舟岡山城(ふなおかじょう)
舟岡山城の基本情報
通称・別名
- 舟岡城、剣城、鶴来城、八幡城、白山城
所在地
- 石川県白山市八幡町
旧国名
- 加賀国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 天正年間(1573〜1592)
主な改修者
- -
主な城主
- 若林長門守、早谷五左衛門(丹羽氏家臣)、高畠定吉(前田氏家臣)
廃城年
- 慶長5年(1600)頃
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 市史跡(舟岡山城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
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舟岡山城の解説文
舟岡山城の口コミ情報
2016年04月09日 カーネル
舟岡山城
北陸鉄道石川線の鶴来駅から
駅から南下して城の北にある白山青年の家から登城するつもりが、入口がわからず、城を左に見ながら、そのまま南下を続けてしまう
左手に城は見えるが、護岸工事のようにコンクリで固められた壁が垂直にそびえるので、近寄ることすらできずに歩くと、城の南端にまで来てしまう
ついでなので城の南端先にある一宮神社の白山本宮に寄る
すごい雰囲気が良かったです。あー道に迷ってよかったー、と負け惜しみをいいつつ、神社の駐車場から北に出て最初の信号で左折すると舟岡城の案内図と入り口があります
ここから山の中へ。石垣。土塁。でっかい堀。と見どころ満載です
ただ、城域が広く、隅々までみるには、行ったりきたりをしないといけなくて、最初の感動はどこへやら、最後は淡々と歩いた
北側に下山したら、念願の白山青年の家にでました。鶴来駅に戻ったのは2時間後
歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです
2015年11月01日 尾張守だもんで
舟岡山城
白山青年の家に車を停めさせてもらえます。施設内でお願いすれば資料をいただけますし、熊鈴も貸してもらえます。施設の裏側(城山北口)から登り、大手山道と三の丸の標識に従って進むと、本丸の切岸に突き当たります。そこを右に曲がると二の丸や展望台に出ます。展望台から山麓に向かって連結している曲輪の土塁や堀切は見事です。しかし草木(倒木も多いです)が生い茂っているので、冬に来るとよいでしょう。切岸や土塁の一部には立派な石垣を確認できますが、崩落の危険があります。青年の家から離れた本丸口から下山しましたが、一通り見学して青年の家に戻るまで計45分程でした。熊や蛇が出ると聞いてましたが、一番怖かったのは本丸口の民家の大型犬です。吠え続けられました。
城跡の西側には、白山麓へ通じる街道や手取川があり、かつては、交通の要衝であった。
100m西の手取川扇状地の扇頂部の河岸段丘上の台地には、文明12年(1480)まで白山本宮があった古宮遺跡がある。現在も、古宮遺跡の真下には、扇状地を潤す七ヶ用水の隧道が通り、農業にとっては大変重要な場所である。
城跡の名称は現在は「舟岡山城」と呼ばれているが、「白山城」「八幡城」「劔城」と呼ばれていたが、どの名称も城が使われていた時代まで遡るものではなく不確実である。
城跡の残存度は極めて良く、昭和29年に鶴来町指定文化財史跡になり、現在白山市に引き継がれている。交通上の要所にあったため、古い時代から幾度と使用されたと考えられるが、現在は、織豊期に再構築されたと思われる、石塁や土塁が極めて明瞭に残存している。現存している遺構の規模は南北約200m、東西約130m、14,000平方メートルに及ぶ。
昭和23年に白山青年の家の敷地内で縄文時代集落の発掘調査が行われたが、その出土遺物の中に17世紀後半の渡来系染付小皿と白濁色小皿が含まれており、青年の家あたりも中世に館として使われていたと推測される。
舟岡山の東側は、現在県道が南北に走るが、昭和40年頃まで、山裾を平行して平等寺川が北進し、舟岡山は天然の要塞であった。
歴史的に見ると、現在の石垣の城跡は、天正8年(1580)に若林長門守ら本願寺側の支配から、織田信長側の支配下後に築城されたと考えられる。特に天正11年(1583)前田利家が、金沢へ入城すると側近の重臣・高畠石見守定吉を城主に任命している。これは、天正8年(1580)閏3月9日に柴田勝家らの軍勢が加賀に侵入、11月17日、勝家の調略により若林長門や鈴木出羽守ら19名の首を安土へ届けたことにより、加賀の地での本願寺対織田軍と抗争は集結したかのように思われたが、翌年3月に一揆衆が蜂起したため、再び佐久間盛政を鳥越二曲へ向かわせ鎮圧に当たらせたことや、さらに天正10年(1582)3月に、手取川右岸の吉野組と呼ばれた吉野・佐良・瀬波・市原・木滑・中宮・尾添の七ヶ村の一揆衆が蜂起し、柴田軍勢が鎮圧に向かい300名余りを磔としたことなどから、前田利家は金沢城に入城の際に白山麓地域は非常に不安定であることを認知しており、戦術的にも実績があった高畠定吉を配置することにより、金沢の南部の防衛を強化するのが目的であったと思われる。
高畠定吉は、その後、上杉との攻防後、越中・越後の国境にある宮崎城なども任される。文禄3年(1592)には禄1万7千石まで授かる重臣となるが、慶長4年(1559)閏3月3日、利家の死後、利長や利家の側室芳春院と豊臣方に付くことで対立、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、金沢城の留守役を勤め、翌年には劔(当時)へ帰った後、剃髪し隠居、京都へ向かい(同じ立場にある利政のところと推測されている)、慶長7年(1602)1月3日に死去している。
舟岡山城は、城主亡き後使われなくなったと思われ、元和元年(1615)の一国一城令発令時には確実に城として使われなくなったと考えられる。
その後、城跡地は、元禄5年(1692)8月に劔村の人々によって開墾願が提出され畑地となっていった。城跡は、第二次大戦時頃まで、畑地だったが戦後植林され現在の景観に至る。
最後に、城跡は昭和20年代には、高畠氏の居城跡ということで守護神の稲荷社の建設計画があった。昭和29年に出来た新制「鶴来町」により史跡公園化の計画が立てられた。昭和52年から昭和55年にかけて史跡整備に向けて鶴来町により遊歩道が整備された。
平成11年にも鶴来町により遊歩道が整備されたあと、地元の観光ボランティアガイドの活動により多くの観光客が入るようになった。平成16年2月には史跡整備に向けての懇話会が発足した。石垣を有する中世末期の城として近年内外から注目されている。ただ、石塁が徐々に地崩れしたり、雑木が大木化して石塁を破壊しつつある。
情報提供:白山市文化財保護課