椎谷陣屋(しいやじんや)

椎谷陣屋の基本情報

通称・別名

所在地

新潟県柏崎市椎谷1990

旧国名

越後国

分類・構造

陣屋

天守構造

なし

築城主

堀直央

築城年

正徳5年(1715)

主な改修者

主な城主

堀氏

廃城年

慶応4年(1868)

遺構

井戸、土塁、門

指定文化財

県史跡(椎谷陣屋跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

勝山城(新潟県刈羽郡)[3.1km]
赤田城(新潟県刈羽郡)[7.8km]
小木ノ城(新潟県三島郡)[10.4km]
桝形城(新潟県長岡市)[13.4km]
北条城(新潟県柏崎市)[14.8km]

椎谷陣屋の解説文

椎谷藩(しいやはん)は、越後国刈羽郡椎谷(現在の新潟県柏崎市椎谷)に陣屋を構え、周辺を領有した藩。藩庁は椎谷陣屋に置かれた。

椎谷藩の概要
藩祖は名臣として名高い堀直政の四男・堀直之である。元和2年(1616)7月、直之は大坂の陣による軍功が認められて、越後国沼垂郡に5500石を与えられ、椎谷に陣屋を置いた。直之の後を継いだ堀直景の時代、関東の地に1万石を与えられ、大名となった。元禄11年(1698)、第4代当主・堀直宥が越後の沼垂・三島・蒲原三郡内において1万石を領し、椎谷に居住したのが正式な椎谷藩の始まりである。歴代藩主は江戸定府だった(江戸時代初期、幕府は現在の刈羽郡(旧三島郡)を沼垂郡と呼んでいたことがあり、ここでいう「沼垂郡」とは刈羽郡のことである)。

椎谷藩では第8代藩主・堀著朝の頃になると財政が逼迫した。このため、領民に厳しい御用金や米祖前納金などを命じた。ところが著朝は病弱で、分家の堀直基が実際の政務を代行する。直基は天明の大飢饉が起こったことによる米価の高騰を背景にして、蔵米を競争入札にかける。これに激怒した百姓たちが騒動を起こし、天明義民事件に発展した。この事件は数年間にわたって農民の直訴と藩の弾圧が繰り返され、遂には幕府の裁定を仰ぐに至った。幕府は5回に及ぶ評定の結果、寛政4年(1792)に藩主・著朝の隠居と嗣子として三河西尾藩主・松平乗祐の七男・堀直起を擁立すること、領地5000石の半知替え処分が下された。このとき、信濃国高井郡六川村に六川陣屋が設けられている。

その後、藩内では藩政改革なども行なわれた。しかし嘉永4年(1851)、家老の斎藤八百四郎による藩主・堀之敏暗殺未遂事件が起こるなど、藩政は常に不安定であった。明治元年(1868)の戊辰戦争において、椎谷は北越戦争における激戦の舞台となり、戦禍による甚大な被害を受けた。翌年、藩主・堀之美は版籍奉還により椎谷藩知事となり華族に列した。そして明治4年(1871)の廃藩置県により椎谷藩は廃され、椎谷県が置かれる。藩主家は明治17年(1884)の華族令で子爵に叙されている。

椎谷陣屋の口コミ情報

まー宮内卿様[2017年05月22日]
柏崎市から国道352号線に入りしばらくすると右手に看板有ってそこに四阿があるのでその脇に駐車。ここにかつて大手門があったとあとで知る。その先は住宅地や畑があるのでここに駐車したほうが良い。2台ほど停められる。ここから徒歩すぐに陣屋入口。石段上がると表門跡。建物は戊辰戦争で焼失、土塁残存。上に上がると最近まで家があった模様。陣屋(城趾)石碑が藩邸跡に鎮座する稲荷神社脇にあるが木々に邪魔されて石碑全体が撮れず。蔵や長屋、武家屋敷など住宅地や畑に変わっており当時の状況はわかりません。

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