岡豊城(おこうじょう)
岡豊城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 高知県南国市岡豊町八幡
旧国名
- 土佐国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- -
築城主
- 長宗我部氏
築城年
- 13〜14世紀
主な改修者
- 長宗我部国親
主な城主
- 長宗我部氏
廃城年
- 天正19年(1591)
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、畝状竪堀群、井戸
指定文化財
- 国史跡(岡豊城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
吉田城(高知県南国市)[1.0km]
布師田金山城(高知県高知市)[2.5km]
介良城(高知県高知市)[4.0km]
楠目城(高知県香美市)[7.6km]
高知城(高知県高知市)[9.3km]
潮江城(高知県高知市)[9.5km]
香宗我部城(高知県香南市)[10.1km]
井口城(高知県高知市)[10.6km]
浦戸城(高知県高知市)[11.8km]
姫倉城(高知県香南市)[12.9km]
日本100名城・続日本100名城スタンプ情報
番号・名称
- (続)180 岡豊城
設置場所
- 高知県立歴史民俗資料館2F総合案内[地図]
岡豊城の解説文
[引用元:Wikipedia「岡豊城」の項目]
岡豊城(おこうじょう)は、高知県南国市にあった中世の日本の城(山城)。戦国時代に四国の覇者となった長宗我部氏の居城であった。城跡は国の史跡に指定されている。
概要
南国市街の北西部、香長平野(かちょうへいや)の北西端にあたる国道32号の西側の岡豊山(標高97メートル)に位置する。戦国時代末期に廃城となり、現在は石垣、曲輪、土塁、空堀、井戸などが残り高知県指定史跡を経て国の史跡として整備されている。また、城址の一角には高知県立歴史民俗資料館がある。
城の縄張りは最高所に本丸に当たる詰(つめ)があり、東に詰下段、二の段、南から西に三の段、四の段、更に西側丘陵に伝厩跡曲輪が配された連郭式の山城である。また、城の北東部には岡豊八幡があった。
沿革
鎌倉時代初期に、信濃より土佐へ移住した長宗我部能俊が、土佐長宗我部氏の始まりであるといわれる。長岡郡宗部郷(現在の南国市岡豊町)に定住した当初は、ただの宗我部氏であったが、隣の香美郡にも別系ながら同じ名字の宗我部氏があったため、それぞれは郡名の一字を付け加え、長宗我部氏と香宗我部氏と名乗るようになった。この頃、長宗我部氏によって築かれたと思われる岡豊城は、調査の結果では13世紀~14世紀の築城年代と考えられている。
室町時代、応仁の乱後の永正4年(1507年)に管領・細川政元が暗殺された以降の細川氏本家では家督・管領職争いの抗争を続けるあまり、その直轄領である土佐でも支配力を低下させてしまう。それが長宗我部氏、本山氏、山田氏、吉良氏、安芸氏、大平氏、津野氏の「土佐七雄」と呼ばれる有力国人の台頭につながり、戦乱の時代の始まりとなった。
七雄の抗争は翌年の永正5年(1508年)に早くも表面化すると、本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍によって岡豊城は落城する。
従来の通説では、この岡豊城攻めの際に当主・長宗我部兼序は自刃、土佐南西部の中村の一条氏のもとに落ち延びていた兼序の子・国親は永正15年(1518年)、一条氏の取り成しで旧領に復し岡豊城に入ったことになっている。
