勝山城(かつやまじょう)
勝山城の基本情報
通称・別名
- 瀧山城、滝山城
所在地
- 島根県安来市広瀬町石原
旧国名
- 出雲国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 室町時代
主な改修者
- -
主な城主
- 田中氏(尼子氏家臣)、毛利氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、畝状竪堀
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
新宮党館(島根県安来市)[2.2km]
月山富田城(島根県安来市)[2.5km]
春日城(島根県松江市)[7.4km]
布部城(島根県安来市)[9.3km]
十神山城(島根県安来市)[9.4km]
米子城(鳥取県米子市)[14.0km]
牛尾城(島根県雲南市)[14.3km]
法勝寺城(鳥取県西伯郡)[14.4km]
玉造要害山城(島根県松江市)[15.4km]
松江城(島根県松江市)[15.5km]
勝山城の解説文
勝山城の口コミ情報
2024年11月09日 野呂利左衛門督休三
大成山城北曲輪群[勝山城 周辺城郭]
中心の曲輪はかなり広い。毛利元就の御成のためのものか(吉井毅「尼子氏の城郭と合戦」。大成は御成の転訛と推定している)。この曲輪の南側(大成山城方向)にも堀跡が見られる。
2024年11月09日 野呂利左衛門督休三
大成山城[勝山城 周辺城郭]
都辨志呂神社から攻略。最初は簡素な曲輪が続いて楽勝な感じがするが、途中から急斜面が続き、難儀になる。そこを乗り越えれば、今度はそれなりに立派な曲輪群が続くので乗り越える価値はある。
ただし、整備されていない山で粘土質なのでスニーカーでは危険か。山頂180mが主郭だが、その北側にも曲輪がある。
毛利が月山富田城を攻略する時に築いた城ですが、まだそれなりに尼子が力が残っている段階で築かれたと見られています(吉井毅「尼子氏の城郭と合戦」)。
2024年06月12日 #いいのすけ#
京羅木山城砦群C[勝山城 周辺城郭]
京羅木山から勝山城への道の途中にあります。道がそのまま曲輪内の一部を通っているものの、うっかりしていたら通り過ぎるかもしれません。
2024年06月12日 #いいのすけ#
京羅木山城砦群B(三郡山)[勝山城 周辺城郭]
京羅木山城砦群の中では、規模も大きく、遺構もよく残っています。
行き方は、京羅木山登山道から勝山城方面ヘ向かう道に入りしばらく進むと、道端右側に小さなお地蔵さんがある鞍部(峠道)に着きます。(写真参照)
そこから左側の山に登って行くと、すぐに城域に入ります。道標は三郡山ヘと書かれています。
2023年12月04日 RED副将軍
勝山城
畝状竪堀群と巨大な桝形が特徴的な毛利元就による月山富田城攻めにおいての本陣跡⚔
オススメ度 ★★★★★
築城年代は不詳。歴史は古く、尼子十砦の一つとして数えられた滝山城が前身とされます。城主に尼子氏家臣の田中三良左衛門の名が伝わります。
1542年には石見守護の大内義隆が出雲に侵攻し、尼子氏の月山富田城に攻め寄せます。京羅木山に布陣し、勝山城も利用されたと考えられています。
1562年には毛利元就が出雲に侵攻開始し、1565年に月山富田城を落とすために、毛利軍は京羅木山に5つの陣城を築城。そのひとつで本陣を置いたのが勝山城とされます。毛利元就は月山富田城を包囲し兵糧攻めを実施。約2年に及ぶ籠城戦の末に尼子義久は降伏し安芸国で幽閉されました。
見所
京羅木山から東へ伸びた支尾根にある標高250m程の勝山頂部に築かれています。
南北に伸びた尾根に郭を配し、月山富田城側である西側斜面は急峻な切岸であることに対し、緩斜面の東側から南側にかけて四十条以上の畝状竪堀群でびっしりと埋め尽くされているのが特徴です。
また、北端と南端には人桝と呼ばれる大規模な桝形虎口があり、これも全国屈指の見事な遺構です。
北端の人桝から北側尾根は三重堀切によって遮断されています。
月山富田城だけでなく、向かいの勝山城も見所多数の名城なので併せて訪城くださいませ。
行き方は、南東麓にある広厳寺を目標に設定。お声掛けすれば駐車させて頂けます。
そのまま山の方へ進めば登城口の案内板があります。比高は220mくらいで30分程で辿り着きました。
写真
①②③④西側から南側の斜面は畝状竪堀群がビッシリ
⑤南端の人桝
⑥北端の人桝
⑦主郭背後の大堀切
⑧主郭背後は大堀切を含め三重堀切で遮断
2023年10月14日 内大臣尼子保久
勝山城
登山口から徒歩20分位で登れます。城跡の看板は見当たらず。
2020年03月26日 【しばぴー】iggy摂政
勝山城
「人桝」について
ご存知の方もおられると思いますが、本城北側の桝形虎口は「人桝」と称されています。
なぜそのように呼称されるようになったのか、以前から気になっていたので調べるも確たる情報なし。
当然、現地踏査♪
畝竪等々この城のスゴさは言わずもがな、スゴ過ぎ!
