椎谷陣屋(しいやじんや)
椎谷陣屋の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 新潟県柏崎市椎谷字打越
旧国名
- 越後国
分類・構造
- 陣屋
天守構造
- なし
築城主
- 堀直央
築城年
- 正徳5年(1715)
主な改修者
- -
主な城主
- 堀氏
廃城年
- 慶応4年(1868)
遺構
- 曲輪、土塁、門、井戸
指定文化財
- 県史跡(椎谷陣屋跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
勝山城(新潟県刈羽郡)[3.0km]
赤田城(新潟県刈羽郡)[7.8km]
小木ノ城(新潟県三島郡)[10.4km]
桝形城(新潟県長岡市)[13.4km]
北条城(新潟県柏崎市)[14.8km]
琵琶島城(新潟県柏崎市)[14.9km]
安田城(新潟県柏崎市)[15.0km]
与板城(新潟県長岡市)[17.3km]
本与板城(新潟県長岡市)[18.2km]
島崎城(新潟県長岡市)[18.4km]
椎谷陣屋の解説文
[引用元:Wikipedia「椎谷陣屋」の項目]
椎谷藩(しいやはん)は、越後国刈羽郡椎谷(現在の新潟県柏崎市椎谷)に陣屋を構え、周辺を領有した藩。藩庁は椎谷陣屋に置かれた。
概要
藩祖は名臣として名高い堀直政の四男・堀直之である。元和2年(1616年)7月、直之は大坂の陣による軍功が認められて、越後国沼垂郡に5500石を与えられ、椎谷に陣屋を置いた。直之の跡を継いだ堀直景の時代、関東の地に1万石を与えられ、大名となった(上総苅谷藩・上総八幡藩を参照)。元禄11年(1698年)、第4代当主・堀直宥が越後の沼垂・三島・蒲原三郡内において1万石を領し、椎谷に居住したのが正式な椎谷藩の始まりである。歴代藩主は江戸定府だった(江戸時代初期、幕府は現在の刈羽郡(旧三島郡)を沼垂郡と呼んでいたことがあり、ここでいう「沼垂郡」とは刈羽郡のことである)。
椎谷藩では第8代藩主・堀著朝の頃になると財政が逼迫した。このため、領民に厳しい御用金や米祖前納金などを命じた。ところが著朝は病弱で、分家の堀直基が実際の政務を代行する。直基は天明の大飢饉が起こったことによる米価の高騰を背景にして、蔵米を競争入札にかける。これに激怒した百姓たちが騒動を起こし、天明義民事件に発展した。この事件は数年間にわたって農民の直訴と藩の弾圧が繰り返され、遂には幕府の裁定を仰ぐに至った。幕府は5回に及ぶ評定の結果、寛政4年(1792年)に藩主・著朝の隠居と嗣子として三河西尾藩主・松平乗祐の七男・堀直起を擁立すること、領地5000石の半知替え処分が下された。このとき、信濃国高井郡六川村に六川陣屋が設けられている。
その後、藩内では藩政改革なども行なわれた。しかし嘉永4年(1851年)、家老の斎藤八百四郎による藩主・堀之敏暗殺未遂事件が起こるなど、藩政は常に不安定であった。明治元年(1868年)の戊辰戦争において、椎谷は北越戦争における激戦の舞台となり、戦禍による甚大な被害を受けた。翌年、藩主・堀之美は版籍奉還により椎谷藩知事となり華族に列した。そして明治4年(1871年)の廃藩置県により椎谷藩は廃され、椎谷県が置かれる。藩主家は明治17年(1884年)の華族令で子爵に叙されている。
歴代藩主
譜代、1万石。 1.堀直宥(なおさだ) - 従五位下。式部少輔 2.堀直央(なおなか) - 従五位下。飛騨守 3.堀直恒(なおつね) - 従五位下。遠江守 4.堀直旧(なおひさ) - 従五位下。出雲守 5.堀直喜(なおよし) - 従五位下。飛騨守 6.堀直著(なおあき) - 従五位下。大膳亮 7.堀直宣(なおのぶ) - 従五位下。備前守 8.堀著朝(あきとも) - 従五位下。式部少輔 9.堀直起(なおのり) - 従五位下。近江守 10.堀直温(なおはる) - 従五位下。筑後守 11.堀直哉(なおちか) - 従五位下。近江守 12.堀之敏(ゆきとし) - 従五位下。出雲守 13.堀之美(ゆきよし) - 従五位下。右京亮 → 維新後、先祖の奥田姓にした。
- 堀家
幕末の領地
- 越後国
- 刈羽郡のうち - 21村
- 信濃国
- 水内郡のうち - 2村
- 高井郡のうち - 7村
