中里城(なかさとじょう)
中里城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 青森県北津軽郡中泊町中里字亀山741他
旧国名
- 陸奥国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 縄文時代〜15世紀
主な改修者
- -
主な城主
- 安東氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸跡、竪穴建物
指定文化財
- 県史跡(中里城遺跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
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福島城(青森県五所川原市)[10.6km]
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平舘台場(青森県東津軽郡)[28.4km]
中里城の解説文
中里城の口コミ情報
2024年01月28日 クルス秋田城介トッツィー
中里城
津軽中里の駅からも比較的近く、冬でなければ行きやすいと思います。主郭にある展望台からの下界の眺めは、なかなかです!
2021年05月04日 tk
中里城
中里城の案内は中里駅から道なりに斎場入口の看板が有り右折車で5分程度です。
2020年10月15日 征夷大将軍クララ姫
中里城
駐車場で城跡公園を清掃されている地元の高齢女性としばし雑談、このお仕事はハローワークで見つけたそうです。最強津軽弁は関西人には理解困難でしたが楽しいひと時でした。城跡整備、ありがとうございます。
2020年10月04日 地下城主ひねもぐら武蔵守
中里城
津軽鉄道の駅から歩くには侮れない距離、車で行ったら駐車場が侮れない場所にありました。すれ違い困難な道の先に10台くらいの駐車場、狭かったら間違えています😅。お城はしっかりした縄張り、展望台が立入禁止なのは残念でした。
2019年06月12日 くらやみ志摩守☘️
中里城
舌状台地の平場を南北に貫く空壕・土塁。どうやら後世の構築らしく、位置的にも意図が判然としないかも… キレイに草刈りされていたので思わず写真を投稿。
2016年05月04日 中務卿一之介
中里城
津軽鉄道のホームページに、中里のガイドマップがあります。手作りのイラストですが、わかりやすく書かれています。周辺のお店情報も載っていますので、ご参考まで。
2016年05月04日 中務卿一之介
中里城
津軽鉄道の津軽中里駅から徒歩15分ほどです。駅を出て右、みちのく銀行前の道を進みますが、①この銀行の駐車場手前の道を進む方法と、②この駐車場を過ぎた神社への参道を進む方法の2通りあります。
①は、住宅地の間の道になっていて、住宅が途切れた少し先の左側に城跡に行く階段があるので、これを昇ります。
②は、参道のいくつかの鳥居を過ぎて神社の本殿の右横の道を進みます。
途中にトイレらしき建物がありましたが、シャッターが閉まっていました。
城跡には物見櫓を模した展望台があり、津軽平野と岩木山を一望できます。
津軽鉄道のアテンダントさんは、積極的に声をかけてくれ、とても気さくで親切でした。中里城は車ではなく、津軽鉄道の利用がオススメです。
中里町の中心部に位置する中里城遺跡は、古くから「館っこ」「お城っこ」として伝えられてきた。「貞享の絵図」(1684年作製・中泊町博物館蔵)、「陸奥国津軽郡田舎庄中里村御検地水帳」(1687年作製・弘前市立図書館蔵)などの記録には、「古城」「古館」という記載が見られることから、少なくとも江戸時代前期には城跡として知られていたことがわかる。
本遺跡に最初の痕跡を残したのは、縄文時代前期(約5,500年前)の人々である。動物を獲るための石製の矢じりや、落とし穴などが発見されており、縄文時代には狩猟の場として利用されていたと考えられる。
平安時代半ば(10世紀中頃:約1,000年前)には、津軽平野の本格的な開拓がはじまり、多くの古代集落が成立した。中里城遺跡においてもそのころの集落(ムラ)跡が確認されている。集落はおよそ100年間断続したと考えられ、カマドや炉をもつ竪穴建物(住居)跡が80軒あまり(一時期10軒程度)発見されている。
後半の時期(11世紀中頃:約900年前)になると、ムラを取り囲むような空壕・土塁・柵列などの区画施設が出現する。このようなムラを「古代防御性集落」と呼び、北海道南部より東北地方北部にかけて数多く分布することが知られている。中里城跡史跡公園は、当時の集落の様子を復元したものである。
室町時代(15世紀前半:約550年前)には、安藤・南部両氏の武力抗争を背景に、城(館)として利用されていたと考えられる。中国製の青磁・白磁ほか日本各地でつくられた陶磁器などが発見されているが、その後まもなく廃城となった。
数多の伝承は当城の主について新関又二郎、高坂修理、中里半四郎などの名を今に伝えている。