で、例の「人桝」。
北側及び西側は土塁(高いところで約2.5m)、南側は上郭を利用する方形(約13✕13m)の桝形。
ざっくり見積もって軍勢100人ほどが収まる大きさから、「100人桝」と言われていたものが次第に「人桝」となっていったのではないかと推測。
それを踏まえ、城郭著書もある学芸員の先生に「人桝」について尋ねてみたところ、「人桝」の名称は古くから地元に伝わる伝承とのことで、なぜそのように呼称されているのかは明確ではない旨でした。
また、「桝形虎口」の由来は、「桝の形」によるものがやはり主な考え方のようでした。
ということで結論は、「地元での言い伝え」で経緯不明ながら「人桝」と呼称されているということでした。
「桝」とは体積を計量する測定器。
デジタル大辞泉では「人枡とは、昔、軍勢をその中に入れて人数をはかるため、城外に設けた枡形」との解説もあり、勝山城の「人桝」は、兵の数を計るという機能をも有した桝形虎口だったのではないでしょうか、推測の域を出ませんが…
それにしても、毛利さんの手掛ける城は手抜きしない仕事のイメージ。
造形美しく、敵が簡単には攻め寄せることができない造りから、その造形だけで「俺たち強ェ~」って錯覚すると思います笑
元就って、余程厳格な方だったんでしょうねぇ、徹底感がスゴいです。
この時代、出雲の国衆は寝返り頻発(出雲に限ったことではありませんが…)。
そのような事情を意識して、月山富田城とは反対側にも用意周到に防御(畝竪)を固めたのかもしれませんね。
《フォト》
1.人桝、虎口(東側)と南側上郭(右側)
2.人桝、1に同じく北側土塁(左側)
《その他の見所》
東側の畝竪上部郭にある横矢を意識する「折れ」。
ここは後付けは無理なので、やる気満々で綿密に造った城やなって思います。
《楽しみ他》
勝山城~京羅木山城塞群の行き来は、伝令(足軽)になった気になるかもしれませんが、ランを入れるとハードです笑
2018年11月11日 梅鉢近江守Silvine
勝山城
新しい登城路が整備されています。
安来市広瀬町石原の広厳寺を目指してください。県道45号を南西へ向かい、コメリ広瀬店の前を右折します。そのまま直進すると左に道がカーブしますが、そのカーブの途中に右に入る道があります。ここからは車で入れないので、手前のどこかにおいたほうが無難です。
その道を奥へ行くと右奥に墓地があり、左手に山に入る道が見えますのでそこから入ります。山に入りすぐの分岐は右、次の分岐を左へ行くと、木に石囲いがしてあり祀ってあります。その奥に獣除けの柵が見えますが、その柵の向こうが登城路となっています。柵を右に辿っていけば、一か所色の違う針金のところが開けられるようになっています。
そこまでくればあとは道になっているところを進めば迷うところもないかと思います。ピンクのリボンもあるのでそれを目安にしても良いでしょう。30〜40分で城域です。
お城の見どころは城の脇にびっしりとつけられた畝状竪堀です。上からは分かりにくいですが、城域奥の堀切まで行けばはっきり分かります。開けた場所からは月山富田城もはっきり見えます。
2018年09月25日 織田上総介晃司
勝山城
