浦戸城(うらどじょう)

浦戸城の基本情報

通称・別名

所在地

高知県高知市浦戸

旧国名

土佐国

分類・構造

平山城

天守構造

型式不明[3重/1591年頃築/破却(廃城)]

築城主

長宗我部元親

築城年

天正19年(1591)

主な改修者

主な城主

長宗我部氏、山内氏

廃城年

慶長8年(1603)

遺構

曲輪、石垣、天守台跡、土塁、堀切

指定文化財

市史跡(浦戸城天守跡附詰東部及び東南部石垣・石塁)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

潮江城(高知県高知市)[6.8km]
木塚城(高知県高知市)[7.3km]
高知城(高知県高知市)[8.0km]
介良城(高知県高知市)[8.0km]
井口城(高知県高知市)[8.7km]

浦戸城の解説文

浦戸城(うらとじょう)は高知県高知市浦戸の桂浜北部の丘陵にある中世の平山城跡。

概要
元となる城は鎌倉時代〜室町時代初期に既に砦として存在しており、
天文年間(1532年〜1554年)には、土佐の豪族・本山氏の支配下にあった。
永禄3年(1560年)に長宗我部国親が、本山氏から攻略し、その支配下となる。
その後、戦国時代末期、岡豊城を主城としていた国親の子・長宗我部元親は、
天正16年(1588年)大高坂山(現在の高知城がある辺り)に城を移したが水害が多く、
3年後の天正19年(1591年)、浦戸城をそれまでの海からの防衛を主とした山城であったものから、
水陸両面からの防衛を重視した本格的な城郭に改築し、その居城とした。

三層の天守を設け、本丸・二の丸・三の丸・出丸で構成されていた。丘陵北部の浦戸湾岸に城下町を置いた。

慶長4年(1599年)元親が死去し4男・盛親が家督を継ぐ。翌年の慶長5年(1600年)、盛親は関ヶ原の戦いで石田三成方(西軍)に付いたが敗北し、長宗我部氏は改易された。

代わって山内一豊が土佐藩主となるが、一領具足と呼ばれる長宗我部旧臣の抵抗に遭い入国出来ず、10月19日、幕府の命を受けた井伊直政が家臣の鈴木平兵衛・松井武太夫を城の受けとりに赴かせたが、長宗我部氏の旧臣は「浦戸一揆」と呼ばれる50日間に及ぶ頑強な抵抗を行った。結局、策謀によって鎮圧され、城内の273人の遺臣は殺害された。翌年の慶長6年(1601年)1月になってようやく一豊が入城した。しかし、この地では手狭であると感じ、同年8月より高知城建設に着手。慶長8年(1603年)完成し移ったため浦戸城は廃城となった。

現在、遺構と呼ばれるものは殆どなく、本丸石垣の一部が僅かに残り、石碑が建っているのみである。1995年、浦戸城跡に建てられた国民宿舎桂浜荘改築に付随して城跡の発掘調査が行われたが、その結果詰(本丸)付近から出土した瓦の質が岡豊城などの瓦と比較して低いことが判明した。この結果を受けて、浦戸城は朝鮮出兵に備えて築かれた臨時の拠点であり、将来的には大高坂山城に本拠を戻す予定があったとする説も出されている。

参考文献
西ヶ谷恭弘/編 『定本 日本城郭事典』 秋田書店 393−394ページ...

浦戸城の口コミ情報

土佐守土佐っ子様[2016年12月30日]
混雑時には駐車場の警備員さんがおりますが、お城を見に行くと言えば国民宿舎の駐車場に停めさしてくれます。龍馬記念館に行くと下の方になるので少し坂を登ります。まぁ大して違いはないですが。

まるき〜遠江守様[2016年01月02日]
黒潮ライン、海沿いから少し上がった所に坂本龍馬記念館があり、その前に見える石垣は模擬、建物を建てる時に破壊され後に積み直された物。駐車場の端に浦戸城の城跡碑と案内、説明、天守跡への階段があるが車が停まっているとわかりづらい。
歩いてわずか1分、天守跡とされる空間には山祇神社という小さい祠があるのみでした。

