法勝寺城(ほっしょうじじょう)
法勝寺城の基本情報
通称・別名
- 尾崎城
所在地
- 鳥取県西伯郡南部町法勝寺
旧国名
- 伯耆国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 毛利氏
築城年
- 文明13年(1481)以前?
主な改修者
- 毛利氏
主な城主
- 三村家親、毛利本紹
廃城年
- 17世紀前期
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、竪堀
指定文化財
- 町史跡(法勝寺城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
米子城(鳥取県米子市)[9.9km]
尾高城(鳥取県米子市)[12.2km]
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布部城(島根県安来市)[16.7km]
法勝寺城の解説文
[引用元:Wikipedia「法勝寺城」の項目]
法勝寺城(ほっしょうじじょう)は、鳥取県西伯郡南部町法勝寺にあった日本の城。
歴史
具体的な築城年代は不明だが、法勝寺の地は西伯耆における要衝として重要視されており、比較的早くから築城されていたと思われる。『山名系図』によれば古くは山名満幸が法勝寺周辺を知行していたということからも山名氏による築城の可能性が高い。
一次史料にみえる初見は文明13年(1481年)9月11日のことである。これを伝える『山名政之書状』によれば、伯耆守護・山名政之が対立中であった叔父の山名元之の勢力が籠っていた法勝寺城などを攻撃するために出発したとある。
その後の消息は不明だが、毛利氏の築城伝承が存在することから山名氏衰退後は放棄または著しく荒廃した可能性が高い。永禄7年(1564年)、毛利氏によって修復されると、吉川元春に従属していた備中国の有力国人・三村家親が城主となった。家親は八橋城を攻略するなど活躍した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、伯耆一国の領主として中村一忠が入封すると廃城となった。
なお、麓には一説として山中幸盛に攻められ自刃したという城主・毛利本紹の墓がある。
遺構
- 当城は法勝寺川沿いに位置する山の上にあり、中世特有の典型的な山城で本丸、二の丸で構築されており、曲輪、土塁、空堀などの遺構がはっきり残っている。
- 現在は南部町指定文化財であり、また城山公園としても整備されている。
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法勝寺城の口コミ情報
2022年07月10日 織田上総介晃司
法勝寺城
車は城の北東、法勝寺川の岸辺に広いスペースがあるので、そこに停めました。
法勝寺城址碑から登城コースがあるのですが夏草が覆い茂り足元の視界が悪く蛇や蜂、マダニなど潜んでる恐れがあるので深追いは止めました。
リア攻めは晩秋から早春にかけてがベストです。
2020年06月26日 大隅守上
小松城[法勝寺城 周辺城郭]
集会所に車を停め歩くと城址碑と説明板があります。
左手に進むと正面に小高い山が見えます。そこが城跡です。
堀切、土塁等良好に残ってます。