清色城(きよしきじょう)
清色城の基本情報
通称・別名
- 清敷城、入来城、入来院城
所在地
- 鹿児島県薩摩川内市入来町浦之名
旧国名
- 薩摩国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 渋谷定心
築城年
- 鎌倉時代中期
主な改修者
- -
主な城主
- 入来院(渋谷)氏、島津氏
廃城年
- 慶長18年(1613)
遺構
- 曲輪[本丸・西之城・中之城・物見之段・松尾城・求聞持城]、土塁、堀切、横堀(空堀)
指定文化財
- 国史跡(清色城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
平佐城(鹿児島県薩摩川内市)[10.7km]
虎居城(鹿児島県薩摩郡)[11.4km]
鶴が岡城(鹿児島県薩摩川内市)[11.7km]
郡山城(鹿児島県鹿児島市)[14.4km]
蒲生城(鹿児島県姶良市)[15.1km]
串木野城(鹿児島県いちき串木野市)[16.1km]
小山田城(鹿児島県鹿児島市)[17.6km]
市来鶴丸城(鹿児島県日置市)[17.7km]
比志島城(鹿児島県鹿児島市)[18.0km]
建昌城(鹿児島県姶良市)[19.6km]
清色城の解説文
[引用元:Wikipedia「清色城」の項目]
清色城(きよしきじょう)は、鹿児島県薩摩川内市入来町浦之名にあった中世の日本の城(山城)。国の史跡。
沿革
薩摩国の有力国人である入来院氏が本拠とした城で、築城年は明らかではないが南北朝時代の頃に原型が出来上がったのではないかと考えられる。一国一城令により廃城となった。
概要
現在の薩摩川内市入来支所の裏山が跡地で、東西750メートル、南北600メートルにわたる尾根上に「本丸」「松尾城」「西之城」「中之城」などの曲輪が設けられていた。曲輪の間はシラス台地を切り取った断崖絶壁の空堀が設けられているのは他の鹿児島県内の中世城郭にも共通する特徴である。
2004年(平成16年)9月30日に国の史跡に指定された[1]。
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清色城の口コミ情報
2024年08月24日 mootze
清色城
2024年8月23日時点では、がけ崩れにより、城内立ち入り禁止です案内所の人の説明では台風時期まで続くとの事です、ご注意下さい
2024年04月13日 とざちゃん越前守
清色城
2024年4月7日時点で本丸に向かう空堀のがけ崩れ(写真)により、入口の堀切と松尾城のみ見学可能でした。復旧状況は入来麓観光案内所まで確認下さい。
2024年02月05日 シゲ越後守豊右衛門
清色城
堀切は、圧巻です。リア攻め価値ありです。結構、急勾配ですので、登城口にある杖を利用するのがbetter。各地に遺構が残っているので楽しめます🤗
2024年01月12日 RED副将軍
清色城
垂直に切り立った切り通しが見事な入来院氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★★
築城年代は不詳。鎌倉時代中期に渋谷定心により築かれたと云われます。
渋谷定心は渋谷氏の庶流で渋谷光重の五男とされます。渋谷光重は1247年の宝治合戦の戦功で得た薩摩国の所領に、家督を継ぐ嫡男以外の子を地頭として下向させ、渋谷定心は入来院地頭となって入来院氏を名乗り土着。代々の居城として築いたのが清色城です。
入来院氏は南北朝時代には南朝方に付き、北朝方の島津氏と対立。清色城を奪われるも島津氏一族の内紛に乗じて和解し清色城を取り戻します。しかしその後も対立と和解を幾度も繰り返します。
1569年に入来院氏は勢力を拡大した島津氏に降り従属します。
1595年、豊臣秀吉が九州を平定し島津氏領内の所領替えが実施され、入来院重時は大隅国湯尾へ転封。
1600年の関ヶ原の戦いにおいて、入来院重時は島津義弘に従い参陣するも討死。嫡男がいなかったため島津義虎の子である久秀が重国と改名し入来院氏を継承しました。
1613年に入来院重国は湯尾から旧領の入来院に転封となり入来麓に館を構え代々続きました。
清色城は1615年の一国一城令により廃城となった様です。
見所
シラス台地特有の深い空堀が堀底道として張り巡らされ、本丸、中之城、松尾城、求聞持城、西之城などの名称が付いた郭群で構成された群郭式山城。
最大の見所は城域入口の垂直に切り立った切り通しであり、幅が約2m、深さは約20mもあり一人が通れるくらいの幅で鉄壁の防御です。
国指定の史跡として整備され、入来麓の観光駐車場を利用できます。周囲には武家屋敷群が広がり見学が可能。