近くに一領具足と呼ばれる長宗我部の旧臣が処刑された霊を鎮めるための六地蔵が黒潮ライン沿いにあるので合わせて観ておきたい…


うずら土佐守様[2014年12月23日]
浦戸城跡開発の変遷
明治33年:詰めの段南東下の南、二の段に灯台が移設され、削平される。
昭和32年:観光地化のため道路新設。城跡南斜面が道路に。
昭和33年:展望台建設によって二の段削平。二の下の段に宿泊施設建設。
昭和39年:詰の段に国民宿舎、ヘルスセンター開設。道路の建設のため天守台西斜面下と南斜面下および南東に伸びる尾根が削平。
昭和47年:浦戸大橋と有料道路建設により、二の段西南斜面が削平。
平成3年:ヘルスセンター跡地に龍馬記念館建設。建設途中に遺跡調査が入り、建設工事によりすでに壊されていた遺跡から瓦を発掘。
平成5年:国民宿舎改築工事が行われるにあたり、石垣がいくつか発見される。(すでに以前の開発で壊されていたものもある)石垣はそれぞれ移築して展示、保存展示、埋戻しがなされた。
これまで以上のような観光開発が行われ、城山は一部破壊されている。平成26年12月現在、龍馬記念館の新館建設が予定されている。

清水若狭守龍親様[2013年11月29日]
元親が安芸国虎攻めにあたり、兵力増強に思いついたのが「一領具足」である。一領具足とは屯田兵のことである。平素は田を耕し、城から動員の貝が聞こえわたってくると、クワ・スキを放り出し、その場から出陣していく。具足は一領、馬は替馬なしの一頭で戦場を走り回るため、「一領具足」という呼称ができた。慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦で破れた長宗我部氏は、土佐を取り上げられ、その後山内一豊が入国した。浦戸城明け渡しを拒んだ旧臣の一領具足たちは、重役家臣団と対立して戦い、このとき討ち取られた273人の首は大阪に送られ、胴体は石丸塚として一領具足供養の地に葬られた。この戦いを浦戸一揆という。

清水若狭守龍親様[2013年11月13日]
鎌倉時代から南北朝時代までの間に、在地領主の城館が営まれていたと考えられているが、詳しい起源は不明である。建武三/延元元年(1336)に、この地を巡って南北朝勢力が争ったことが記録に残っている。浦戸城の本格的な中世城郭としての歴史は、北から勢力を伸ばした本山茂宗(梅慶)が、天文年間にこの城を整備したことにはじまる。梅慶は、浦戸湾を挟んで対岸の種崎城に進出した長宗我部と対峙するため、浦戸城を取りたて、長浜城を新たに築いた。永禄三年(1560)、兵糧を積んで種崎城へ向かった長宗我部氏の船が、本山氏側の潮江城の兵に襲われたことから、両氏の関係は悪化し、五月二十七日の長浜戸の本の戦いへと発展した。長宗我部元親の初陣でもあったこの戦いで、長宗我部軍が勝利し、梅慶の子茂辰は浦戸城へ逃げ込んだ。国親は、陸には柵を設け、海には船を並べて浦戸城を包囲した。たちまち城中の兵糧は窮乏したが、国親はやおら囲みを解いて種崎城へ引き上げ、岡豊城へ戻った。囲みを解かれた茂辰も、兵をまとめて朝倉城へ退却した。浦戸城には国親の次男親貞が入ったが、国親はそのまま岡豊城で歿し、跡を元親が継いだ。

June02様[2010年12月02日]
浦戸城近く県道34号線?沿いに、元親公墓所があります。
道路に道標があり、桂浜線路線バスの停留所として、『元親公史蹟趾』名であります。
停留所から10分強だったと思います。

tomm加賀守様[2010年09月13日]
国民宿舎前に看板や移築保存されている石垣があります。
また桂浜に向かう車道沿いにも浦戸城の石碑があります。
桂浜の有料駐車場が嫌な方は、少し歩きますが坂本竜馬記念館の無料駐車場を利用するといいですよ

うつけ者様[2010年08月27日]
今日も太平洋が綺麗だ。
この桂浜から日本の歴史を変えないかんとよ

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