金子山城(かねこやまじょう)
金子山城の基本情報
通称・別名
- 金子城、橘江城
所在地
- 愛媛県新居浜市西の土居町2
旧国名
- 伊予国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 金子広家
築城年
- 建長年間(1249〜1255)
主な改修者
- -
主な城主
- 金子氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪
指定文化財
- 市史跡(金子城跡)
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
生子山城(愛媛県新居浜市)[4.8km]
西条陣屋(愛媛県西条市)[9.7km]
土居構(愛媛県西条市)[10.2km]
渋柿城(愛媛県四国中央市)[15.7km]
鷺ノ森城(愛媛県西条市)[17.6km]
幻城(愛媛県西条市)[18.2km]
永納山城(愛媛県西条市)[20.6km]
世田山城(愛媛県西条市)[22.0km]
国分山城(愛媛県今治市)[24.3km]
松尾城(愛媛県四国中央市)[24.7km]
金子山城の解説文
[引用元:Wikipedia「金子山城」の項目]
金子城(かねこじょう)、または金子山城(かねこやまじょう)は、現在の愛媛県新居浜市にあたる伊予国新居郡金子山にあった戦国時代の日本の城。別名・橘江城。新居浜市指定史跡。
概要
国領川左岸の沖積平野に臨む標高80メートルの「金子山」山頂に位置する。丘陵西側に侵食谷が入り、また北側・東側は急峻な斜面となり天然の要害をなす。現在は滝の宮公園造成などによる地形改変が著しいが、曲輪と堀切が残る。
築城年代・築城者は明確ではないが、桓武平氏村山党の流れを組み、武蔵国入間郡の金子郷を治め、その後、伊予に移り住んだ金子氏の金子宅世とされている[1]。
当地における金子氏の史料上の初見は、弘安5年(1282年)に新居郷の地頭職にあった金子頼広で、その後、北朝:暦応元年/南朝:延元3年(1338年)に金子康弘が細川氏に与して生子山城を攻略した記録があることから、金子城も少なくとも南北朝時代には存在していたと見られている。
その後、金子氏は伊予石川氏の配下にありながら勢力を拡大し、戦国時代の金子元成・金子元宅の代に新居郡はもとより東隣の宇摩郡の実質的支配者として、伊予侵攻を謀る土佐国の長宗我部元親と和議を結び領地を安堵された。
しかし、天正13年(1585年)に羽柴秀吉が四国制覇に乗り出すと、その命を受けた毛利氏一族の小早川隆景の軍が新居・宇摩郡に侵攻した(四国征伐)。金子元宅は高尾城を拠点に抵抗したが、野々市原の戦い(西条市野々市)で戦死、金子城も元宅の弟・八郎らが籠り抵抗したが同年7月に落城し、300年以上にわたる金子氏支配の歴史に幕を閉じた(天正の陣)。
その後は再建されることなく、現在は展望台・東屋・遊具等が整備され滝の宮公園として市民の憩いの場となっている。昭和後期に市のシンボルとして復元する構想が立てられたが、実際の金子城と異なり江戸時代の様式の天守を擁するものであったために歴史研究家を中心に批判が相次ぎ難航し、自然消滅的に復元構想はなくなった。
城跡は1978年(昭和53年)4月6日、新居浜市指定史跡に指定された。
参考文献
- 【書籍】「日本城郭大系 第16巻 大分・宮崎・愛媛」
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金子山城の口コミ情報
2024年11月10日 スイトピー❁伊予守
岡崎城[金子山城 周辺城郭]
国領川下流の右岸に標高200m前後の丘陵が東から西へ突出している。この丘陵の西端、郷山の山頂に岡崎城は位置し西方に金子山城、南には生子山城が北東の海上には新居大島を望める。
1585年金子備後守元宅らと共に高尾城に立て籠もり、小早川勢との戦いで野々市で敗れ同年落城ののち廃城となった。
岡崎城の北麓の上徳寺境内に、城主藤田氏の「宝篋印塔」が建てられ今も残る。
大手は本城の北部にあって海からの侵入に備えたと考えられ、また搦手は東部側と推測されており郭、堀切、畝状竪堀群などが残る。
山頂の本丸に水準点があり、更に奥の東側に降りて行くと二重堀切がある。また北に二の丸、続いて三の丸、厩と配され鉾前神社となる位置は四つめの郭となる。その境内隅に四国征討由来の碑がある。遺構は比較的良く残っている。しかし、南側を完全に削り取られていて残念である。
駐車場は西の国領川側に「岡崎公園」を利用。閉門している時もあるので予め土地改良区管理先に連絡し、許可を得て駐車した。
2024年04月29日 釣ヶ浜備中守四郎
金子山城
