田名部城(たなぶじょう)
田名部城の基本情報
通称・別名
- 田名部館、(田名部代官所)
所在地
- 青森県むつ市小川町2
旧国名
- 陸奥国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 赤星五郎
築城年
- 建武元年(1334)
主な改修者
- -
主な城主
- 赤星氏(南部氏家臣)、新田盛政、八戸氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
横浜館(青森県上北郡)[23.5km]
蠣崎城(青森県むつ市)[30.3km]
野辺地城(青森県上北郡)[48.5km]
内沼蝦夷館(青森県上北郡)[49.3km]
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田名部城の解説文
[引用元:Wikipedia「田名部城」の項目]
田名部館(たなぶだて)は、青森県むつ市小川町にあった日本の城。中世から近世の平山城で、二重の空堀が遺構として残っている。館跡は代官山公園として整備されている[1]。
沿革
建武年間(1334年-1338年)の頃、八戸根城の南部師行が家臣の武田修理、赤目五郎を目代として置いたところといわれる。
康正年間(1455年-1457年)、蠣崎城主・蠣崎信純(蠣崎蔵人)が南部氏に背いた際、糠部郡宇曾利郷(下北半島)が蠣崎氏の配下になったため、田名部館も南部氏の攻撃を受けた(蠣崎蔵人の乱)。
乱後に根城(八戸)南部氏家臣・新田盛政が城代となり、その後、八戸氏の属城となる。また慶長年間(1596-1615年)に八戸直政の室、清心尼が田名部北方の女館にいたが、元和3年(1617年)に南部利直が根城南部氏から下北の支配権を接収した。
寛文9年(1672年)のころ、館下の常念寺を代官所としていたが、寛文13年(1673年)頃に、館のある場所に田名部代官所が移されて明治に至る。
戊辰の役後、明治元年(1868年)、南部藩の北郡、三戸郡、二戸郡金田一以北は削封され、翌2年(1869年)、陸奧国3万石として会津藩が移封し斗南藩として田名部に移ったが、明治4年(1871年)に廃藩となった。
参考資料
- 【書籍】「岩手県史 第12巻 年表」
- 【書籍】「むつ市史 近世編」
- 【書籍】「むつ市史 年表編」
- 【書籍】「大畑町史」
- 【書籍】「日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田」
- 【書籍】「角川日本地名大辞典2 青森県」
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田名部城の口コミ情報
2024年04月20日 MACHT征夷大将軍
田名部城
ここが本州最北端になるのでしょうか。ということで記念口コミ。先人の方々が書かれているように、ここはキャンプ場として整備されているようです。ただ公園機能もそのまま残っているようなので駐車場利用や立ち入りも特に制限はないようです。
フェリーの時間との兼ね合いでほとんど散策できていませんが、城マークの辺りには遺構は特になさそうです。ただむつ市の中心部くらいに位置し、主要道路からのアクセスはよいので大間崎や恐山に行く用事があるのなら、ついでに立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
2023年10月02日 佐渡守:ダークスカル
田名部城
キャンプ場になってました。駐車場も有ります。
2021年11月29日 地下城主ひねもぐら武蔵守
田名部城
代官山公園として整備されていました。小高い丘の上ですが、案内が全くありません。細い舗装道を車で上がりましたが、駐車場があるようなないような…工事車両やキャンピングカーが無造作に置かれているし、案内は「代官山公園」の立札のみ。そのままUターンして下りてきました。整備途上なのかな😅?
2020年11月30日 千賀乃介琉球守トークショー
田名部城
本丸よこまで車であがれます。代官山公園です。
2020年11月23日 順☆散歩征夷大将軍497+23
田名部城
少し高くなった丘の上にあります。ここは縄文時代から利用されていたそうで、むつ市の調査ではその頃の道具なども発掘されているそうです。
田名部城は「田名部館」と呼ばれることが多いようですが、江戸時代に代官所がおかれたことから、現在では「代官山公園」として認知されています。むつ商工会議所の横から上がれる道があり、公園内、つまり郭内に駐車場もあります。何年も前から発掘調査が行われており、今もその途中。ロープが張られていて調査が行われている場所には立ち入りできませんが、外から眺めることは可能です。
郭内に土の盛り上がりがあるものの、土塁跡かと言われればやや怪しい。また、北側には二重の空堀があったらしいのですが、行ってみてもその痕跡は明らかではありません。道路があるので堀があったのだろうとは思います。また道路脇に、板塀に囲まれた中に版築土塁があって(見えませんが)、将来公開すると書いてありました。
2020年11月01日 山内弾正少弼通康
田名部城
入口があまり整備されておらず、わかりずらい。案内板には盛岡藩領以降の歴史が記載されている。シンボルの高野槙は江戸時代のもの。