前の方の言われる沢づたいのルートが勝山城最短ルートかと思われます。
月山富田城攻略の為、勝山城の他に京羅木山にも陣城があったので、金刀比羅宮に車を停め、ハイキングコースで京羅木山へ。
勝山城までの案内板がありますので、勝山城に向かいます。(所要時間約90分)
その後、また同じ道を通って車に戻らないといけないので脚力に自信のない方、生半可な考えの方は止めたほうがいいですよ。
京羅木山からも勝山城からも月山富田城は丸見え。それ故、月山富田城攻略後は敵に利用されるのを防ぐ為、破却したと思われます。
2018年03月26日 安那備後守はるか
勝山城
麓からは小さな橋を左に折れひたすら沢の横の山道を歩くようになるが倒木も多く、増水すると沢を渡るのも一苦労。
足元もかなり悪くトレッキング、登山靴をおすすめします。
途中、屋敷跡があります。
屋敷跡をまだ沢伝いに歩き、小さい看板があるので、ここ登城口から登ります。
沢登りだけで40分ぐらいかかりました。
登城は比較的楽で尾根伝いに歩いて行きます。
いったんまた谷に降り勝山を登って到着です。
遺構はとても良い状態で残っております。44本の畝状竪堀群はただただ圧巻です。
地元の方の案内で登城したのですが案内がなければたどり着けなかったと思います。
山城に慣れている人向きのお城だと思います。
歴史
古くは滝山城とも呼ばれ、尼子十砦のひとつとして数えられた。尼子氏の家臣である田中三良左衛門が城主を務めたと伝わる。天文11年(1542)から、出雲へ侵攻した大内義隆が尼子氏の居城である月山富田城を攻撃。この際に京羅木山に陣を置き、勝山城も利用されたと考えられている。
永禄5年(1562)からは、毛利元就が出雲へ侵攻。永禄8年(1565)に星上山に本陣を置き、勝山城にも布陣した。毛利軍は月山富田城を見下ろす京羅木山に5つの陣城を築いており、勝山城もそのひとつとみられる。
遺構
月山富田城の北西側、飯梨川の対岸に位置し、京羅木山から東に派生する丘陵上、標高約250mの勝山山頂に築かれている。南北に伸びるに尾根上に曲輪を配し、南端が東へ折れたL字型の城だ。城域の北端は三重の堀切で尾根を遮断し、北端の曲輪には人枡と呼ばれる土塁囲みの虎口が設けられている。
最大の特徴は、東側から南側の斜面をびっしりと埋め尽くす畝状竪堀だ。その数は40本以上に及び、良好に残りかなり見ごたえがある。西側斜面がかなりの急傾斜であるのに対して東側斜面が緩斜面であるため構築されたと思われる。西側斜面に竪堀は1本もなく、東側への強い警戒が感じられる。
折れを伴う曲輪を設けて畝状竪堀群に横矢を掛ける、巧妙な縄張も特徴だ。南端の曲輪は東側に虎口が開いているが、虎口前も道筋を屈曲させて横矢が掛かるようにしており、技巧性が光る。
現在見られる城の遺構は、畝状竪堀群や虎口の特徴などから推定すると、永禄5年からの毛利氏の侵攻の際に毛利氏またはその勢力によって改修されたものだろう。南端の曲輪からは目と鼻の先に月山富田城のほぼ全域を一望でき、長期に及んだ戦いの緊張感が伝わってくる。
交通
・山陰自動車道安来ICから車で約20分参考文献
・『出雲の山城 山城50選と発掘された城館』、ハーベスト出版、2013年。