清色城は入来小学校北の道路を西へ入いると登城口があります。
2023年03月28日 たまちゃん
清色城
立入禁止の区域が多いですが、地元の方が階段を作ってくれており、曲輪に登りやすくなっています。
2023年03月27日 惟新斎北見守かなえ
清色城
鹿児島お城跡の中でわりと早く御城印を作った城なので興味が有りました。ガイドさんが色々城や城下町にまつわる事を詳しく解説して下さったので非常に分かりやすかったです。あととにかく登り下りが急勾配で所々ロープを掴まないと登り下り出来ない位の場所があったので軽めの登山でした。特に私達が伺った時は前日が雨で当日も小雨だった為かぬかるんでいて片手に傘を持っていたので大変でした。晴れてたらそこまで気にしなくてよいでしょうけど雨の時はレ傘ではなくレインコートに防水加工されている靴で行かれるのをオススメします。あと入り口の杖は山城に慣れてない方は必ず持ちましょう。
城跡あるあるで城のすぐ横が小学校ですが、外観がお城テイストでお洒落でした。こういう学校で学びたかったなぁ~。
2023年03月07日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
入来麓[清色城 周辺城郭]
鹿児島県の薩摩川内市にある【入来麓】♪江戸時代に造られた外城制度(麓制度)薩摩国、特有の武家屋敷群です♪
薩摩国内に120近くあった麓♪入来麓は中世の清色城の眼下に、蛇行した樋脇川に囲まれた場所に立地します♪
中世の曲線的な道沿いの町並と、近世に拡張整備された格子状の整然とした区画の2つの対照的な景観が広がっています♪
現・大字浦之名と呼ばれる、この地域は古くは清色と称されていました♪江戸時代の慶長18年に浦之名と改称されています♪江戸期には薩摩国薩摩郡入来郷(外城)の内で、村高は『天保郷帳』では4073石余、『旧高旧領』では3258石余、『検地帳』は門高は1532石余、浮免高1559石余となっています♪中世以降の渋谷氏支流・入来院氏の本拠城であった清色城中に入来郷の地頭仮屋が置かれ周囲に麓が形成されました♪入来院氏が代々、領主として統治した浦之名(清色)です♪明治3年(1870年) 29代目当主・入来院公寛の時に、入来領3500石を奉還しています♪
武家屋敷石垣、武家門などが残っています♪
麓南側には『船瀬殿墓』が残ります♪
この船瀬氏は墓所の直ぐ横にある船着場を代々管理した一族の子孫であり、入来院氏からも船瀬殿と呼ばれた程の名家になります♪入来の地は古代より薩摩国府と大隅国府を結ぶ交通の要衝地で船瀬には舟便の発着所が設けられていて、船瀬殿は重要なお役目を任されていたという訳です♪この船瀬殿墓には鎌倉時代から戦国時代にかけての石塔が百基近く並んでいます♪今も川辺を守っていましたよ〜♪
2022年12月10日 戸次豊前守紹運亮幸盛
清色城
入来支所の前に20台以上停められそうな立派な観光用駐車場があります。
そこから歩いて5分ちょっとで清色城の入口に着きますが、時間に余裕があれば先に旧増田家住宅に行くことをオススメします。
というのも、旧増田家住宅では清色城や武家屋敷についてのDVDを無料で観ることが出来るからです。しかもエンドレスのリピート再生ではないので、見たいタイミングで再生ボタンを押して見ることが出来ます。旧増田家住宅から城跡へショートカットはできませんが、10分もあれば城跡の入口に着きます。
さて城跡についてですが、垂直切岸を見る程度でしたら軽装でも大丈夫と思います。それでも虫対策のため長袖長ズボンのほうがいいと思いますが。
しかし、本丸などへ行くにはかなりの急斜面を登ることになります。木製の階段も少ししかなく、シラス台地特有の土質なのか滑りやすく、足場はいいとは言えない状態です。トラロープが張られているので、しっかり握って登り降りしたほうがいいと思います。トレッキングポールよりも両手を自由に使えるようにしていたほうがいいと思います。
2020年12月27日 織田上総介晃司
清色城
観光用駐車場に無料で停めることができます。
武家屋敷の石垣を見ながら山際に進むと登城口になります。
決して登城口付近に駐車しないでください。住民の邪魔になります。
シラス台地を利用した城で各城へ行くのに急峻な道を登るようになります。
ストックを使うか両手を自由に使えるようにするのがいいと思います。
2018年10月17日 薩摩守道雪⚡︎、
清色城
九州では数少ない、城郭符が頂けるお城です。入来麓の観光案内所で頂きました。 向かい側の郷土館には
立派なパンフレットも置いてました。