岡豊城(おこうじょう)

岡豊城の基本情報

通称・別名

所在地

高知県南国市岡豊町八幡

旧国名

土佐国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

なし

築城主

長宗我部氏

築城年

13〜14世紀

主な改修者

長宗我部国親

主な城主

長宗我部氏

廃城年

天正19年(1591)

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、井戸

指定文化財

国史跡(岡豊城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

吉田城(高知県南国市)[1.0km]
介良城(高知県高知市)[4.0km]
山田城(高知県香美市)[7.6km]
高知城(高知県高知市)[9.2km]
潮江城(高知県高知市)[9.5km]

岡豊城の解説文

岡豊城(おこうじょう)は高知県南国市にある中世の日本の城(山城)跡で、戦国時代に四国の覇者となった長宗我部氏の居城であった。城跡は国の史跡に指定されている。

概要
高知県南国市街の北西部、香長平野(かちょうへいや)の北西端にあたる、国道32号の西側の岡豊山(標高97メートル)に位置する。戦国時代末期に廃城となり、現在は石垣、曲輪、土塁、空堀、井戸などが残り高知県指定史跡を経て国の史跡として整備されている。また、城址の一角には高知県立歴史民俗資料館がある。

城の縄張りは最高所に本丸に当たる詰(つめ)があり、東に詰下段、二の段、南から西に三の段、四の段、更に西側丘陵に伝厩跡曲輪が配された連郭式の山城である。また、城の北東部には岡豊八幡があった。

沿革
鎌倉時代初期に、信濃より土佐へ移住した長宗我部能俊が、土佐長宗我部氏の始まりであるといわれる。長岡郡宗部郷(現在の南国市岡豊町)に定住した当初は、ただの宗我部氏であったが、隣の香美郡にも別系ながら同じ名字の宗我部氏があったため、それぞれは郡名の一字を付け加え、長宗我部氏と香宗我部氏と名乗るようになった。この頃、長宗我部氏によって築かれたと思われる岡豊城は、調査の結果では13世紀~14世紀の築城年代と考えられている。

室町時代、応仁の乱後の永正4年(1507年)に管領・細川政元が暗殺された以降の細川氏本家では家督・管領職争いの抗争を続けるあまり、その直轄領である土佐でも支配力を低下させてしまう。それが長宗我部氏、本山氏、山田氏、吉良氏、安芸氏、大平氏、津野氏の「土佐七雄」と呼ばれる有力国人の台頭につながり、戦乱の時代の始まりとなった。

七雄の抗争は翌年の永正5年(1508年)に早くも表面化すると、本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍によって岡豊城は落城する。

従来の通説では、この岡豊城攻めの際に当主・長宗我部兼序は自刃、土佐南西部の中村の一条氏のもとに落ち延びていた兼序の子・国親は永正15年(1518年)、一条氏の取り成しで旧領に復し岡豊城に入ったことになっている。

それが近年の研究では、兼序は本山氏などに岡豊城を攻められた際に自害せず土佐国内に亡命しており、永正8年(1511年)に本山氏や山田氏と和睦して岡豊城主に復帰、永正15年頃に息子・国親へ家督を譲ったことが明らかとなっている。 岡豊城を足掛かりに国親は土佐の有力大名へと成長し、一条氏、本山氏、安芸氏とともに土佐を四分するまでになった。

国親の子・元親の時代に長宗我部氏は飛躍した。天正2年(1574年)主家であった一条兼定を豊後に追放し土佐を平定。この城を拠点に天正13年(1585年)には四国を統一した。しかし同年、羽柴秀吉の進攻により降伏し土佐一国に押し込められた。この後、天正16年(1588年)大高坂山城(現在の高知城)に本拠を移したが治水の悪さから再び岡豊を本拠とした。しかし、天正19年(1591年)新たに浦戸城を築いて移った為、長宗我部氏累代の本拠・岡豊城は廃城となった。

昭和60年(1985年)より平成2年(1990年)にかけて、1~6次にわたる発掘調査が行われ史跡整備がなされた。平成20年(2008年)7月28日、国の史跡に指定された。...

