波川玄蕃城(はかわげんばじょう)
波川玄蕃城の基本情報
通称・別名
- 波川城、葛木城
所在地
- 高知県吾川郡いの町波川
旧国名
- 土佐国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 波川清宗
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 波川氏
廃城年
- -
遺構
- 土塁
指定文化財
- 町史跡(波川玄蕃城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
蓮池城(高知県土佐市)[5.0km]
吉良城(高知県高知市)[5.8km]
朝倉城(高知県高知市)[7.2km]
戸波城(高知県土佐市)[7.7km]
森山城(高知県高知市)[8.1km]
木塚城(高知県高知市)[9.1km]
井口城(高知県高知市)[10.8km]
佐川城(高知県高岡郡)[11.5km]
片岡城(高知県高岡郡)[11.8km]
高知城(高知県高知市)[12.2km]
波川玄蕃城の解説文
波川玄蕃城の口コミ情報
2024年05月23日 筑前守⚔️じあん
波川玄蕃城
リア攻めには電動自転車以上、軽自動車以下を推奨します🏯公衆トイレが併設されている駐車場までスムーズに行けるはずです。ママチャリは全くオススメしません🥵
2024年03月16日 ショウちゃん
波川玄蕃城
波川城は波川玄蕃頭清宗によって築かれた城です。清宗は長宗我部氏に降伏すると、一条氏を滅ぼした功により長宗我部元親の妹を正室に迎え、一門衆となり山路城を与えられました。しかし伊予攻めの際に独断で小早川隆景と和睦したことから元親の怒りを買い、山路城を没収され波川城へ戻されると、その後に謀反を企てたとして討伐されました。ナビ通りに行ったら車で二の丸跡まで行けました。
2023年04月22日 刹那F精鋭渡島守【元親】
麓城[波川玄蕃城 周辺城郭]
波川玄蕃城が築城されるまで土豪波川氏累代の居城であったらしい。
麓城跡は高知バイパス波川IC付近の国道と旧往還路の分岐付近から登城できる。城跡は民家や耕作地となっており、少し注意が必要です。
山麓から比高70~80メートルの丘陵に位置しする。主郭の曲輪は急峻な切岸ととなっており登りにくい。主郭下の帯曲輪西側の連続竪堀がみどころ(少しあまくなっている)北側にも竪堀がありそちらは比較的現状を維持しているみたい。残念ながら耕作地になっており、竪堀などか消滅しているところもある。
2023年04月10日 た〜坊 対馬守
葛懸古城[波川玄蕃城 周辺城郭]
所在地:高知県高岡郡日高村下分
標高:162メートル
比高:120メートル
遺構:土塁、竪堀、堀切
土佐の山城という書籍でも紹介されている城跡です。
2023年04月09日 刹那F精鋭渡島守【元親】
葛懸古城[波川玄蕃城 周辺城郭]
まず、縄張り図が必要で城跡までは鉄塔への道がありますが入口がわかりにくいので探さないといかん。主郭の曲輪は標高162mにあり、ここから東尾根を下がりながら他の曲輪へとつながる。基本的に北側からの攻撃に備えていたと推測できる。主郭は一部腰巻き土塁となっており、櫓台もあったみたいです。主郭西側には5条の畝状竪堀郡かあり、また切岸も数メートルと高い。北側にも畝状竪堀郡があるが薮漕ぎをしなくてはなりません。藪がなければそちらもみどころです。
2021年05月23日 刹那F精鋭渡島守【元親】
波川玄蕃城
主郭までは車で上がれます。途中に急カーブがあり軽四自動車をおすすめします。また雨の日は上らないほうがいいですよ😭
この時期(5月)は蜂🐝に狙われやすく注意が必要です。スニーカーでも可能です。
2018年07月17日 まるき〜陸中守
波川玄蕃城
山頂、主郭部のど真ん中にテレビ局のアンテナ施設があるのは残念ですが周りを2〜3mの高さで土塁が囲んであるのが見所
下段、二ノ丸付近は綺麗に整備されており数カ所にベンチが置かれていて町並みを見下ろせる展望ポイントになっています。
車で行くなら城の手前300メートルくらいの所に車十数台置ける駐車場、トイレもあり、…ですが麓から山頂へ行くまでの道幅がかなり狭く路面が荒れていますので少し覚悟が必要だと思います。(落石、ガードレール無し、回りきれず切り返しが必要なカーブもありましたので…)
いの町本庁舎の方は普段からココに来る人はほとんどいないから大丈夫!と言ってましたけど…(笑
いの町の市街地から西方に山々を望むと、亀の井ホテル高知の向こうにNHKのテレビ塔が立っています。ここは昔、天正年間(1570年頃)に伊野地方で勢力のあった武将、波川玄蕃頭蘇我清宗の城跡で、周り約5.5m、幅約1.5m、高さ2.0mの土塁の跡がほぼ完全な形で残っています。
波川玄蕃清宗は長宗我部元親の妹を妻とし、元親とは義兄弟の間柄です。しかし元親に謀叛を企てたとして、天正8年(1580)、47歳の時に阿州海部(現、徳島県海部町)で切腹をさせられ相果てました。波川の城は清宗の死後、一族が滅ぼされ消滅したと推定されています。
波川玄蕃城は葛木城とも呼ばれ、いわゆる山城です。海抜171mの山上に位置し、周りを土塁で囲み、西北隅および南東に出入口の跡があり、本丸の下段に二の郭があります。
昭和48年(1973)、城跡の発掘調査をした際に、約50㎝掘ったところから、およそ30cm四方の石が現れました。さらに周辺を掘ると、一間(1.8m)に1個の割合で規則正しく並んだ基礎が約30個発見されました。基礎は東西に約9.2m、南北に3.6mの長方形です。これは兵器や食糧などを収納する「多聞」と呼ばれる倉庫の基礎と推定されます。これに柱を立て、板ぶきか草ぶきの屋根を土塁にさしかけていたものと考えられます。
この城の形態によって天正時代の築城の方法がうかがわれますが、こうした山上に埋まった城跡の発掘調査は全国でも少ないため、考古学、中世史、建築史などの点からも、今後一層の研究が期待されるところと言えましょう。
春・秋には地元の小・中学生・ハイキングの人々で賑わい、城跡に立ち、つわものどもの夢のあとを偲ぶもよし、頂上から眺める仁淀川の景観もまた格別です。
参考文献
・『いの町の文化財』ウェブサイト。