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椎谷陣屋の口コミ情報
2024年05月28日 順☆散歩征夷大将軍497+23
大崎城[椎谷陣屋 周辺城郭]
GWの時期で既に激藪です。
麓に立派な説明板があるので登城も楽かと思っていたら、廃屋?のところからすでに道が不明瞭でいきなり不安になりました。とにかく草が凄くて地面が全く見えず、途中足を踏み外してプチ滑落。
なんとか道と思われるところを登っていくと、虎口や雛壇状に配置されたいくつかの郭がありました。折れ等は多用されておらず、比較的単純な縄張です。さらに登ると小さな社のある4郭に到達。なぜかここだけ草が少なく眺望も大変素晴らしいです。社の奥には土塁、さらにその奥に堀切があり、苦労してでも来る価値は十分ありました。
ただ、お城界で有名な歴戦の強者の方々も藪に阻まれてここで引き返しており、ネットで調べてもこの先をリアした方が見つかりません。やや不安になりますがとりあえず進みます。
堀切の向こうは二段になっている広い郭。3郭です。ここは胸高~背丈くらいの草をかきわければ進めます。その奥の2郭周辺は溺れそうな激藪で進みにくかったため、郭の左側にある細い土塁を進むことにしたのですが…草で地面は全く見えないのに加え、左側は崖なのでそれなりに危険です。
少し行くと土塁が右に折れていき、この角あたりが城内で一番高い場所なようです。ただ櫓跡にしては狭すぎるので単なる通路なのかな?角を折れて少し行くとようやく主郭と思しき場所に到達。激藪のためほとんど何もわかりませんが、横に1段降りると普通の藪になり、切岸や2段の腰郭が確認できました。頑張ってよかった~と思った瞬間です。
時間的に日没直前だったため自分が確認できたのはここまでですが、縄張図だとさらに先に堀切らしきものもあるので、どなたかのさらに詳しい口コミをお待ちしております。
藪萌え系のメグらーさんには超絶オススメのお城です。
写真1…登城口
写真2…虎口
写真3…段郭
写真4…4郭
写真5…4郭からの眺望
写真6…4郭奥の土塁から堀切を見下ろす
写真7…主郭の比較的見晴らしがいい場所
写真8…主郭切岸と腰郭
2024年05月06日 とりこ武蔵守
椎谷陣屋
国道352号椎谷海浜公園のそばです。椎谷陣屋入口の看板がありますが見落としそうな細い路地です。そこを曲がり少し進むと陣屋への上り石段があり近くに車1台停められるスペースあります。近隣の方が敷地内の手入れをされていたので邪魔にならないよう写真だけ撮りあとにしました。
2021年05月14日 桜井太政大臣静龍
椎谷陣屋
陣屋へ行く道がマップでわかりにくかったので、その1本外回りの華蔵院で住所入力しました。その華蔵院から見えます(笑)こんもりした場所。そこへ行くには
え?!ここ?!ていう民家の敷地かと思うような道に入ります。民家の前に駐車スペースあります。そこから歩いて直ぐです。陣屋跡は行くと、なんとなく整備されてて、説明書を読むと、スゴい勉強になりました。あなどってました。すみません。
352号の道路沿いにも駐車できるスペースはあるので、軽自動車ではない方はそちらへ。今は狛犬がマスクしています。
2020年08月23日 真田上野介信吉
椎谷の馬市蹟[椎谷陣屋 寺社・史跡]
椎谷の馬市は、椎谷藩初代藩主の堀直之公に由来します。
直之公は武勇の誉れ高い武将で、着任早々、良馬の育成と馬匹の改良を奨励し次第に盛んになり、馬市は発展を遂げ、安芸の広島、奥州の白河と共に『日本の三大馬市』とまで言われました。
ー説明板より一部抜粋ー
現在は馬市居小屋と石碑・説明板が往時を偲ばせます。
椎谷陣屋大手門跡からも数十㍍の位置なので、リア攻めの際は是非足を延ばされてみては如何でしょうか。
2017年05月22日 まー刑部卿
椎谷陣屋
柏崎市から国道352号線に入りしばらくすると右手に看板有ってそこに四阿があるのでその脇に駐車。ここにかつて大手門があったとあとで知る。その先は住宅地や畑があるのでここに駐車したほうが良い。2台ほど停められる。ここから徒歩すぐに陣屋入口。石段上がると表門跡。建物は戊辰戦争で焼失、土塁残存。上に上がると最近まで家があった模様。陣屋(城趾)石碑が藩邸跡に鎮座する稲荷神社脇にあるが木々に邪魔されて石碑全体が撮れず。蔵や長屋、武家屋敷など住宅地や畑に変わっており当時の状況はわかりません。