岡豊城の口コミ情報

なおちん様[2017年09月22日]
高知県立歴史民俗資料館の無料駐車場やトイレを利用しました。
館内の常設展示はなかなか楽しく、オススメです。
岡豊城に上がる直前の長曾我部元親の像は等身大なんだそうです。

織田左兵衛督晃司様[2017年06月13日]
歴史民俗資料館の駐車場に停めて岡豊城跡へ。

詰(いわゆる本丸)に期間限定の模擬櫓が建てられてます(残念ポイント)

三ノ段の復元石垣と礎石がありますが、礎石はコンクリで固めてあります(残念ポイント)

ですが三ノ段の土塁と四ノ段の虎口は見応えあります。

灰猫☆志摩守様[2017年01月29日]
平成29年4月から約2年間、岡豊城跡、詰に櫓を設置するとのことで、工場期間中(H29.1.16から3.31予定)は詰には立ち入りできません。

尾張守だもんで様[2015年07月20日]
本丸から厩曲輪の間にたくさんの竪堀(歩ける竪堀もあります)を確認できます。横堀(案内板では空堀とされています)もあります。遊歩道が整備されているので安心です。本丸よりも厩曲輪(出城です)の方が眺望は良いので、せっかく来たなら足を延ばしてみてください。
あと、灰皿が多すぎるかな。

まったり丹波守様[2014年11月19日]
遊歩道等の整備により一部破壊されているが西側斜面の遺構は良く残っており見応え有り

清水若狭守龍親様[2013年11月14日]
永禄8年(1565年)、土佐国の戦国大名・長宗我部元親の嫡男として誕生。母は足利義輝の家臣・石谷光政の娘(明智光秀の家臣・斎藤利三の異父妹)。幼少時から聡明であったため父から寵愛され、天正3年(1575年)に元親が中島可之助を使者として織田信長と誼を通じたとき、信長を烏帽子親として信長の「信」を与えられ、「信親」を名乗る。このとき、信長から左文字の銘刀を与えられた。その後は父に従って各地を転戦した。信長没後の天正13年(1585年)、長宗我部氏は豊臣秀吉の四国攻めに降伏し、四国の覇者から転落して豊臣政権配下で土佐一国を領する大名となる。

清水若狭守龍親様[2013年11月07日]
鎌倉時代初期に長宗我部能俊が信濃より土佐へ移住した。これが土佐長宗我部氏の始まりであるといわれる。長宗我部氏は長岡郡宗部郷(現在の南国市岡豊町)に定住し、この時に岡豊城が築かれたものと思われる。調査の結果では築城年代は13世紀~14世紀と考えられている。香美郡にも同じ宗我部氏があり、それぞれの郡名の一字を名乗り長宗我部氏と香宗我部氏が成立した。室町時代、応仁の乱後の永正4年(1507年)土佐守護大名細川氏の本家である管領・細川政元が暗殺され、同時に土佐守護の権力も失墜し戦乱の時代が始まった。長宗我部氏、本山氏、山田氏、吉良氏、安芸氏、大平氏、津野氏の「土佐七雄」と呼ばれる有力国人が台頭した。永正5年(1508年)本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍により岡豊城は落城する。

はせちゃん弾正忠様[2013年03月07日]
3/9 10:00〜
「家老屋敷」にて発掘調査現地説明会が実施されます

明智侍従秀満様[2013年01月15日]
2013年3月31日まで歴史資料館は臨時休業です。

June02様[2010年12月02日]
15年ぶり?ぐらいに行きましたが、美しく変化していたので驚き、「こうだったかな?」と、時間を感じてしまいました。
写真は、空堀趾です。
本丸跡等、散策するのは気軽に出来ます。風景を眺めると、構えた理由が想像出来そうな気分でした。
歴史民族資料館が、跡地内にありますので、駐車は可能です。
今回は、資料館に入館しませんでしたが、2階フロアに岡豊城郭の模型があったと記憶しています。

岡豊城の周辺観光情報

西島園芸団地

南国高知のフルーツが一年中たわわに実っているトロピカルゾーンで、600坪の広さを誇るトロピカルナーセリーでは、200種類の亜熱帯植物が迎えてくれる。メロンとスイカが交替で栽培されていて、もちろん試食(有料)もOK。

詳細はこちら

道の駅南国 風良里

南国インターから車で1分。国道32号線沿いにあり、時計台と南国市の偉人・からくり半蔵にちなんだ「茶運び人形」が出迎えてくれる。お土産の他、カフェレストや農産物直販所も併設。旅の行き帰りに、気軽にふらりと寄ってみて。

情報提供:南国市商工観光課

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