樺沢城(かばのさわじょう)
樺沢城の基本情報
通称・別名
- 樺野沢城、鞠子城
所在地
- 新潟県南魚沼市樺野沢字城山他
旧国名
- 越後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- 長尾政景
主な城主
- 栗林氏、長尾氏、北条氏
廃城年
- 慶長3年(1598)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、畝状竪堀
指定文化財
- 県史跡(樺沢城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
坂戸城(新潟県南魚沼市)[7.7km]
荒戸城(新潟県南魚沼郡)[13.6km]
大井田城(新潟県十日町市)[15.6km]
今井城(新潟県中魚沼郡)[18.8km]
仙当城(長野県下水内郡)[25.8km]
室野城(新潟県十日町市)[25.9km]
岡野町城(新潟県柏崎市)[26.3km]
浅貝寄居城(新潟県南魚沼郡)[26.4km]
下倉山城(新潟県魚沼市)[26.7km]
稗生城(新潟県小千谷市)[31.9km]
樺沢城の解説文
樺沢城の口コミ情報
2021年08月16日 真田上野介信吉
樺沢城
「樺沢城跡」は上越国際スキー場前駅から徒歩5分、越後府中へ通じる栃窪峠、大沢峠を背後に控え、関東の玄関口である三国街道、清水街道の分岐点をおさえる優れた位置にあります。
「御館の乱」では北条軍侵攻の最前基地で上田口攻防の拠点となった古戦場です。
城郭は帯曲輪が二重に取り囲み、中腹以下を三重四重に空堀と土塁が鉢巻き状に取り巻く堅固な築城(囲繞堀)で、県下では他に例がありません。
ー史跡 樺沢城パンフレットよりー
【上杉景勝公生誕の地】
見所は何と言っても九条からなる畝状竪堀で、その内の二条は見事なまでに掘り切っています。現在、畝状竪堀への案内が見当たりませんので、縄張り図とにらめっこしながら進入口を探してみてください。
※ヒントとなりそうな写真をフォトギャラリーに投稿済(7月31日)。
車でのアクセスは、関越道塩沢石打インターより約10分。国道17号沿いガソリンスタンドの信号(上越国際スキー場入口)に大きな案内看板がありますから、あとは上越国際スキー場方面へ道なりに進みます。龍澤寺の相向かい東登口上方が専用駐車場です。
少し離れた場所には馬場跡もあり、東登口に設置のガイドマップ(パンフレット)を参考にゆっくり城周辺を散策するのも楽しいと思います。
2021年07月19日 明石家船上
樺沢城
連続竪堀が、本丸と堀切を隔てて存在します。そこが見所と考える方もいるようです。冬は入れないので、夏に行きますが、マダニに気をつけてください。日本紅熱班、熱性血小板減少症など。長ズボン、長袖がふさわしい服装です。
2019年05月30日 龍馬太閤【懸かり乱れ龍】
樺沢城
V字に切られた堀切☆謙信様の没後「御館の乱」勃発☆上杉景勝と上杉景虎が相続を争う☆景虎の父は北条氏康だった為関東からの援軍で来た小田原北条氏の猛攻により荒戸城と樺沢城を攻略☆
2019年05月30日 龍馬太閤【懸かり乱れ龍】
樺沢城
主郭西側・連続する堀切からの竪堀☆上杉謙信様の越後平定により春日山城の番城に☆関東進出の宿城となる☆
2019年05月30日 龍馬太閤【懸かり乱れ龍】
樺沢城
主郭北側・残雪残る帯郭☆坂戸長尾氏の家臣であった栗林氏によって築かれる☆坂戸城の有力な支城☆
2019年05月30日 龍馬太閤【懸かり乱れ龍】
樺沢城