それが近年の研究では、兼序は本山氏などに岡豊城を攻められた際に自害せず土佐国内に亡命しており、永正8年(1511年)に本山氏や山田氏と和睦して岡豊城主に復帰、永正15年(1518年)頃に息子・国親へ家督を譲ったことが明らかとなっている[1]。岡豊城を足掛かりに国親は土佐の有力大名へと成長し、一条氏、本山氏、安芸氏とともに土佐を四分するまでになった。
国親の子・元親の時代に長宗我部氏は飛躍した。天正2年(1574年)主家であった一条兼定を豊後に追放し土佐を平定。この城を拠点に天正13年(1585年)には四国を統一した。しかし同年、羽柴秀吉の進攻により降伏し土佐一国に押し込められた。この後、天正16年(1588年)大高坂山城(現在の高知城)に本拠を移したが治水の悪さから再び岡豊を本拠とした。しかし、天正19年(1591年)浦戸城を改築して移った為、長宗我部氏累代の本拠・岡豊城は廃城となった。
城跡
城跡は、1955年(昭和30年)2月15日、高知県指定史跡に指定された[2]。また、西側丘陵上の伝厩跡曲輪は1970年(昭和45年)12月16日付で市指定史跡に指定されていた。
1985年(昭和60年)より1990年(平成2年)にかけて、1~6次にわたる発掘調査が行われ史跡整備がなされた。第1次発掘調査では土師質土器、備前焼、瀬戸天目茶碗、青磁、白磁、硯、茶臼、渡来銭、鉄滓等が発見されている[3]。
2008年(平成20年)7月28日、国の史跡に指定された。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(180番)に選定された。また2017年(平成29年)4月1日から2019年(平成31年)2月28日にかけて、詰ノ段に櫓が建てられ公開された。史跡の上に建てられているため仮設で、後に解体予定。
周辺
- 土佐国分寺
- 比江山城(比江)
参考文献
- 松田直則 1986「高知県岡豊城発掘調査概報」『考古学ジャーナル』261号
- 高知県教育委員会 1988『岡豊城跡発掘調査概報(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/10238)』高知県教育委員会
- 【書籍】「定本 日本城郭事典」
- KKベストセラーズ 2012年10月「戦国武将の全国勢力変遷マップ」『歴史人』No.25 p.85
- 現地説明板
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岡豊城の口コミ情報
2024年08月06日 tectec675侍従
岡豊城
歴史民族資料館で地図を頂き、長宗我部元親像脇の登城口から城跡へ。車は資料館横に止めれます。真夏で竪堀は残念ながら草に覆われていました…道は歩きやすいです。ニノ段などからの眺望は最高でした。
2024年05月25日 nonki
岡豊城
高知駅から出てるバスで学校分岐を降りて、坂を登って5分前後で資料館着。案内もあるのでまず迷うことはないと思います。裏手が城趾になってます。
さっと一回りするなら30分位で充分かと。竪堀とかあるが5月下旬だったこともあり、わかりづらかったです。
城趾とは関係ないが御城印の販売はなし。パンフもなかった。100名城スタンプは無料で押せますが、立派な史料館もあるのだからもっと力を入れてもと思った。
2024年05月02日 Aki
岡豊城
長宗我部氏の居城跡になる山城です。駐車場が併設されている歴史民族資料館にあります。2階に長宗我部展示室があり、外に出て岡豊城へ行くルートに槍を持った長宗我部元親像がありますので写真撮影を忘れずに。
2023年10月30日 M氏
岡豊城
よく整備されてて資料館も建ち駐車場も近くにあるので直ぐ本丸跡には行けて山城らしくないが元々はよく考えられた縄張りだ
無数の竪堀、堀切、土塁、石垣で4段に造られていて資料館の反対側はかなりの高低差全部走り回ってヘロヘロにされた
見どころポイントの看板があったので迷わずにすんだ