滝の宮公園の第1展望台の駐車場から100メートルほどです。春霞で海が見えなかったですが、いつもは芸予諸島も見渡せるはずです。
2023年11月25日 秦侍従夏希
金子山城
来年の春頃まで水道?の工事をしているので上方の駐車場には行けませんが、徒歩なら本丸跡と展望台まで行けました。
2023年11月02日 RED副将軍
金子山城
300年以上に渡り、当地を支配していた金子氏の居城🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。建長年間(1249年〜1256年)に金子広家より築かれたとされますが定かではありません。
金子氏は、桓武平氏の系譜で武蔵七党の一つ村山党の庶家とされ、鎌倉御家人として各地を転戦した軍功により伊予国新居郡の地頭職を得て庶流が土着した様です。
以降は金子山城を居城とし新居郡と宇摩郡を支配し続けました。
土佐の長宗我部元親が勢力を拡大してくると和議を結び領地は安堵されていましたが、1585年に羽柴秀吉による四国征伐においては、その命を受けた毛利一族の#小早川隆景 の大軍により攻め滅ぼされ落城。そのまま廃城となりました。
見所
国領川左岸に臨む標高80mの金子山頂部に築かれています。丘陵西側は侵食谷であり、北側と東側も急峻な崖地形の天然の要害を利用しています。
現在は滝の宮公園となり公園化により遺構は消失。第一展望台が主郭跡で城跡碑が建っています。
2022年08月25日 やまてつ伊予守
金子山城
今は滝の宮公園になっています。山頂まで車で行けますが、表示がある程度です。堀切と曲輪が残ってあるそうです。
2022年02月08日 スイトピー❁伊予守
金子山城
市道・惣開通り(イオン側の道路)より金子山城址までの登城道があります。
因みにこちらは天保時代に設置された「金子山四国八十八ヶ所地蔵」の始点となる、御茶屋観音堂が道中にあり終点の慈眼寺(金子山城主館跡)まで巡る事が出来ます。ただ探すのには苦労しました。
なお、駐車場は有りませんのでご注意下さい。
2020年12月06日 スイトピー❁伊予守
血濡の池跡[金子山城 寺社・史跡]
現在は干上がり池ではありませんが、天正の陣の口伝による史跡です。戦に破れたその血で池が真っ赤になった様から。
2020年12月06日 スイトピー❁伊予守
五輪塔群[金子山城 寺社・史跡]
金子山城跡より、昭和20年代に埋没しているのを大平熊伊曽氏により偶然発見され、現在の場所に安置されたそうです。横には同氏の墓も安置されています。金子氏の家紋碑もありました。
2020年12月06日 スイトピー❁伊予守
第三駐車場[金子山城 駐車場]
金子山城址に最も近い駐車場です。(20台以上駐車可)道中は歩行者に注意!
2020年12月06日 スイトピー❁伊予守
第二展望台[金子山城 その他]
ここから、生子山城も望めます。展望の良いスポットです。
2020年12月06日 スイトピー❁伊予守
金子山城址碑(旧)[金子山城 碑・説明板]
リア攻めのポイントになります。旧碑です。
2020年09月28日 スイトピー❁伊予守
金子山城
戦国時代、長宗我部元親と和議を結んでいた金子氏。兵力に勝る小早川軍に落城されるとそのまま廃城となり、現在は市民の憩いの場で滝の宮公園となっている。
無料駐車場、トイレあり。
幾度かの山火事と公園整備のため、明確な遺構は残っていない。展望台からは新居大島、燧灘など素晴らしい景色が一望でき、ココに城が築かれた理由がよく分かります。
山頂の本丸跡には石碑が建ち、南に続く山峰が二の丸跡、東の山麓にある慈眼寺の上辺りが三の丸跡です。
金子山の南東山中には金子山古墳があります。慈眼寺は金子元春により建立され、郷土を守るために戦い散った武者の霊を弔っている。
1585年羽柴秀吉の命を受けた小早川隆景の軍と金子元宅率いる地元勢力との小さな戦いでしたが3万余に対し2千…。
この四国攻めは「天正の陣」と伊予側からは呼ばれているそう。私は郭跡に立つと、負け戦と分かっていても死力を尽くし、戦い散った先人たちに想いを馳せます。
金子山城の周辺スポット情報
天正の陣滝の宮口(碑・説明板)
歌碑(碑・説明板)
金子山城跡碑(碑・説明板)
金子山城址碑(旧)(碑・説明板)
野津子城跡(碑・説明板)
早川城(周辺城郭)
野津子城(周辺城郭)
富留土居城(周辺城郭)
岡崎城(周辺城郭)
金子山古墳(寺社・史跡)
金子元宅墓碑 真鍋六人衆墓碑(寺社・史跡)
金子山城館跡(寺社・史跡)
五輪塔群(寺社・史跡)
血濡の池跡(寺社・史跡)
第一駐車場トイレ(トイレ)
トイレ(園内)(トイレ)
第三駐車場トイレ(トイレ)
第一駐車場(駐車場)
第二駐車場(駐車場)
第三駐車場(駐車場)
第一展望台(その他)
第二展望台(その他)
武士像(その他)
野津子城跡登城口(その他)