新宮党館(しんぐうとうやかた)

新宮党館の基本情報

通称・別名

太夫成、新宮党屋敷

所在地

島根県安来市広瀬町富田字新宮

旧国名

出雲国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

尼子国久

築城年

室町時代

主な改修者

主な城主

尼子氏(新宮党)

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

県史跡(新宮党館跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

月山富田城(島根県安来市)[1.1km]
勝山城(島根県安来市)[2.2km]
布部城(島根県安来市)[8.3km]
十神山城(島根県安来市)[9.5km]
春日城(島根県松江市)[9.6km]
法勝寺城(鳥取県西伯郡)[12.5km]
米子城(鳥取県米子市)[13.4km]
牛尾城(島根県雲南市)[15.1km]
玉造要害山城(島根県松江市)[17.2km]
松江城(島根県松江市)[17.7km]

新宮党館の口コミ情報

2024年08月15日 RED副将軍
新宮党館



尼子氏の精鋭の戦闘集団である新宮党の本拠地🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。室町時代に尼子国久により築かれたと云われます。
尼子国久は出雲の戦国大名である尼子経久の次男であり、新宮谷に館を築いて本拠としたことから尼子国久の一族は新宮党と呼ばれました。
新宮党は尼子氏家臣団の中でも精鋭の戦闘集団であり、頭領であった尼子国久とその子の尼子誠久・尼子敬久は尼子氏の中心的な地位を占めてました。
1524年の尼子経久による伯耆進攻である大永の五月崩れにおいては、尾高城・不動ヶ城・羽衣石城などを次々に攻略。
1540年から1541年にかけての吉田郡山城の戦いにおいては敗北に終わり、その後に大内義隆が出雲に侵攻しましたが新宮党を率いた尼子国久により大内氏を撃破しています。
尼子国久は尼子氏の勢力拡大に貢献しましたが、主君の尼子晴久とは意見が合わず対立。
1554年、尼子晴久の正室である尼子国久の娘が没すると、尼子晴久はこれを契機として新宮党を突如粛清。尼子国久と一族は誅殺され新宮党は壊滅しました。
この粛正により尼子勢力から有力な親族衆が失われ、尼子氏から追放・抑圧された国人衆が発生。1561年に尼子晴久が急死すると、急速に尼子氏が衰退した要因ともされます。

見所
新宮谷は月山富田城の北東に位置し、飯梨川の南岸にある台地上に築かれています。
県史跡に指定され、新宮党一族を祀った太夫神社の境内となっています。
切岸に段がある広い削平地の脇に尼子国久・誠久・敬久の墓碑が残ります。

2024年05月18日 みっこん岩代守
新宮党館



安来市立歴史資料館から徒歩で向かいました。片道20〜30分位です。月山富田城麓の静かな田園地帯を歩いて行きましたが所々に案内図が設置されていますので迷う事は無いです。新宮党一族の墓石、一族を祀る大夫神社が建てられていました。定期的に除草されている様子でしたので訪問し易かったです。現地には訪問者ノ-トも置いてありました。この地域には史跡が多数有りましたので時間が有れば見て廻ると楽しいです。 

2023年10月07日 宇治ひろの勘解由長官ふくやん
新宮党館



車は畦道のような参道に止め、リア攻め達成しました。広い野原と化していますが、新宮党がいた尼子氏に思いを馳せましょう。

2023年09月19日 RED副将軍
山中鹿介屋敷[新宮党館  周辺城郭]



山陰の麒麟児と称された山中鹿介の生誕地と伝わる屋敷跡🏯

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。
山中鹿介こと山中幸盛の誕生の地と伝わります。
山中鹿介は、尼子氏家臣であった山中満幸の次男として生まれましたが、兄の山中幸高は病弱であったため家督を継いで尼子氏に仕えました。
1565年に毛利元就が月山富田城を攻め寄せて包囲した際に、毛利勢の益田藤兼の家臣である品川大膳と一騎打ちを行い討ち取った伝承があります。
三度、毛利氏は月山富田城を攻め寄せましたが落とすことは出来ませんでしたが、1567年に尼子義久は兵糧が無くなり逃亡者も相次いだため毛利元就に降伏。尼子氏は滅亡します。
山中鹿介は浪人になりながらも、僧侶となっていた尼子勝久を担いで尼子氏再興を目指します。
1569年に毛利氏が北九州遠征のため出雲が手薄となると、山中鹿介は周辺の城を落として勢力を取り戻しました。
しかし、1578年に上月城を毛利氏に包囲され、尼子勝久は自刃。山中鹿介も捕らえられ、毛利輝元が本陣を置いた鞆の浦へ護送中に謀殺されました。

