小田の民宿に宿泊していたところ、太田城址が近くにあったので早朝に登城しました。道標の<城の台運動公園>(写真①)の指し示す方向を目指して進軍。丘の上の体育館(写真②中央)は見えていたものの写真③の坂道をひたすら上がって行き疲れました💦登り切ると<城の台公園>(写真④)の石碑があり、石碑付近から城下を眺めてみると朝靄(写真⑤)を見ることが出来ました。写真①地点から写真④⑤地点まで私の足で約10分掛かりました。
写真⑥の案内板の通り、太田城址は運動公園になっていて駐車場🅿️やトイレ🚻など備わっていました。
お城についての説明板は見つけられませんでしたが、遊具の上に上がってやや高い位置から城址を撮ってみたり(写真⑦)、運動公園のさらに上の方にある山(写真⑧)は合戦時の詰めの城だったかも🤔と想像を膨らませながら散策しました。
2022年05月15日 やまてつ伊予守
太田城[居倍野城 周辺城郭]
公園が造成されており、ほとんど跡らしきものはありません。名前に残っているぐらいです。
2011年12月03日 June02
太田城[居倍野城 周辺城郭]
充実?した総合運動公園として、良く整備されており、城郭としては『う〜ん、よく解らん』ただ、ピクニック広場から山の斜面を覗き込むと『此って、竪堀???』と考えてしまいましたが、結論は、『う〜ん、よく解らん』城趾としての案内板及び碑等は見かけませんでした。でも、日本城郭大図鑑には、記載されている様です。ただ、見張らし良く小田町を見下ろせます。
居倍野城(いばいのじょう)は、愛媛県喜多郡内子町中川にあった城。
概要
居倍野城跡が所在する愛媛県喜多郡内子町は、県庁所在地である松山市から南西に車で約40分の場所に位置する。町内には一級河川肱川の支流である小田川が流れており、古くは川を利用した流通で栄えていた。居倍野城跡は旧小田町中川地区に所在し、小田川上流の左岸、標高375m比、高約125mの地点に位置する。
歴史
築城年代ははっきりしていない。城主は江戸時代に編纂された近世地誌に「小倉丹後守為家」の名が確認されており、一の郭にも同人物を祀る祠が残されている。一方で、小倉丹後守に関する詳細な記述は確認されておらず、地域で語られる昔話に登場するのみである。すでに消失している『太田城跡』(現:城の台公園)の城主である大野氏と主従関係にあったと推測されるが、根拠となる一次資料が見つかっていないため、今後の調査が期待されている。
遺構
城跡は北西-南東を長軸とする楕円形状の頂部とそこから北に伸びる尾根上に立地している。主な防御施設は主郭に築かれた土塁と切岸である。また、城域の南端には自然地形を利用したと思われる深さ約2.6mの堀切状の鞍部がある。山城の構造としてはシンプルであり、地域の重要防衛拠点ではなく外部からの侵略に対する自衛を目的とした城ではないかとの推測がある。