飯詰城(いいづめじょう)
飯詰城の基本情報
通称・別名
- 高楯城、高館城
所在地
- 青森県五所川原市飯詰字福泉
旧国名
- 陸奥国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 藤原景房
築城年
- 興国5年〔南朝〕/康永3年〔北朝〕(1344)
主な改修者
- -
主な城主
- 朝日氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板、城郭風建物(旧史料館)
周辺の城
-
原子城(青森県五所川原市)[6.9km]
高屋敷館(青森県青森市)[12.5km]
新城(青森県青森市)[14.4km]
浪岡城(青森県青森市)[15.2km]
油川城(青森県青森市)[15.3km]
尻八館(青森県青森市)[15.8km]
中里城(青森県北津軽郡)[16.7km]
三世寺館(青森県弘前市)[18.9km]
高田城(青森県青森市)[20.0km]
蓬田城(青森県東津軽郡)[21.4km]
飯詰城の解説文
[引用元:Wikipedia「飯詰城」の項目]
飯詰城(いいづめじょう)は、青森県五所川原市飯詰にあった日本の城(平山城)。
概要
西郭・主郭・東郭からなる平山城である。主郭は、北の糠塚川を堀とし、東西に広がる標高58.8mほどの高台にある。江戸時代の記録にも、「古城二十五間百四十間」(高楯城物語記載の貞永元年絵図)、「一古館 五反七畝歩 三箇所」(陸奥国津軽郡田舎庄飯詰村御検地二冊寄帳)とある。
城主は、寛政5(1793)年に編纂された『津軽編覧日記』の『古城古館之覚』という項に、
一、飯詰村ニ山城有、館主朝日左衛門尉と云(割書)一説朝日佐殿共有
とあるのみである。
(注:『陸奥史談第四輯』では割書を『一説朝日佐藤共有』としている)
歴史
康永3年(興国5・1344年)、万里小路藤房の息子朝日景房が築城したとされる(飯詰村史[1])。その後、朝日氏は浪岡氏に仕えた。天正16年(1588年)、津軽統一をもくろむ大浦為信の攻撃により、落城し、万里小路藤房より十代目の城主朝日行安は自害し、飯詰城は廃城となった。この城には、落城の際の白米伝説(詳しくは朝日行安を参照)や糠塚川に鎧を捨て、逃亡を企てたが、力尽き、主従は自害したという逸話が残っている[2]。なお、「鎧留」の地名はその話に由来するという。また、落城の際に大浦方の道案内をした人物として、対馬右衛門太郎の名を挙げ、尻無方面(五所川原市)から攻め入ったという(方々由緒書)。また、阿部孫三郎信友の名をあげる資料もある(金木郷土史)。
参考文献
- 日本の城郭大系(1980) 新人物往来社 菅英志
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飯詰城の口コミ情報
2023年04月16日 気分爽快豊後守
飯詰城
西郭まで車道がありましたが、普通車には道幅が狭かったので妙竜寺の駐車場に車を停めさせていただき登城。西郭と主郭の間は、堀切で分断されており、主郭の東には大きな堀を確認しました。
①南の腰郭
②西郭
③堀切の北は竪堀となっている
④主郭
⑤東から見た堀切
⑥主郭
⑦東から見た主郭
⑧南から見た堀切
2021年05月04日 tk
飯詰城
津軽為信が津軽を平定する時最後迄抵抗した様です。実際のところ取るに足らない端っこにあるので無視した様です。岩木山の眺望絶佳ですね。
2016年08月12日 カーネル
飯詰城
津軽鉄道 津軽飯詰駅から
駅舎の改札をくぐるところに『高楯城 霊木と梵鐘』の看板があります
駅を背に東へ。T字の交差点で県道26とぶつかる交差点を右に曲がり、すぐに左斜めに入って妙竜寺を目指します
同寺の山門を左手に見ながら車1台ぶんの細い坂道を登ると、説明板があります
坂を折り返して登ると、西の郭(らしい)に天守閣風の公民館(らしい)があり、また折り返して右(東)に行きます
林道に沿って歩くと左手に大きな堀があり、まっすぐに行くと畑の先に鳥居があります
ここから主郭まで道の左右に段状の曲輪(に見えました)があります
主郭の奥に石碑があり、石碑の裏(東)が切岸・堀になっています
かなりの傾斜の切岸には、うっすらと足跡があるので、辿って降りると南北と東に空堀が確認できました。あまり、期待してなかったのですが、凄いよかったです
往復の移動に40分で、見学に40分くらいで、計1時間半弱
歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです