吉良城(きらじょう)
吉良城の基本情報
通称・別名
- 吉良峰城、弘岡城
所在地
- 高知県高知市春野町弘岡上
旧国名
- 土佐国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 吉良氏
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 吉良氏、本山氏、吉良親貞(長宗我部氏家臣)
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、畝状竪堀群、屋敷跡
指定文化財
- 市史跡(吉良城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
森山城(高知県高知市)[2.6km]
木塚城(高知県高知市)[3.4km]
蓮池城(高知県土佐市)[4.6km]
朝倉城(高知県高知市)[4.6km]
波川玄蕃城(高知県吾川郡)[5.8km]
井口城(高知県高知市)[7.5km]
潮江城(高知県高知市)[8.3km]
高知城(高知県高知市)[8.7km]
戸波城(高知県土佐市)[9.1km]
浦戸城(高知県高知市)[10.6km]
吉良城の解説文
[引用元:Wikipedia「吉良城」の項目]
吉良城(きらじょう)は、土佐国(現高知県高知市春野町弘岡上)にあった中世の日本の城。 別名吉良峰城。高知市指定史跡[1]。
概要
吉良城は、前方には吾南平野が一望でき、後方には250メートルの吉良ヵ峰がそびえるの要害の城である。土佐南学発祥の地。土佐吉良氏の代々の居城として知られるが、築城年は不明である。築城主は吉良氏と云われる。
歴史
吉良氏は平治の乱の後、土佐に配流された源希義の子孫といわれ、その子、吉良八郎が築いた平山城だと伝えられる。吉良宣常の頃が全盛で、周防から南村梅軒を招き、土佐南学の礎を築くなど文武両道、温和聡明な城主として名が高かった。
吉良宣直が5千貫領し、戦国時代に土佐七雄の1人に数えられた。
天文9年(1540年)本山城を拠点に持つ本山氏は吉良城から僅か10キロメートル北に朝倉城を築いた。それにおそれた宣直は土佐一条家を頼り、一条氏は森山砦を築いて、本山氏に対抗。2月、本山茂辰は宣直が仁淀川で鮎漁に興じる隙を見て奇襲。吉良城は落城し、仁淀川の如来堂で宣直は落命し、名門吉良氏は滅亡した。
吾南を手にした本山氏は吉良姓を名乗り(吉良式部少輔茂辰)、森山、秋山を含めて土佐中央部を支配する。しかし、東方で勢力を拡大した長宗我部氏の勢力に押される。両氏の対立は長浜の戦いの戸ノ本の戦いから始まり、永禄6年(1563年)、本山氏は朝倉城、吉良城から撤退する。長宗我部元親は弟の長宗我部親貞を入城させ、吉良親貞と名乗らせた。しかし、親貞の子で後継の城主となった[2]吉良親実は後継問題で元親の怒りを買い、切腹する。この城は後に元親の子、盛親に与えられたが程なくして、廃城になった。
城跡と山麓の土居跡とされる場所は、旧春野町教育委員会により1984年(昭和59年)から1987年(昭和62年)にかけて発掘調査され(整理作業を含めて5ヵ年計画)[3]、土居跡は明確ではなかったが、曲輪から掘立柱建物跡や柵列状のピットなどの当時の遺構を検出した[4]。
参考文献
- 『四国の城』 深訪ブックス[城8] 小学館 1989年11月10日
- 『日本城郭大系 第15巻 香川・徳島・高知』 新人物往来社 1979年12月15日
- 『吉良城跡Ⅰ』 高知県春野町教育委員会 1985年3月20日
- 『吉良城跡Ⅱ』 高知県春野町教育委員会 1986年3月31日
- 『吉良城跡Ⅲ』 高知県春野町教育委員会 1987年3月31日
- 『吉良城跡Ⅳ』 高知県春野町教育委員会 1988年3月31日
[続きを見る]
吉良城の口コミ情報
2023年05月18日 尼崎城駿河守一口城主
吉良城
5月4日木塚城下城後に県道36号を西方面に吉良城を目指しました。国道56号を超えた辺りで遠景を撮影(写真①)。ところが目的地が見えたと喜び勇んで最短ルートで向かったのが誤りでした。登城口らしき所に到着して登城を試みましたが途中で行き止まりになっていて山頂に辿り着くことが出来ませんでした😢山頂には辿り着けなかったものの山城の雰囲気や痕跡は感じられました(写真②〜⑥)。登り口に引き返したところ、近所の方がいらっしゃったので山頂まで辿り着ける登山口を尋ねてみました。私が登ろうと試みた場所の地名は平岡中(なか)という所だったらしく、広岡上(かみ)の保育園の方から行けば山頂に行けるよとのことでした。ただ質問した時刻がPM6時を過ぎており夜は猪🐗など動物も出るからまたの機会においでとのことでした。近所の方の話によると市町村合併の影響で遺構の状態が昔と変わっていたり無くなった看板もあるとのことでした。帰路、登り口の目印だけでも確認しておこうと広岡上方面に向かって歩いてみたところ写真⑦の<吉良城跡➡︎>の標識を見つけることが出来ました。
登山される方、私みたいに登り口を間違えないように気をつけてください‼️
2022年07月22日 RED副将軍
吉良城
大堀切に、大竪堀と連動した四重堀切が特徴的な高知の名城🏯
オススメ度 ★★★★★
築城年代は不詳。
源頼朝の弟である源希義の末裔の吉良氏によって築かれたと云われます。
ちなみに源希義は、平治の乱で父の源義朝が没すると朝廷により土佐に流罪となっています。
源頼朝の平氏打倒の挙兵に呼応して源希義も挙兵しますが、平家の蓮池家綱と平田俊遠によって年越山で討死しました。
吉良氏は土佐七守護のひとつに数えられ、吾川郡5000貫を支配しました。
1540年、吉良宣直が城を明けた隙に、本山茂辰は奇襲をかけて吉良城は落城。吉良宣直も本山氏に討たれ吉良氏は滅亡。
本山茂辰はその後、吉良氏を名乗り、土佐中央部を支配しましたが、東から勢力を拡大した長宗我部元親の侵攻により朝倉城、吉良城から撤退。
長宗我部元親は弟の長宗我部親貞を入城させ、吉良親貞と名乗らせます。
この様に土佐吉良氏と言っても、源希義流から本山氏流、長宗我部氏流との変遷があり非常にややこしいのです💧
その後、吉良親貞の子である吉良親実は後継問題で長宗我部元親の怒りを買い切腹。しばらくして吉良城も廃城となりました。
見所
城域西側の登城路から登ると、まず畝状竪堀が確認でき、二郭に到達します。
北側へ尾根筋を進むと三郭と主郭を隔てる大堀切があり最大の見所です。かつては竹製の橋が架かってましたが訪城時は崩落してました。
最高所に主郭を置き、北西に伸びた尾根には四重堀切が設けられ、両脇は巨大竪堀が落ちており、圧巻です。
2021年05月25日 刹那F精鋭渡島守【元親】
吉良城
一番の見どころ、大堀切、写真では伝わらない迫力。現地での大きさにただただ感動します!
2020年12月22日 露原壱岐守胤村
吉良城
源頼朝の腹違いの弟吉良希義が蓮池家と平田家に攻め滅ぼされると近藤国平の4男の近藤国盛(大平国盛)が奪還して希義の遺児を補佐した