個人的にあまり口コミは書かないがここは感動したので投稿しました
是非一度訪れて元々の造りを想像して欲しい
原型図の看板もありました
2023年07月23日 noble讃岐守弥勒菩薩
岡豊城
長宗我部元親、かっこいい。歴史民俗資料館から10分くらいで、詰の段まで登れます。
2023年02月25日 尼崎城駿河守一口城主
岡豊城
[散策編及び長宗我部元親公像]
1月5日、登城。岡豊城の園内MAP(写真①)を参考にして散策しました。<詰>という場所が標高97mの岡豊山の頂上部にあるということでした(写真②)。詰では、眼下に国分川が見える場所もあり自分がつい先程進軍してきた所だなと思いながら眺めていました(写真③)。太平洋も望めました(写真④)。散策中、<長宗我部氏岡豊城址>のでかい石碑があったので撮影(写真⑤)。ある程度散策した後、歴史民俗資料館に向かいましたが、長宗我部元親公の飛翔像の後ろ姿と足元に感動してしまいました。階段の上の方から見ると(写真⑥)白地部分が四国の陸地部を表していて、茶色っぽい部分が淡路島や四国に近い本州の陸地部分を表しているのが分かりました。さらに近づいてみると(写真⑦)まさに元親公が足掛かりにして立っている山が地図上での岡豊城(岡豊山)の地点になっていました。ここを起点に四国制覇を目指すぞという若き日の元親公の夢がひしひしと感じられる像になっており、この製作者さんやデザイナーさんの意匠の凄さを感じました。元親公の視線の先ですが、四国の次には畿内を見据えているようにも見えました。(写真⑧)元親公の像、後方から眺めてみるのも新たな発見があり面白いかと思います。
2023年02月25日 尼崎城駿河守一口城主
岡豊城
[進軍編]1月5日、JR土讃線後免駅から徒歩にて登城。道中、地元の方に声を掛けられ目的地を聞かれたので岡豊(おこう)城と答えたところ、わざわざ少し歩いて岡豊城が見える所まで案内してもらい、あの白い建物がある山(写真①)が岡豊城だよと教えて頂きました。目的地が見えたので道中吉田城にも寄り道しながら安心して進みました。
お城に近づいていくとお城の麓には国分川が流れており、天然の川が堀の役目をしていたのかなと思いながら国分川と岡豊橋越しに岡豊城を撮影(写真②③)。岡豊橋を渡って道標(写真④)通りに進むと岡豊城登り口の矢印(写真⑤)があったので矢印の方向に進んでみましたが遊歩道はなく通れそうな所(写真⑥⑦)を山頂目指してただ上だけを見て進みました。(響きは良いかもしれませんがしんどかったです😅)資料館や遊歩道が見えてきた時はホッとしました。(写真⑧)長宗我部氏の山城を攻め登る体験が出来ましたが他の人にはあまりお勧め出来ない登城法でした。
私事ですがこのアプリを始めて初登用したのが長宗我部元親公でその元親公ゆかりの岡豊城が節目の1000城目に攻略した城郭となりました。密かに狙っていたとはいえ正夢になりびっくりしました😆
2023年01月23日 気分爽快陸奥守
岡豊城
小高い山にある城ですが、すぐ近くまで車で行けるので、登城は楽チンです。物見櫓が無くなっていたので詰の土塁がよく見えました。御城印が目的だったので、ありきたりの写真ですが、ご参考になれば。
2022年12月28日 ちょび@右兵衛督
岡豊城
予想していたよりも見晴らしがよかった。川側から登ったが先に資料館見学しマップ貰ってもいいと思います。
2022年11月08日 松永伊予守だんじょー
岡豊城
山城ですが資料館まで車で行け、そこから遊歩道があるので手軽に登りやすいです。山城らしくないと言ってしまえばそれまでですが。。。草が伸びていなければ竪堀が見えて、山城らしくなると思います。
2022年09月12日 副将軍じあん
岡豊城
遊歩道も整備されていて快適に登城できます。ただマムシや蜂に注意との看板が有るので、それなりの対策が必要かと思います。天守跡からは海がみえ眺望も良いです!