二の丸より☆(奥)石碑がある所が三の丸☆削平地の切れ目の下は空堀☆2つの郭を遮断する☆
2019年05月07日 龍馬太閤【懸かり乱れ龍】
樺沢城
主郭・西側の連続畝状竪堀群は写真に収まりきれずの全部で8本☆斜面へ一気に落ちる☆樺沢城は上杉謙信が関東進出の宿城に使った城であり上杉景勝の生誕の地☆
2019年04月18日 カーネル
樺沢城
上越線 大沢駅から
改札を出ても、お城は線路を挟んで反対側にありますので、まずは線路に沿って北上します
500m程度進んだところに、御屋敷跡の石碑があります。さらに進むと元屋敷の石碑がありつつ、駅から10分ほどで樺野沢集会センターがある交差点です
ここで左折しますが、ここには中屋敷の石碑があります。線路をくぐると右に龍澤寺で、左に登山口があり、ここには駐車場もあります
お城はくるっと1周できる遊歩道が完備されていて、堀などの案内が充実していて楽しんで歩けます
畝状竪堀に興奮しつつ1周して、来た道を戻り駅へ帰る。100分でした
2015年06月21日 安田大蔵卿秀俊
樺沢城
未だに豪雨による崩落跡が生々しく、登城は一筋縄ではいきません。立ち入り禁止のロープが張ってある箇所も多く、遊歩道から外れずに登る事を推奨します。
2012年05月27日 傾奇揚げ仙兵衛
樺沢城
牧之通りに来たついでに立ち寄ったところ豪雨・豪雪災害で入山禁止でした
標高304メートルの主郭と、それを取り巻く二重の帯曲輪からなる実城を中心に、東へ向かって二ノ郭、三ノ郭が築かれている。実城と二ノ郭、二ノ郭と三ノ郭の間にはそれぞれ長大な空堀を配している。また、南西部には、谷を隔てて西ノ郭を構え、周囲の斜面に二重の横堀を穿ち、南西からの侵攻を阻んでいる。主郭背後に続く尾根には間口21メートルに及ぶ堀切があり、その先に畝状竪堀が並び、さらにその先にある2つの深い空堀で後方を遮断している。城の周囲には、二重ないし三重の空堀と土塁が曲輪群を取り囲むように鉢巻状に巡っている。
主郭の東八合目には胞衣塚(えなづか)と呼ばれる小さな石祠があり、「正徳二年辰四月吉日・椛沢村」と刻まれ、上杉景勝が誕生した時にその胞衣を納めたといわれている。川を挟んで城に隣接する龍澤寺には、上杉謙信の朱印状があり、本尊文殊菩薩は景勝の母親仙桃院(謙信の姉)が寄進したものである。
謙信急死後の「御館の乱」では、景勝と争った景虎(北条氏からの養子)を援けるために国境を越えて侵攻してきた北条軍により荒戸城・直路城に次いで樺沢城も落城し、一時、北条軍の最前線基地(本陣)になった。
御屋敷の南にある観音堂は、寛文年中(1661~73)の開墾時の夥しい遺骨の発掘と埋葬を今に伝えるもので、攻防の激しさを物語っている。
城下麓の「城館」等の屋敷跡は、上越線敷設に伴い一部消失したが、城下周辺には御屋敷、元屋敷、上屋敷、中屋敷、下屋敷等の地名が今に残り、少し下って上田橋、町屋敷、古町、桜町、前屋敷がある。元屋敷に隣接して仙桃院のお花畑跡がある。さらに黒金、綿貫、小泉、宮嶋の名を冠する地名、家臣団の屋敷があった大沢「村の内」に続いて鷹匠屋敷、本倉屋敷が並ぶ。
雪国の風俗文化を描いた『北越雪譜』の著者鈴木牧之は、「永世記録帳」に、「初代鈴木五郎左衛門国宗は、上杉氏に属し北条氏との戦いで戦死、上田庄大儀寺に葬られた。二代右馬頭国計は、樺沢城主栗林肥前守に仕え、三代弥兵衛国宣は、上杉氏の会津国替えに伴った。」と記している。栗林肥前守は最後の城主であり、景勝の後見にもなっている。
慶長3年(1598)、樺沢城跡は上杉景勝会津移封により廃城となった。