八戸城(はちのへじょう)
八戸城の基本情報
通称・別名
- 八戸陣屋
所在地
- 青森県八戸市内丸(三八城公園)
旧国名
- 陸奥国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 南部利直
築城年
- 寛永4年(1627)
主な改修者
- -
主な城主
- 南部氏
廃城年
- 明治4年(1871)
遺構
- 移築門(角御殿表門)、土塁
指定文化財
- 県重宝(八戸城角御殿表門)、市有形文化財(旧八戸城東門)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
根城(青森県八戸市)[2.5km]
新田城(青森県八戸市)[3.6km]
風張館(青森県八戸市)[4.9km]
櫛引城(青森県八戸市)[6.3km]
尻内城(青森県八戸市)[6.5km]
鮫浦台場(青森県八戸市)[8.3km]
島守館(青森県八戸市)[10.9km]
下田館(青森県上北郡)[13.5km]
剣吉城(青森県三戸郡)[14.6km]
種市城(岩手県九戸郡)[18.3km]
八戸城の解説文
[引用元:Wikipedia「八戸城」の項目]
八戸城(はちのへじょう)は、青森県八戸市にあった日本の城(平山城)。
概要
八戸城は、現在の八戸市内丸に位置し、根城(八戸)南部氏が拠点としていた八戸根城とは全く別個の城郭である。
南部師行が八戸根城を築くのとほぼ同時に根城南部氏2代政長の三男・信助が根城の支城として築いたのが始まりとされ、築城時期・館の位置・規模については不明である。その後、この一族は中館(なかだて)氏を名乗り、居城は中館と呼ばれた。八戸は津軽領と接する要衝であったことから、南部利直は、寛永 4年(1627年)に根城(八戸)南部氏が遠野へ移封されると、中館氏もこれに従い、八戸は南部(盛岡)藩の直轄地として代官支配によって整備を行っていった。
八戸藩が分立されると、初代藩主である直好は諱を直房と改め、新たに居城を築くことなく、三八城山に既にあった盛岡藩時代の建物を引き継いで、館を修築して八戸城として使い、家臣団の編成と城下町の整備に取り組んだ。
城郭は本丸と二の丸から構成される。現在は跡地に三八城神社、三八城公園がある。
歴史
- 寛永4年(1627年) - 八戸城築城。
- 寛文4年(1664年) - 八戸藩成立により藩庁が置かれる。
- 寛文5年(1665年) - 二の丸に馬屋が設けられる。
- 文政10年(1827年) - 南部信真より新御殿の普請が命じられる。
- 文政11年(1828年) - 古御殿の解体工事が行われる。
- 文政12年(1829年) - 新御殿が竣工。二の丸に文武学校が新築される。
- 天保9年(1838年) - 沿岸警備の功が認められ、幕府によって藩主が城主格になり、公式に城と称される。
- 明治4年(1871年) - 廃藩置県により廃城。
- 明治7年(1871年) - 跡地に三八城神社が創建される。
- 昭和8年(1933年) - 道路建設のため、内堀が埋め立てられる。
- 平成6年(1994年) - 三八城公園内で発掘調査が行われる。
城内外の構成
本丸
規模は東西約150メートル・南北200メートル。
現在の三八城神社付近に御殿があった。御殿は藩の役所と藩主の執務場所、居間等の奥部分で構成され、文政12年(1829年)に新御殿が建築された時に奥部分が大きく拡張された。
御殿の北側には御花畑、米蔵があり、南側には書院庭、武器の土蔵があった。天守や隅櫓は計画のみで明治維新を迎えるまで建設されることは無かった。
二の丸
本丸の東南に位置しており、現在の八戸市内丸二丁目・三丁目付近にあたる。角御屋敷(すみやしき)、学校、馬屋が置かれ、法霊社(現在の龗神社)、八戸藩の祈祷寺であった豊山寺、八幡宮があった。その他藩の家老格の中里家・逸見家・船越家の屋敷があった。
なお、明治維新以降に二の丸の八幡宮にちなんで一帯を「八幡町」と改称されたが、昭和33年(1958年)に再び町名を内丸の名称に戻している。
城下町
八戸藩成立以前には既に城の周囲には町が形成されていた。城下の範囲は藩士が増大されるにつれ、徐々に拡大した。西側は当初は廿三日町付近(現在の八戸市廿三日町)が境界線であったが、後に荒町(現在の八戸市荒町)まで広がっている。東側にも足軽屋敷として塩丁(現在の八戸市柏崎付近)などが作られた。
城下町の全体像については「文久改正 八戸御城下略図」(八戸市立図書館蔵)[1] にその様子が絵図として残されている。
城下町の構成は以下の通りである[2]。
- 武家町 - 内丸(二の丸の項を参照)、堀端丁、常海丁、窪丁、番丁(さらに上番町・中番丁・下番丁に区分される)、馬場丁、堤丁、本徒士丁、徒士丁、稲荷丁、上徒士丁、本鍛冶丁、鳥屋部丁、山伏小路、鷹匠小路、長横丁、岩泉丁、柏崎新丁、下組丁、町組丁、常番丁、上組丁、新組丁。
- 町人町 - 新荒町、荒町、廿三日町、十三日町、櫓横丁、三日町、八日町、十八日町、廿八日町、廿一日町、十一日町、朔日町、六日町、十六日町、廿六日町、寺横丁、大工町、鍛冶丁。
遺構
遺構は開発により、一部の建物を除き、土塁や堀跡が部分的に残されているのみとなっている。
- 八戸城角御殿表門 - 青森県重宝。「古桜門」とも言われ、現在は南部会館の表門となっている。昭和53年(1978年)積雪により倒壊したため、修理が行われた。その際に小さな毘沙門天像が発見される。
