二曲城(ふとげじょう)
二曲城の基本情報
通称・別名
- 府峠城、不動下城、蕪城城
所在地
- 石川県白山市出合町
旧国名
- 加賀国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 戦国時代
主な改修者
- -
主な城主
- 二曲氏、鈴木氏、一向一揆勢
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切
指定文化財
- 国史跡(鳥越城跡附二曲城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
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二曲城の解説文
二曲城の口コミ情報
2023年05月31日 もっくん勘解由長官3号
二曲城
鶴来駅で、レンタサイクルを借りて鳥越一向一揆の里を目指します。廃線跡なので急坂もなく快適です。掘っ立て小屋のあとなどが残っていました。
2022年05月06日 mootze
二曲城
やはり、縄張りが、しっかりした感じでなく、農民中心で立て籠もった山城って感じがします。相手が攻め上がってきた時に、どう撃退するか鳥越城と連係して、戦うと、もっといい山城になっていたかもしれません。
2020年10月05日 まー刑部卿
二曲城
スタンプ押印箇所『鳥越一向一揆歴史館』裏の電柱に【 → 】あるのでその通りに進むと『墓地公園』があります。先人の言われる通り数台駐車可。またトイレも有りました。
此処での見所は【四の郭】の石垣ですが藻や草で覆われていて見落としします。実際に見落としており帰り際に再度確認し判明。
また登城口にあった【二曲城跡全体図】を見てみると【二の郭】【三の郭】が見当たらず。こちらは登城口付近にある立入禁止柵のところを登っていくと【二の郭】にあたります。【三の郭】は小藪程度。堤跡のところで左手に竪堀?と思わせる地滑りしたところを登っても【二の郭】に行きます。
立入禁止柵は自己責任での行動でお願いします。
2019年11月04日 織田上総介晃司
二曲城
道の駅「一向一揆の里」に停車。二曲城まで案内板もあり迷わず登城口まで行けました。
登城口近くにも数台停めれる駐車場がありましたが道の駅に停めるのが安心できると思います。
訪れた時(2019/11/2)は二の郭の一部が崩落しており三の郭から本丸の間が立入禁止になってました。
見に行くのは自己責任となります。
個人的には立入禁止区間の三の郭〜二の郭のほうが見ごたえがあると思います。
2017年09月28日 加賀守ぬま
二曲城
道の駅のでーっかいおはぎがオススメ!
2017年09月27日 石畳治部少輔三成
二曲城
道の駅にある一向一揆歴史館で資料を頂くことができます。一向一揆をまとめた映像や発掘物を見てお勉強もできます。
私が訪れた時は、お城への登城路は途中までは整備されて歩きやすかったですが、途中から草が道にはみ出していて、どこまでが歩道なのか分かりにくい箇所がありました。
そのため夏場に訪れるのは危険かもしれません。
40分ほどで本丸まで登れました。
2011年05月02日 三河守コーキしゃん
二曲城
平成9年辺りに発掘調査をしたようですが今は荒れています二ノ丸の根尾を分断する堀切が分かり易かったです。本丸はツルッパゲの切削地に仏壇がちょこんとあるだけでした
2010年07月07日 tomm加賀守
二曲城
国道360号沿いの道の駅「一向一揆の里」の横に案内看板があり、城跡へは登山道が雑木林観察路として整備されています。
本城の主郭は山頂にある曲輪にあたる。主郭は平成16年度(2004)と17年度に発掘調査が行われ、その全容が明らかとなった。曲輪の中央部には、5間×2間の掘立柱建物が存在した。建物内部にあたる箇所では石組み炉の跡、建物の柱穴に接する所で地下式カマド跡を検出している。
この建物の東隣には2間×2間の掘立柱建物を1棟確認しており、前者の建物が主殿、後者の建物を附属施設と位置づけている。
この附属施設の建物から西隣には礎石建物や方形土杭などが見られ、さらにその奥には、主郭への登城口となる通路が存在する。通路は、下段の小曲輪につながり人頭大の自然石を置いた石敷路であった。出土遺物は、越前焼瓷・擂鉢・土師器皿(灯明皿)・中国染付碗・青磁碗・石鉢・硯などで、時期は16世紀が主体である。出土遺物は生活色の強いものではあるが、調査面積に対して総体的に数量は少ない。
曲輪1より北西方へ下る尾根には、前述した少曲輪をはじめ、複数の曲輪が段々状になって形成されている。発掘調査によって一部で石敷きの通路を確認出来たので、下方の段々になっている曲輪と曲輪の間にも通路が存在すると考えられる。
小曲輪群を降りた先には曲輪2が存在する。曲輪2は、曲輪1につづいて広大な敷地を有しており、南西側には土塁を設けている。曲輪2の前面には内桝形状の出入口が設けられ、さらにその先には土橋を設置した大堀切が存在する。
尾根の先端部の南西斜面には竪堀のような痕跡が見られるが、これは防御機構というよりも山麓から山上へ上がる道の跡とかんがえられる。
曲輪1から南方の深い谷を降りた箇所には曲輪3が存在する。曲輪3は地形の制約を受けているため規模は小さく、一角には堤のような窪地が見られる。
曲輪3は、山麓へ向かって緩やかに傾斜していき、途中の大土塁が曲輪3と山麓間を遮断するように構築している。前述した曲輪2の前面にある大堀切は竪堀となってこの大土塁の脇を通ることから、現状では確認出来ないが、土塁の横に深い堀が存在した可能性がある。なお、大土塁は一部大きな破壊を受けている。これは、曲輪3から山麓へ進む途中の斜面に近年まで使用していた石切り場の跡があり、その石を曳き出すために土塁を滅失させてしまったためと考えられる。
曲輪1から谷部(曲輪3)を挟んだ標高360mの山上部には曲輪4が存在する。曲輪4は、南北に細長く三方に土塁を構築している。この曲輪から北西にのびる尾根筋には明瞭な城郭遺構は見られないが、尾根の先端部には曲輪5が存在する。ただし、曲輪5は前述した石切り場によって大きく破壊を受けている。
本城の城主は、戦国時代に活躍した在地土豪・二曲右京進で、後に本願寺の鈴木出羽守の子である鈴木右京進が入ったといわれている。主郭部の発掘調査成果でも当該時期を中心とした遺構・遺物を確認しており、本城は戦国期に築造され、約100年の間機能していたようである。
本城において最も顕著な城郭普請を見ることの出来る箇所は、曲輪1(主郭)から曲輪2までの範囲である。特に曲輪2は、内桝形状の出入口が見られ、その前面には非常に大きな堀切が存在する。全体的な縄張りの形態を見ていくと、当初の城域は、曲輪1の主郭から北西方に延びる尾根筋が城域であったと推測する。その後、曲輪2から派生する堀切や土塁、曲輪4・5を構築し、曲輪3を含む谷部を囲って城域規模を拡大した改修を施したと考えられる。
この場合、在地土豪・二曲右京進が在城した時期は改修前の縄張り普請で、本願寺方の鈴木右京進の時に城域を拡大させたという考え方も出来る。