2022年01月09日 次郎坊
岡豊城
資料館から登って5分程で到着しました。眺めも良かったです。
2021年11月01日 数珠丸恒次大納言ヒロティー
岡豊城
竪堀や横堀等々遺構が良好に残ってます。腰郭と横堀がうまく連携されてます。
2021年10月10日 副将軍お城エリコ
岡豊城
布師田御殿跡…布師田ふれあいセンターに石碑が建っています。(土佐藩主山内氏が参勤交代で使われた東街道の最初の宿場跡です。)
2021年10月10日 副将軍お城エリコ
岡豊城
布師田金山城…布師田ふれあいセンター裏の山道に登山口が有ります。城主は石谷民部少輔源重信(いしかいみんぶしょうゆうみなもとのしげのぶ)の城跡です。後に久武内蔵助の城となりました。現在は詰めの段、二の段、三の段、四の段、空堀、堀切、曲輪等が残っています。(布師田の未来を考える会の方の作成マップを参考にしました。)
2021年04月19日 土佐香美真乃佐
岡豊城
模擬天守などはないですが、山全体が整備されて遊歩道があり見学しやすいです。残念ながら歴史民族資料館は休館していて入れませんでした‼️
2021年04月11日 水野山城守祐利【7】
岡豊城
本来の登城路であったと言われる南側からのリア攻めをしましたが、専門家の方の案内がなければ下草と畝状竪堀群に阻まれて主郭にたどり着くのは難しいと思われます。
散策路から外れた場所にもたくさんの竪堀群が見られました。
必見は伝厩跡曲輪を巡るようにつけられた横堀と、それを阻むかのようにつけられた竪堀。そして高い土塁。山全体を要塞化した長宗我部氏の本気を垣間見たような気がしました。
この時期に下草が刈られるようで、夏場にはわかりにくい遺構がくっきりとうかびあがっていました。
2021年02月20日 刹那F精鋭渡島守【元親】
岡豊城
岡豊城スタンプラリーは4/18まで延長となりました。休館中の資料館が工期延長の為。今後はアプリのスタンプラリーです。
2020年09月22日 大熊猫左近衛中将慶太郎悌次郎
岡豊城
遺構の保存状態も良く、立札による解説も分かりやすく、リア攻め初心者向きの城跡です。
駐車場→飛翔ノ像→二ノ段→堀切→詰下段→詰→三ノ段→虎口→横堀→四ノ段→竪堀→伝厩跡曲輪→駐車場
の順路で、解説を読みつつ、写真を撮りながら、ゆっくり廻って約2時間です。
途中に何ヵ所か休憩できるベンチや東屋があり、香長平野(高知平野の東部分)の眺望を楽しみながら弁当をひらくのもいいかもしれません。
途中にトイレはありません。出発前に山村民家か資料館本館で済ましておくことをお奨めします。
令和3年2月末までは、歴史民俗資料館本館が改修工事のための臨時休館となっています。そのため隣接する山村民家(旧味元家住宅主家)が臨時の総合案内所となっています。
2020年09月20日 明石右大臣則実
岡豊城
ガイドさんと共にウォーキングしました。
一部、山が造成されている部分もありますが、尾根筋などには三重堀切なども施され、防備が厳重だったことがよくわかります。
また数本の竪堀&横堀が交差している箇所はこれまで見たことがない遺構でした。複雑にする事で敵が攻め込みにくい構造になっています。
詰、二の丸などが有名ですが、それ以外にも見所がある城です。
2020年09月20日 左京進左門
岡豊城
夏場は草が繁茂し、遺構がわかりにくいです。
3月末頃草刈りを行うので、草刈りを行った後が竪堀、横堀などの遺構がはっきり見やすいです。
2020年09月15日 高森内蔵頭権平
岡豊城
長宗我部氏の居城跡。四国の戦国期を代表する山城と言われる。城は、詰、二ノ段、三ノ段、四ノ段を中心とした主郭部と、伝厩跡曲輪や伝家老屋敷曲輪など二箇所を副郭とした城郭と言われる。標高97メートルの小高い丘にあるため、1時間もあれば遺構を巡れる。詰から眼下に広がる平野や国分川を見ていると、元親の四国制覇などへ思いをはせることができる。
2019年11月14日 天道式部卿早雲
登城口[岡豊城 その他]
狭い道ですが、城跡まで近いです。
近くに車はとめられるところはなさそうです。
2019年11月14日 天道式部卿早雲
駐車場[岡豊城 駐車場]
営業時間
博物館9:00-17:00
駐車場7:00-18:00