- 旧八戸城東門 - 八戸市指定文化財。安政8年(1859年)に台風で倒れ、八戸藩の家老に払い下げられたのを機に、根城(現在の八戸市根城)に移築。現在は八戸市根城史跡の広場の入り口となっている。
1874年(明治7年)、城内の物見櫓を堀端町に移築し八戸書籍縦覧所(現在の八戸市立図書館の前身)を開設。八戸城の御殿については、復元模型が八戸市博物館に展示されている。城下町については、大正13年(1924年)の八戸大火や都市開発によりその面影を残すものは皆無ではあるが、八戸市中心街の道路の形状は城下町の道路の大部分を継承している。一方で、軟弱地盤である掘割や溜池を利用して造られた道路も存在する[3]。
参考文献
- 『八戸市史 通史編』八戸市、1976年
- 高島成侑・三浦忠司・著『南部八戸の城下町』伊吉書院、1983年
- 『八戸南部史稿』八戸市、1999年
- 『探訪 八戸の歴史』八戸歴史研究会、2003年
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八戸城の口コミ情報
2024年07月11日 まぁ駿河守
八戸城
八戸市公会堂の横を入って行くと公園の様に八戸城址があります。奥まで行くと高所に城があったことが分かります。
2024年05月05日 さかな
八戸城
本八戸駅からすぐの所に八戸城跡がありました。街中でそこだけが周りより少し高い土地になってました。記念碑のみかな?という印象でした。私は根城と合わせて行きました。
2024年04月17日 安芸守☆焼肉定食☆
八戸城
遺構は確認できませんでしたが、憩いの場として整備されており、登城時には桜が満開でした。
2023年09月09日 やしち右衛門督
八戸城
遺構は見られないですね。ただ散歩するのは景色も良く、気持ちいい公園です。
2023年06月07日 香流尾張守雀士
八戸城
城跡自体は見どころなし。近くにある門のみ。少しガッカリ😞
2023年01月23日 そろり秀左衛門
八戸城
JR本八戸駅から徒歩5分ほどです 今は三八城公園と呼ばれる公園と神社⛩として残っています
2022年10月02日 和泉石狩守
八戸城
本八戸駅すぐそばで見晴らし抜群の憩いの公園となっています。近くの博物館見学も良いかも。
2022年10月01日 加納遠江守
八戸城
リア攻めは八戸市内1日パスが便利です。市役所に隣接しています。表門は道路を挟んだ向かいに鎮座しています。根城を望む西側は4階建くらいの断崖となっています。
2022年04月26日 RED副将軍
八戸城
八戸統治の拠点であった城郭。
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
南北朝時代に根城南部氏2代南部政長の三男である南部信助が、根城の支城として築いたのが始まりとされます。以降、中館氏と名乗り代々、居城とします。1627年、八戸氏が遠野へ移封されると中館氏も従います。
以後は南部氏直轄の支配となり、南部藩初代藩主である南部利直は八戸城を八戸地域の統治の中心としました。1664年、八戸藩成立し、南部直房により藩庁が置かれました。1871年、廃藩置県により廃城。
見所
本丸は三八城公園となり、市街化により遺構はほぼ消失。角御殿表門が南部会館に、八戸城東門が根城史跡の広場にそれぞれ移築されています。
2021年07月26日 Tenshi49
八戸城
JR八戸線本八戸駅から徒歩で八戸市公会堂隣りの三八城公園(みやぎこうえん)を目指す、市公会堂の前には大手門がある。初代城主の南部直房公の銅像がある。また、公園内に八戸城本丸跡の碑がある。
2019年05月06日 織田上総介晃司
八戸城
駐車場はあります。
ただ今回、南部会館に移築された角御殿表門を見るだけだったのでコンビニで買い物して少しだけ停めさせてもらいました。
八戸城東門は根城公園に移築されてます。
2019(令和元年)5月1日の最初のリア攻めが八戸城でした。
「令和」の字を分解すると「八戸市ロ」となり「ハチノヘシロ」となるからです。
ほとんどこじつけですが…
2019年04月28日 さすらい
復元角御殿表門[八戸城 遺構・復元物]
昭和に復元されたようです。南部会館の門として利用されています。
2014年03月30日 泉左衛門尉三八五守皆中神社
八戸城
三八城公園は、で行くと目の前にあるコインパーキングが便利です。
平日昼間なら、城址に隣接する市役所か公会堂の駐車場を利用するのも一考かも(..)
なお、公会堂前には、小説「忍ぶ川」で芥川賞を受賞した、同市出身の三浦哲郎氏の文学記が建立されています。
そのまま旧城下の三日町まで歩くと、同市の実家跡である伊吉書店前で生誕地の碑も見ることが出来ます。
2014年02月09日 泉左衛門尉三八五守皆中神社
八戸城
またまた義経北行伝説にまつわる話です。
八戸城址の東側にある法霊山おがみ神社は、義経の正妻が葬られたとの伝説があるそうです。
この神社は、神明宮、長者山新羅神社と並んで、八戸三社大祭の際、初日の大名行列・山車運行の始点になっています。
そう言えば、ここ20年三社大祭を見ていないな…
2014年01月28日 泉左衛門尉三八五守皆中神社
八戸城
八戸城址内の神社の境内に、弁慶石があります。
平泉を脱したとされる源義経の北行伝説に由来するもので、岩の所々に足跡のようなくぼみがあり、弁慶がつけたとされています。
市内には、他にも義経が居を構えたとされる「高舘」跡など、義経にまつわる地が幾つかあります。
義経は、その後追われて青森県内を北上し、下北半島から北海道へ逃れたとの説もあるようです。