末森城(すえもりじょう)
末森城の基本情報
通称・別名
- 末守城、末盛城
所在地
- 石川県羽咋郡宝達志水町竹生野
旧国名
- 能登国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- -
築城主
- 土肥親真?
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 土肥氏(畠山氏家臣)、斎藤氏(上杉氏家臣)、奥村永福(前田氏家臣)
廃城年
- 元和元年(1615)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(末森城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
御舘館(石川県羽咋郡)[3.6km]
池田城(富山県氷見市)[10.7km]
金丸城(石川県鹿島郡)[14.3km]
森城(石川県かほく市)[14.3km]
飯久保城(富山県氷見市)[16.2km]
赤丸城(富山県高岡市)[16.7km]
道坪野城(富山県小矢部市)[17.0km]
森寺城(富山県氷見市)[18.2km]
今石動城(富山県小矢部市)[18.2km]
津幡城(石川県河北郡)[18.3km]
末森城の解説文
[引用元:Wikipedia「末森城」の項目]
末森城(すえもりじょう)は、能登国羽咋郡末森村[1](現在の石川県羽咋郡宝達志水町竹生野)にあった日本の城。県指定史跡。
概要
末森山(標高138.8m)に所在したため、この名で呼ばれたが、「末守」あるいは「末盛」と記した資料も残る(『信長公記』など)。曲輪は山中に点在し合計面積は30,000m2におよぶ。
歴史
はじめ畠山氏の家臣で地頭職であった土肥親真によって築城されたとされるが、詳しくは不明。天正5年(1577年)に越後国より侵攻してきた上杉謙信に降伏、斎藤朝信らが末森に入ったとの記述がある。その後、そのまま親真が城主として配された。
しかし、天正8年に加賀国の一向一揆を鎮圧した織田氏家臣の柴田勝家らが侵攻してくると、再び降伏。土肥氏は同地に改めて配された前田利家の与力的な立場となったため、これ以後前田家が支配することとなる(なお、この際に土肥親真は前田利家の妻芳春院(まつ)の姪を娶るが、末森城に在したため「末守殿」と呼ばれた[2])。
末森城は加賀国と能登国を繋ぐ交通の要所であり、1584年(天正12年)徳川家康に同調した佐々成政が、この城を攻めたが城主奥村永福が死守(末森城の戦い)。この勝利により前田利家の能登・加賀統治の基礎が築かれたともいえるが、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となる。
本丸主門は、金沢城鶴の丸南門として移築されていたが、宝暦9年(1759年)に火災によって焼失してしまっている。本丸は、津幡町加賀爪へ移転され、加賀藩主代々の御旅屋として利用された。明治10年8月28日に火災によって焼失。
昭和60年(1985年)から押水町によって大規模な発掘調査が行われ、山中からは生活用具や鉄砲の弾など15世紀後半から16世紀後半の歴史的資料が多く出土した。平成3年(1991年)に石川県の史跡に指定されている[3]。
遺構
本丸跡から日本海が遠望できる。
- 土塁、曲輪跡
- 若宮丸址
関連建造物
- 桜井三郎左衛門の像 - 末森城の戦いで、前田利家を道案内した人物。
- 末森山古戦場碑 - 大河ドラマ「利家とまつ」を記念して設置。
- 末森城跡鳥観図 - 駐車場横にある案内板。末森城の縄張りが描かれる。
交通
- JR七尾線・宝達駅からタクシーで5分
- 駐車場あり
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末森城の口コミ情報
2024年04月08日 明石家船上
末森城
主郭まで、長い道を歩きます。杉の葉が落ちて、滑りやすい道が続きます。
2023年03月21日 信濃守学堂
末森城
近くの宝達駅から城麓まで徒歩20分。七尾線が1時間間隔なのを考えると、城の所要時間は80分が妥当(笑)。前田と佐々の戦いを感じるには、本丸から搦手筋まで、見ないと。しっかり確認し、納得して下城しました(笑)!
