徳能城(とくのじょう)
徳能城の基本情報
通称・別名
- 得能城、常石山城、常石城
所在地
- 愛媛県西条市丹原町徳能乙202他
旧国名
- 伊予国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 得能(河野)通俊
築城年
- 承久3年(1221)
主な改修者
- -
主な城主
- 得能氏、稲井氏
廃城年
- 天正13年(1585)
遺構
- 曲輪
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
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徳能城の口コミ情報
2020年10月03日 スイトピー❁ 伊予守
徳能城
徳能集落の西に聳える比高40m程の常石山頂にある、中世の山城。北西に突き出た得能氏の居城。
主郭とされる山頂部は整備されており、切岸がある程度でその他の遺構は分からなかった。
陸軍大将、秋山好古書の徳能道綱忠魂碑が建てられていた。
廃城し風化していくさまに、懸命に生きた武士の姿、想い、想像し偲んだ。
・登城ルートは狭く細い坂道となっていて、迷いそう…途中からは徒歩にての登城を、おすすめします。
案内の標識、標柱が見えてきますが、随分と老朽化しており見落とさないように。(また、看板は真っ二つに割れていて周りを探したが片割れが見つからず)
案内通り林道山奥へ進む。昼間でも薄暗く、急な坂道をゆっくり登ると北側虎口だったろう景色が見えてくる。
2020年08月18日 美酒乱⭐︎桃太郎伊予守
徳能城
県道150号線より細い道を東へ600mほど行った表記番地の先に「常石山直進」の看板がありその先の墓地手前に1台駐車できる。250mほど行くと「徳能公忠魂碑/シロノッサンは直進」の標柱があり、左の山通じる舗装された道を登ると「徳能道綱忠魂碑」が建てられている。
【歴史】 徳能集落の北西方常石山上にあった中世の城で、河野氏の流れをひく得能氏の居城であった。「伊予国桑村郡得能村地誌」には「東西24間南北16間、山の絶頂にあり…」とある。
南北朝時代に、南朝方の忠臣として、新田義貞に従い、得能通綱が土居通増(久米郡石井郷土居)らとともに各地に転戦したが、延元2年(1337年)、越前金ヶ崎の戦いで一族と自刃して果てた。
昭和3年、昭和天皇御大典記念事業として、常石山山頂に通綱の忠魂碑が建立された。碑表の揮毫(きごう)は陸軍大将・秋山好古によるものである。また、徳田小学校校庭の西端には、得能、土居両氏の供養塔も建っている。『今どきの西条(西条市観光物産協会)』より引用。
2020年05月05日 近江守Silvine
象ヶ森城[徳能城 周辺城郭]
象ヶ森城は徳能城を築いた徳能氏の支流、重見氏によって築かれました。後に同じく河野氏に属した櫛部氏の居城となります。長宗我部氏による伊予侵攻の際に、土佐方に与した金子元宅に攻められ落城しました。
城は東西に伸びる尾根に郭を展開し、それぞれを大きな深い堀切で隔て、土橋や石積も一部残ります。主郭には水道施設が残りますが、現在は使われていないようでした。
麓の観念寺に駐車場と説明板があります。寺の裏から林道が続いていますが、途中で消えてしまいます。そこからは尾根を目指して獣道を直登し、尾根沿いを進むと城に辿りつきます。麓からは徒歩25分ほどです。