水茎岡山城(すいけいおかやまじょう)
水茎岡山城の基本情報
通称・別名
- 岡山城、水茎館、尾山城
所在地
- 滋賀県近江八幡市牧町
旧国名
- 近江国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 九里信隆
築城年
- 永正5年(1508)
主な改修者
- -
主な城主
- 九里氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、堅堀、切岸
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
八幡山城(滋賀県近江八幡市)[3.3km]
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水茎岡山城の解説文
[引用元:Wikipedia「水茎岡山城」の項目]
水茎岡山城(みずぐきおかやまじょう)は、滋賀県近江八幡市牧町にあった日本の城。尾山城、岡山城、九里城とも呼ばれる。
概要
南北朝時代、近江南部をおさめる佐々木氏が琵琶湖の水上警備のために築城した。頭山、岡山(大山)と呼ばれる山に連なるように遺構が確認されているが築城当時の規模ははっきりとしない。
歴史
- 1508年(永正5年) - 室町幕府の11代征夷大将軍・足利義澄が城主九里信隆(六角氏被官)を頼って都落ちをし、水茎岡山城に入った頃から、城の本格的な築城が行われた。
- 1510年(永正7年) - 幕府軍3000に城を包囲されるも信隆はこれを退けている。
- 1511年(永正8年) - 当城で後の12代将軍・足利義晴が誕生した。また、同年に足利義澄は帰洛を果たせぬまま当城で病没した。
- 1514年(永正11年) - 信隆が六角高頼に謀殺される。
- 1520年(永正17年) - 信隆の子浄椿が六角高頼・定頼父子および細川高国の連合軍に敗れ、城が落城した。
- ※当時の公家の日記(『二水記』永正17年8月11日条)によれば、当時の六角氏当主であった六角定頼は近江クノリ(=九里)城を攻めるために細川高国に要請して五反帆の大船を兵庫津から琵琶湖に回航させているが、(京都から先は船では入れなかったために)牛車を用いて京都市中を引っ張って近江国内まで陸送を行い、京都の人々を驚かせたと記している[1]。
- 1525年(大永5年) - 九里氏の残党が城に立て籠もるも敗れ、九里氏は滅亡した。この頃に廃城になったと考えられている。
- 備考
- 築城当時は一帯が琵琶湖水面であったため、浮き城とも称されていた。しかし、第二次世界大戦後の干拓事業により一帯は埋め立てられ水田地帯となり山も掘削され湖岸道路となっていることから周辺環境は様変わりしてしまっている。遺構の現況は竹林となっており、絶景を謳われた往時の景観は見る影もない。
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水茎岡山城の口コミ情報
2021年11月30日 RED副将軍
水茎岡山城
近江屈指の激ヤブ城🏯
写真は心眼を用いて御覧ください。
もう少し整備さえされたら…ポテンシャルは高い城です✨
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
1500年代初頭に六角氏家臣の九里氏によって六角氏が湖上交通を掌握するために築かれたと言われています。
1508年に室町幕府の11代征夷大将軍 足利義澄は前将軍足利義尹が上洛してきた事により京を脱出。九里信隆を頼り、この水茎岡山城で匿われたことから本格的に城郭化されました。
1510年、幕府軍3000に城を包囲され九里信隆は撃退するも、翌年に足利義澄は将軍復帰を果たせぬまま病没。
1514年に九里信隆が六角高頼に謀殺され、1520年には信隆の子浄椿が六角高頼および細川軍に敗れ落城。九里氏は滅亡し、廃城となった様です。
過去にも登城をチャレンジしましたが、激ヤブで撤退。今回、ヤブ枯れを期待し再チャレンジしました。駐車場は湖岸道路対面の牧水泳場の駐車場を利用。トイレもあります。
南側の大山と北側の頭山に城域は分かれていますが、頭山は埋め立てと道路の開通により改変された上にヤブ化しているとのことで、今回は大山のみの登城です。
見所
大山は大きく三つの郭を東西に配し、それぞれを堀切で遮断。特に東側の堀切は深く大規模なもの。西側の堀切は土橋が架かる。
周囲に帯曲輪を配し、北側には大規模な土塁で堅めているが、登城路を一歩外れるとヤブ状態であり、登城路は土塁の上を進むルートとなっています。
ヤブを掻き分け最終的に三角点まで到達。その先は背丈以上のヤブに阻まれ断念。縄張り図を見る限り遺構は素晴らしいですが、現在の整備状況を鑑み★1としています。
写真
①主郭東側の大堀切
②主郭東側の大堀切を上から
③主郭
④主郭西側の堀切に架かる土橋
⑤三郭の土塁
⑥激ヤブの中に三角点発見
⑦⑧登山道
2015年04月24日 さとし
水茎岡山城
直接足を運んだのは、申し訳ないが覚えてない。
だってあの頃、小学生でこんな歩いていける散歩コースに既に発掘されたとは言え【古墳】があるなんて、めっちゃお宝!
実はこの城で11代義澄将軍がなくなり、12代義晴将軍がお生まれになったのもここ。そして
私が元武家の家柄と教わり、この城から500メートル、ひょっとしてあの古墳は義澄公のお墓だったりして……
でも幕府の将軍を身近に感じれて、嬉しかったりもする。
2013年12月08日 さとし
水茎岡山城
城跡には行けませんでしたが、実家が近くでもあり、高校の時なんかはバイトの帰り道によく自転車で登ってました。
琵琶湖側の山かな、岡の麓にお城の説明が書かれた石碑がありましたよ。
ちなみに僕はそこで恐ろしい体験してます。壮絶な最期だったそうですよ
2013年02月17日 ŧ‹”ŧ‹”。
水茎岡山城
琵琶湖側の頭山と大山に別れています。
駐車場は、琵琶湖側に公園が
ありますが、ここ2年ほど閉鎖されています。
国道脇に側道があり
そこへも駐車は出来ますが
時々ネズミ取りの
違反車輌を入れるスペースに
大山側は、階段があり山頂まで約20分で到達。
途中に堀切、土橋もあります。
山頂には、二つの曲輪もあり
土塁もかなり大きなものがあります。
整備はされていますが、案内板の類いは
一切ありません琵琶湖側の頭山と大山をつなぐ
道路脇に居館跡と見られる
石垣があります。
一方、頭山はまったく整備されておらず
堀切は竹藪に埋もれ
石垣も埋もれた状態でした。
山頂まで、道はなく草木も生い茂っているため
かなり注意が必要です。
(棘や切り株など)
山頂には、小さな曲輪があります。
この辺りは、国道や琵琶湖岸開発により
かなり破壊されたらしいです。
春先は、筍が出るため
入山は禁止されています。