2022年06月15日 チャッピー修理大夫ミア
末森城
末森城は秀吉側の利家と家康側の成政が加賀、能登、越中の接点に在り、小牧長久手の戦いの北陸版です。パンフレットがありますが看板が少なく本丸には行けますが、若宮、若宮丸、馬掛場も立ち寄った方が良い。武家屋敷は、余り整備されていない。
2022年05月16日 bombaye 左兵衛督
末森城
土塁、堀切がよく残っていて、迫力がある。片道15分くらいで本丸に辿り着けるので、ちょうどよい運動になる。本丸からの眺めは格別で、尾根筋と並行に海岸線が走っており、加賀と能登の戦略上の要衝だとわかった。
2019年10月14日 相模守愛洲久忠
末森城
国道159号線から末森城の看板と、駐車場への案内板がはっきりわかります。畑の前の駐車場の他に、目の前の細い道を進んだ先の駐車場のポストに縄張り図が入っています。
跨道橋を渡るとすぐ大手門跡で、この先からS字カーブの急な登り坂になりますが、道路中央にコンクリートの打設があり歩きやすくなっています。
平坦な部分に出るといったん見晴らしが開けます。ここがササラ城戸と呼ばれている場所ですが、辺りには栗の剥き殻が散乱していることから、クマのテリトリーなのかも知れません。熊鈴所持をおすすめします。
ここから10分ほど登ると、右手に若宮丸、その先に三の丸、二の丸、本丸と曲輪が連なっています。一本道で途中に本丸→の看板が多数あるので迷わずに行かれます。
二の丸と本丸からは日本海の景色が一望出来ます。
二の丸と三の丸の曲輪の東側下部に無名の曲輪があり、ここに最大の堀切があると先人の情報を元に探索しましたが、見つけることが出来ませんでした。この曲輪だけ地面がイノシシの足跡だらけでボコボコです。行かれる方はご注意下さい。
2018年03月27日 【しばぴー】iggy摂政
末森城
《感想》
素晴らしい遺構が残っていますのに、どういうわけか道標はやたら「本丸」押し。
パンフの縄張り図は見づらく、主要曲輪以外の堀切や竪堀(藪化の一途)、空堀は放置状態。
私有地等、何か理由があるのかも知れませんが、一応は県指定史跡にもなっている歴史的にも重要と思える城であるだけに、厳しいようですが整備状況がやや(極めて)残念でした。
2018年03月11日 しんちゃん
末森城
険しいか、やまみち達成感が、あった。昔日の雰囲気あり、何年前かに行った。
2017年10月09日 織田上総介晃司
末森城
駐車場あり。トイレあり。
訪れた時間が日没間近の16:25頃だったので駐車場の看板のみ撮影で、なくなく移動。
すぐ近くにある千里浜なぎさドライブウェイへ。
砂浜を車で走る事ができる唯一の場所。全長8kmにもおよぶコースを愛車で疾走♪
途中にある浜の家で焼き貝が食べれます(ハマグリ、サザエ、白貝)今回サザエを食べました。
千里浜なぎさドライブウェイへ行かなかったら末森城は充分見学できたかと…
めぐらー失格?
末森城は「花の慶次」に登場。
前田慶次と奥村助右衛門(永福)が佐々成政軍を退けた戦いを描いてます。
2016年04月09日 カーネル
末森城
七尾線敷浪駅から
駅から東へでて国道159号線に
国道で右折して南下し七尾線と平行して歩く。歩道が広く安心です
しばらくすると末森城1kmの文字がでて、さらに南下すると道の両脇が高くなり、頭上を陸橋が通過するところで、左の斜面上を見上げると、末森城の看板の上端が見えます
ので、左のひし形のコンクリで構成される法面をよじ登ると、末森城の登山口にでます
車だと、ぐるーーと、回り込まなくてはいけないのをかなりショートカットできてご機嫌ですが、登りは車から丸見えなので恥ずかしいです
ここから山に入りますが、最初は車道だけど、なかなかの斜度の道を登り進めると二の丸です
ここまで[本丸→]の看板が多数あるので分かりやすいです。本丸は広い曲輪になってました
下りは行きに気づかなかった郭の看板があり、寄り道しながら下る
帰りも登山口から法面を無理やり降りて国道159号へ。さらに南下して、1時間45分で宝積駅にでました。若干ですが敷浪駅からのほうが近いかも・・・
歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです
2016年03月26日 まさ公
末森城
本丸迄だと徒歩20分もあれば十分です。地元の方の手入れが行き届いていて歩きやすいです。本丸二の丸からは日本海を望めます。
2013年04月29日 強襲ほうらい祭揚陸波
末森城
本丸跡まで登ったものの、石垣のようなものは残っておらず、あまりいい絵が撮れなかったのが残念。
2011年05月02日 三河守コーキしゃん
末森城
二ノ丸下に堀があります。結構入りくねっていて面白いです若宮丸方面は藪が少なくて見やすかったです熊注意
2010年10月12日 tomm加賀守
末森城
国道159号沿いに大きな看板がありますので分かりやすいかと思います。
看板を曲がって行くと駐車場がありますが、さらに少し行くとより近い橋の前にも停めれますよ
また例年熊の目撃情報がありますので要注意です(昨年は一時入山禁止になってました)