羽茂城(はもちじょう)
羽茂城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 新潟県佐渡市羽茂本郷字上ノ平
旧国名
- 佐渡国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 羽茂本間氏
築城年
- 14世紀頃
主な改修者
- -
主な城主
- 本間氏、上杉氏、富永氏、黒金氏
廃城年
- 慶長3年(1598)
遺構
- 曲輪、土塁、馬場跡
指定文化財
- 県史跡(羽茂城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
新穂城(新潟県佐渡市)[20.6km]
青木城(新潟県佐渡市)[21.9km]
相川陣屋(新潟県佐渡市)[22.4km]
天神山城(新潟県新潟市)[46.6km]
松ヶ岳城(新潟県新潟市)[46.9km]
黒滝城(新潟県西蒲原郡)[47.4km]
島崎城(新潟県長岡市)[48.7km]
椎谷陣屋(新潟県柏崎市)[48.8km]
勝山城(新潟県刈羽郡)[51.6km]
小木ノ城(新潟県三島郡)[53.0km]
羽茂城の解説文
羽茂城の口コミ情報
2024年10月29日 INO【兒】左京大夫
小木城[羽茂城 周辺城郭]
公園として整備されているようです。遺構は空堀が残っています。
2023年12月02日 篠沼大膳大夫義久
羽茂城
羽茂城、五所城、荒神城など様々な呼び名の標柱があります。冬の雨の中、一周しましたがたのしかった。城主と同じ本間さんのお墓もあり、またお屋敷もあります。一族なのかな。
2019年02月01日 征夷大将軍クララ姫
羽茂城
【犬連れ宿泊情報】
城下の『佐渡シーサイドヴィラ』さん。一戸建ごとの貸しコテージで海岸線の高台のロケーションが良く、テラスから見る佐渡の夕陽は特筆ものでした。小木港から車で15分程の犬連れOK宿です。食材は観光中に島内の地元スーパーで購入しましたが魚介類の鮮度やお値段の安さにビックリでした。訪問時期は大野亀にオレンジ色の『カンゾウ』が咲き乱れる5月下旬から6月上旬がおすすめです。
2013年05月04日 ばしこん
羽茂城
城の中心地点迄は歩いて10分も掛かりません。足場は少々よくありませんが、泥濘に気をつけていればOKでしょう。車での場合、路駐ですね。しかし車通りは少ないので特に問題無いでしょう。トイレも完備しています。がしかし、扉のレールが錆び付いていて開閉困難なのと、不測の事態に遭遇したときのペーパーは在ることは有るのですが、そうならないように攻めることが一番ですね。
2012年08月23日 まるさん伊豆守小町時間割
羽茂城
両津港から来るには距離もありますのでかなり手間だと思われますが…
小木港からは車ならば10分程度で城跡下の羽茂本郷の街に着けます!
ただ…そこから城跡までの案内がわかりにくいのが難点です(;^_^A
ちなみに両津港方面から来ると街中の一方通行になった部分の十字路(農協付近)に城跡までの矢印案内がありますが…
小木港方面から進むとそこは通れません…orz
頼りは交番に設置されている城跡の位置も書かれた近辺の歌碑の案内図くらいですが…
私はそれを見て最短距離を目指してうろちょろする羽目になりました!(>_<)
結局、農協とか羽茂高校まで進んだ方がわかりやすいかな?と感じました(;^_^A
余談ではありますが、城跡の奥の山々の斜面には柿がたくさん栽培されています。
収穫時期にこの辺りをヘタにうろついて柿泥棒と間違えられない様に気をつけましょう!
2011年09月26日 鷹征夷大将軍鍛治
羽茂城
ここへ来るまでの道のりは手間ですが、案内図や遊歩道など整備されていて大変巡りやすいと思います。
駐車場は無く登城口付近に路駐となります
また、羽茂平野周辺には、この羽茂城を中心に、西方城、清士岡城、岡田城、村山城、須川城、平城と、海に向かって縦深陣地が築かれ、背後には、上山田、飯岡、大崎、滝平等、各支城を配する雄大な布陣が見られます。
羽茂本間氏は、真野地区の吉岡本間の分かれといわれ、南佐渡の拠点としてこの城を構築したとされます。進出の年代は、鎌倉期(1263ころ)から見られ、「飯岡八幡宮棟札一正和2年(1313)」や、「熊野神社棟札一元亨2年(1322)」等に、城主と思われるものの法名や一族の名を残しています。
その後、大蓮寺本尊の木造阿弥陀如来坐像墨書や天満宮河原畠寄進状等の残る応永33年(1426)のころ勢力を張り、熊野権現や八幡宮に棟札を残す対馬守淳季の代(1510ころ)から、天文19年(1550)のころにかけて佐渡を二分する勢力を得ますが、秀吉の天下統一による上野景勝の佐渡攻めのため、天正17年(1589)に落城しました。
従来、羽茂本間氏の定着は清士岡城から始まったとされてきましたが、羽茂町誌によって羽茂平野の中央「城ノ内」とされました。これは、清士岡城では規模が小さいことや、鎌倉末期には山城に拠らず平地に館を構えたこと、「城ノ内」の地が羽茂郷のいかにも中央に位置すること等によるものです。
構築の時期は、天満宮河原畠寄進状や大蓮寺本尊阿弥陀如来像の胎内銘の法名の見える「眞本入道」の壮年期、すなわち、南北朝期から応永年間(1394~1427)であろうと思われます。 昭和52年、町道大谷線工事のため、北の城地区にかかる発掘調査が行なわれ、城内鍛冶跡や建物跡、建物の柱穴跡がさらに北の城跡へ続いていることが知られ、多くの陶器片等が発見されました。