見所
月山富田城北東部の新宮谷の高台に築かれています。
削平地に石碑が建つ程度ですが、月山富田城駐車場から車で3分程度の場所であり、専用駐車場が完備され綺麗に整備されているので併せての訪問をオススメします。

2021年09月23日 ビーンズマン左兵衛督
川手要害山城[新宮党館  周辺城郭]



尼子氏が築いたと思われる。登山道には、鳥居がありそこから登城できる。主郭の台地には、土塁があり、小さな社がある。主郭をまたいで堀切がある。

2019年06月06日 あきおこ
新宮党館



館正面の切岸。現在は神社が削平地の片隅に建ち一面は広場となる。削平地にはコンクリ製の排水路があったが最近まで何か建ってたのだろうか。館に対面する山中には富田城攻めの毛利陣城があるそうだ。

新宮党は尼子軍事勢力の中心だったが、粗暴な振る舞いが多く主家から滅ぼされたとされる。新宮党の滅亡は毛利が黒幕とも言われる

2018年09月29日 橘若狭守次郎吉
新宮党館

太夫神社が新宮党館跡とされ、広大な削平地となっています。削平地の切岸には腰曲輪と思われる段も確認できました。

新宮党館跡の西方背後の山には「新宮谷城館群」があります。詳細は不明ですが、新宮党館と何らかの関係があったと思われます。個人的には新宮党館の ”本城“ もしくは “詰城” だったのではないかと考えています。
新宮谷城館群への行き方ですが、まず毛利元秋の墓を目指します。そこに辿り着いたら、墓の背後の斜面を右斜めに直登していきます。しばらくすると曲輪群や虎口があります。

2018年09月25日 織田上総介晃司
新宮党館

新宮党館(太夫神社)には駐車場がありません。
現地の案内板には山中鹿之介生誕地に駐車場が有るそうなのでここを起点に散策すればいいと思います。

私は道の駅「広瀬・富田城」を起点にしました。
道の駅からだと新宮党館まではかなり歩きますが、城安寺の山門は近くになります。

新宮党と尼子晴久の対立を利用して毛利元就の謀に晴久が引っかかり新宮党を滅ぼし尼子氏衰退の因を作ったと云われる。
が、近年
元就の謀を晴久が利用して新宮党を廃し尼子宗家の実権拡大を図ったとされる。
晴久の早すぎる死が滅亡の因ではなかろうか…

2015年10月03日 河野治部少輔かぱ通
新宮党館

尼子一族最強の精鋭部隊、尼子国久率いる新宮党の館跡です。平地より一段高くなっている所が館跡のようで、その入り口には太夫神社の鳥居があります。敷地内には石碑や祠があります。結構な広さがあり、当時の新宮党の威光が偲ばれます。

2011年08月27日 尼子民部少輔晴久
新宮党館

『にいのみや』ではなく、『しんぐう』

尼子経久の次男、国久率いる新宮党の本拠地

西出雲に所領を有し、宗家に次ぐ勢力を誇るが、尼子晴久の中央集権化政策で粛清される

新宮党館の周辺観光情報

安来節演芸館

「どじょうすくい」で親しまれる民謡・安来節が毎日堪能できる安来節の殿堂。桟敷席をイメージしたホールでは、生の安来節(唄と踊り)をお楽しみいただけます。

情報提供:安来市商工観光課

詳細はこちら

新宮党館の周辺スポット情報

 新宮党館跡説明板(碑・説明板)

 川手要害山城(周辺城郭)

 山中鹿介屋敷(周辺城郭)

 独松山城砦跡群(高盛山)(周辺城郭)

 独松山城砦跡群(独松山)(周辺城郭)

 太夫神社(寺社・史跡)

 毛利元秋墓所(寺社・史跡)

 塩冶掃部介墓所(寺社・史跡)

 堀尾忠氏墓所(寺社・史跡)

 尼子久幸(義勝)墓所(寺社・史跡)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 館跡入口(その他)

 独松山登山口(その他)

 高盛山登山口(その他)

 堀尾忠氏墓所入口(その他)

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