みたいです。岡豊城に直接行けるので便利です。
2018年02月12日 周防守光虎
岡豊城
岡豊城跡にある高知県立歴史民族資料館から歩いて5分の所に、長宗我部元親の次男香川親和の墓があります。元親さんや信親さんの墓と比べると随分小さかったので、驚きました。目立たず人気がない所なので、物悲しい気持ちになりました。若くして亡くなった親和さんを偲んでいただけたらなと、思いました。
2017年09月22日 なおちん
岡豊城
高知県立歴史民俗資料館の無料駐車場やトイレを利用しました。
館内の常設展示はなかなか楽しく、オススメです。
岡豊城に上がる直前の長曾我部元親の像は等身大なんだそうです。
2017年06月13日 織田上総介晃司
岡豊城
歴史民俗資料館の駐車場に停めて岡豊城跡へ。
詰(いわゆる本丸)に期間限定の模擬櫓が建てられてます(残念ポイント)
三ノ段の復元石垣と礎石がありますが、礎石はコンクリで固めてあります(残念ポイント)
ですが三ノ段の土塁と四ノ段の虎口は見応えあります。
2017年01月29日 灰猫☆上総介
岡豊城
平成29年4月から約2年間、岡豊城跡、詰に櫓を設置するとのことで、工場期間中(H29.1.16から3.31予定)は詰には立ち入りできません。
2014年11月19日 まったり丹波守屋
岡豊城
遊歩道等の整備により一部破壊されているが西側斜面の遺構は良く残っており見応え有り
2013年11月14日 清水若狭守龍親
岡豊城
永禄8年(1565年)、土佐国の戦国大名・長宗我部元親の嫡男として誕生。母は足利義輝の家臣・石谷光政の娘(明智光秀の家臣・斎藤利三の異父妹)。幼少時から聡明であったため父から寵愛され、天正3年(1575年)に元親が中島可之助を使者として織田信長と誼を通じたとき、信長を烏帽子親として信長の「信」を与えられ、「信親」を名乗る。このとき、信長から左文字の銘刀を与えられた。その後は父に従って各地を転戦した。信長没後の天正13年(1585年)、長宗我部氏は豊臣秀吉の四国攻めに降伏し、四国の覇者から転落して豊臣政権配下で土佐一国を領する大名となる。
2013年11月07日 清水若狭守龍親
岡豊城
鎌倉時代初期に長宗我部能俊が信濃より土佐へ移住した。これが土佐長宗我部氏の始まりであるといわれる。長宗我部氏は長岡郡宗部郷(現在の南国市岡豊町)に定住し、この時に岡豊城が築かれたものと思われる。調査の結果では築城年代は13世紀~14世紀と考えられている。香美郡にも同じ宗我部氏があり、それぞれの郡名の一字を名乗り長宗我部氏と香宗我部氏が成立した。室町時代、応仁の乱後の永正4年(1507年)土佐守護大名細川氏の本家である管領・細川政元が暗殺され、同時に土佐守護の権力も失墜し戦乱の時代が始まった。長宗我部氏、本山氏、山田氏、吉良氏、安芸氏、大平氏、津野氏の「土佐七雄」と呼ばれる有力国人が台頭した。永正5年(1508年)本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍により岡豊城は落城する。
2013年03月07日 はせちゃん弾正忠
岡豊城
3/9 10:00〜
「家老屋敷」にて発掘調査現地説明会が実施されます
2013年01月15日 山岡侍従荘七
岡豊城
2013年3月31日まで歴史資料館は臨時休業です。
2010年12月02日 June02
岡豊城
15年ぶり?ぐらいに行きましたが、美しく変化していたので驚き、「こうだったかな?」と、時間を感じてしまいました。
写真は、空堀趾です。
本丸跡等、散策するのは気軽に出来ます。風景を眺めると、構えた理由が想像出来そうな気分でした。
歴史民族資料館が、跡地内にありますので、駐車は可能です。
今回は、資料館に入館しませんでしたが、2階フロアに岡豊城郭の模型があったと記憶しています。
岡豊城の周辺観光情報
南国高知のフルーツが一年中たわわに実っているトロピカルゾーンで、600坪の広さを誇るトロピカルナーセリーでは、200種類の亜熱帯植物が迎えてくれる。メロンとスイカが交替で栽培されていて、もちろん試食(有料)もOK。
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